篠田 左多江

(しのだ・さたえ)

東京家政大学人文学部教授。日本女子大学大学院修了。専門は、日系人の歴史・文学。おもな業績:共編著『日系アメリカ文学雑誌集成』、共著『南北アメリカの日系文化』(人文書院、2007)、共訳『日系人とグローバリゼーション』(人文書院、2006)、共訳『ユリ・コチヤマ回顧録』(彩流社、2010)ほか。

(2011年 2月更新)

culture ja

日系アメリカ文学雑誌研究: 日本語雑誌を中心に

望郷の総合雑誌 - 『ポストン文藝』 その3/8

その2>>

2.『ポストン文藝』の創刊と目的

ポストンで最初に文学活動を開始したのは「ポストン歌会」で、1942年9月に第1回歌会が開かれたという記録がある。開所当時は印刷物の配布が禁止されていたため、歌会を開いても、そこで詠まれた短歌を印刷して配ることさえ許されなかった。

そこで川柳愛好者の矢形渓山と石川凡才(庄蔵)は川柳を書いた大きい紙を週に1、2回メスホール(食堂)入り口に貼り出した。36ヵ所の食堂に貼って歩くのに2日かかったというから、川柳にかける2人の熱意は大変なものだったといえる。2人は人びとが貼り紙の前に足をとめて作品を読んでほほえんだり、批評したりする姿と遠くから眺めて満足したという。これは文学好きの2人が炎熱の収容所に見出したささやかな楽しみであった。

『ポストン文藝』は第1館府で、前に述べた「ポストン歌会」を母体として発足したポストン文芸協会の雑誌である。英語名は『ポストン・ポエトリー』であるから、短詩形文学誌として創刊されたと思われる。『ポストン文藝』は住民の自治組織である統政部に属し、形式上はWRA社会奉仕局長の監督の下に置かれていた。

文芸協会はポストンだけでなく、他の9ヵ所の収容所およびニューメキシコ州サンタフェ、テキサス州クリスタルシティの2ヵ所の抑留所にもメンバーを持ち、1945年の終刊時の名簿には348名が載っている。このうち108名がポストン以外の人びとであった。

編集は創刊号から44年4月号までを松原信雄、有田百(ありた・はげむ)、矢形渓山が担当した。矢形とともに文芸活動を開始した石川は42歳で結婚し、花嫁とともにトゥ-リレイク隔離収容所へ去った。矢形もまたシカゴへの再転住を計画したため44年3月からは島原潮風、45年からは若い帰米二世の重富初枝が加わった。

『ポストン文藝』創刊の目的は、文芸によって収容所の生活になぐさめを見出すことであった。松原信雄は、「巻頭言」(44年7月)の中で、人間が人間らしい生活をするためには肉体の糧と精神の糧が必要で、心を養う糧として文芸はもっとも養分に富んだものであり、収容所の生活には不可欠であると述べている。「たとへ我々は不如意な環境に置かれてゐても、その環境に負けない丈の健全な精神力の養成が必要である。失望の為沈滞せんとする精神を慰籍してくれ、自暴自棄に陥さんとする精神を鼓舞激励して呉れるよき文芸こそ転住所の同胞に最も必要なものである」という彼の主張がこの雑誌の目的である。

質の高い文学の創造を目指した『鉄柵』や、青年に生活の指針を示した『怒濤』に比べると、『ポストン文藝』は広く一般の人びとが楽しめる雑誌であった。松原は和歌山県出身の呼び寄せ一世、戦前は父とともにカリフォルニア州リヴァーサイドでオレンジ農園の監督をしており、文芸とは縁遠い存在であったが、収容所内でものを書く楽しさを知って以来、『ポストン文藝』発行のために毎月奔走したという。彼は自分の「家」の戸口に「日本人、至る所悉く楽土と化さん意気を持つべし」と書いた札を掲げたというが、これは彼の思想をもっともよく表している。

収容所での生活が長引くにつれて所内の雰囲気は悪化した。収容者は忠誠者ばかりだったとはいえ、一世と二世の対立は深刻であった。一世の中にはWRAの人びとと英語を使って親しくつき合う二世を「犬」と呼んで警戒したり、非難する者も多かった。二世は次々と外部へ出て新しい生活を始めるが、取り残される一世は焦燥感にさいなまれた。「巻頭言」もそういった社会状況を反映して変化していく。44年9月になると松原は「他人の欠点や誤りを俎上に乗せてそれを非難し、罵倒したとて何の得る処があろう。結局それは自己の卑劣な心情を告白したにすぎず、第三者から蔑まれるに終わるのである」と述べて、閉塞状況の中でたがいに傷つけあう人びとに反省を促している。「巻頭言」からは人びとに和やかな気持ちを取り戻してほしいと願う編集者たちの気持がうかがえる。

『ポストン文藝』の編集室は先に述べた統政部の中にあった。統政部は一世および二世で構成されていたが、実質はWRAとおもに一世の住民をつなぐ組織であったことから、『ポストン文藝』に係ったのも一世であった。編集室にはつねに多くの一世が入れ替わり立ち替わり顔を出し、たいへん賑わっていたという。彼らはそこで収容所の行政、文芸の話題や世間話などに花を咲かせ、その中から『ポストン文藝』の記事が生まれた。安元時子(中林国子)は編集部の様子を、「編集部見たまま記」(43年5月号)、「判じ絵」(43年6月号)の中でユーモラスに描いている。

編集者の移動や多くの試行錯誤を経て、『ポストン文藝』は次第に充実した雑誌に育っていった。44年6月号から原紙の筆耕を担当したのは一世の瀧井謹平である。彼は非常に達筆で、このときから『ポストン文藝』は大変読みやすく、見た目も整った誌面をもつようになった。毎月100ページ近くの版下を作り続けることは、想像を絶する忍耐と努力を要したと思われる。瀧井は3時間ほど書いては趣味の尺八を吹き、気分を一新して再び書き始めるという具合に、楽しみながら書いたと述べている(終刊号)。

印刷ははじめ仏教会の印刷機を借用していたが、3号目から所内の印刷所で中嶋一が担当した。彼は収容前に印刷会社を経営していたので、その経験を生かして『ポストン文藝』の印刷に没頭した。オフセット印刷、毎号いろいろな人がデザインした表紙は4色刷りで、本文中には写真も掲載されている。この『雑誌集成』は残念ながら色刷りでないのでわからないが、たとえば45年7月号の表紙は、金魚の赤い色が鮮やかで、ぱっと目をひくデザインである。45年になると、印刷は進藤舟水(虎雄)が担当した。進藤は芸術写真家で、ロンドンの国際写真コンテストなどで入選した経験がある。彼は44年8月号の表紙をはじめ、たびたびカットや表紙のデザインを担当した。発行日の前には統政部員と日ごろ編集部に顔を出している常連を合わせて20人ほどが印刷所に集って、人海戦術で製本をしたとのことである。

[inline:poston2.jpg]

その4>>

* 篠田左多江・山本岩夫共編著 『日系アメリカ文学雑誌研究ー日本語雑誌を中心にー』 (不二出版、1998年)からの転載。

続きを読む

culture ja

日系アメリカ文学雑誌研究: 日本語雑誌を中心に

望郷の総合雑誌 - 『ポストン文藝』 その2/8

その1>>

しかし収容者は協力してこの不毛の地を次第に人の住まいらしく変えていった。

まず人びとがしたことは、砂塵を防ぐための植樹であった。砂漠に生えているコットンウッドや柳の一種は厳しい環境に耐える強い生命力をもっていたので、挿し木で簡単に苗を作ることができた。収容者には農家も多かったので、このような作業は得意であった。木ばかりでなく、家の周囲には、デヴィル・グラスという芝草の一種も植えて芝生の代用にした。デヴィル・グラスは根が深く、畑にはびこると除去が難しい嫌われものの雑草であったが、このときばかりは砂嵐を防ぐ貴重な植物となった。さらにいくつかの公園、屋根つきの避暑施設などが造られた。

造園業にたずさわっていた人も多く、公園はその技術の粋を凝らして造られたようで、所内の新聞『ポストン・クロニクル』の日本語版『ポストン新報』にはその紹介の記事が多く見られる。たとえば第3館府のブロック306(収容者は306部落と呼んだ)には宮島風景を模した庭園、ブロック324にはサボテンを集めた「カクタス園」があったという(43年5月8日付)。それぞれのバラックでも趣味の池造りが盛んだったようで、四阿(あずまや)や太鼓橋をしつらえたり滝を流したり、コロラド川の水を利用して大小さまざまな規模の庭園が造られた。そうした工夫は自然の美を愛する日本人ならではと思われる。庭園の写真は『ポストン文藝』(44年5月号)に掲載されている。ここには世界的に知られた日系彫刻家イサム・ノグチが任意で入所していた。彼は人びとが憩うための庭園の設計を携えてWRAへの協力を申し出るが、期待に反してその設計は却下され、ノグチは失望してニューヨークへ去った。

人びとの努力のお陰で、入所1年後には砂嵐もいくぶんおさまって緑の木陰を楽しむことが出来るまでになった。建物はこの地方独特のアドベ(日干レンガ)で建てられた。アドベは土を水でこねて木枠に入れ、天日で干した簡単なもので、多くの一世の男女がこの作業に従事した。このときに収容者の手で建てられた学校の講堂および教室は現在でも残存し、保留地の学校の施設として使用されている。

[inline:poston1.jpg]

暑さをしのぐために収容者は、通信販売や手作りのクーラーを備えるようになった。冬は短かったが、9月末にはオイルストーブが配られて暖房も完備した。他の収容所と同様に1942年5月には農地の開墾も開始された。そこでさまざまな野菜が栽培されたが、とくにキャンタロウプ(オレンジい色の果肉のメロン)やハネデュー・メロンなどが暑い気候に合っていて、多量に収穫されたようである。養豚や養鶏はもちろんコロラド川の水を利用して養魚池を造り、淡水魚の養殖も行われた。

所内には病院や売店もあり、最低の生活を営むに足りる施設は完備していた。日本人にとっては収容所は不足ばかりの耐乏生活であったが、同じ地域に隣接して住む先住民諸部族にとって、収容所の生活は羨むべきものであった。筆者が会った保留地住民の話によれば、収容所が閉鎖されたとき先住民は先を争って収容者が捨てた家具や衣類を拾ったという。彼らは戦前にアリゾナ北部の居住地を追われてポストンへの移動を強いられた。移動させられた点では日系人も同様であるが、先住民はそれ以上に苦しい生活を送っていたのである。

ポストンには野球や映画、ダンスといったアメリカ人なら誰でも楽しむ娯楽があったが、とくに一世にとっての楽しみは「芝居」であった。芝居はおもに歌舞伎で、それぞれの館府には花道を備えた立派な野外劇場が建てられた。器用な人が大道具、小道具を作り、素人でも俳優顔負けの上手な演技をする人がいた。収容所は余暇を楽しむゆとりのなかった芝居好きの人が、水を得た魚のように大活躍することもあった。日本舞踊や浪曲の公演もあり、それらは所内の新聞で早くから宣伝され、多くの人が押しかけて大盛況であった。

生活はいつも平穏であったわけではなく、ここでも一世と二世、二世と帰米二世、忠誠者と不忠誠者との対立があった。いわゆる「騒擾事件」が起きたのはポストンが最初である。1942年11月14日、ひとりの帰米二世が何者かに襲われ、2日後に2人の帰米二世が襲撃犯としてFBIに逮捕された。ところが、襲われた帰米二世は戦前から日系社会で評判の悪い人物であり、人びとへの中傷をWRAに密告しているという噂があった。逆に逮捕されたのはきわめて評判のよい若者であったため、人びとは刑務所を取り囲んで2人の釈放を要求し、それが1週間にわたるストライキとなった。これはのちに「ポストン騒擾事件」として知られた。1943年1月31日には全米日系市民協会の主要メンバーのひとりサブロウ・キドが親米派であるとして、8人から殴打される事件が起こった。戦争遂行のための努力の一環として計画されたカモフラージュネット工場もすぐには受け入れられず、実現までにかなりの時間を要した。

忠誠登録の結果、不忠誠者がトゥ-リレイク隔離収容所へ去ってしまうと、ポストンは平静を取り戻した。再定住のための準備が始まり、東部や中西部への新しい生活を求めて出て行く人びと、外部の農園に季節労働に行く人びと、志願して兵士となり入隊する人びとなど、収容所の人口はつねに流動していった。人口は次第に減少して終戦のころには最高時の半分になっていた。戦死の知らせも届き、収容所で追悼会が催された。人びとが流動して行く中、1945年11月28日に収容所は閉鎖された。

その3>>

* 篠田左多江・山本岩夫共編著 『日系アメリカ文学雑誌研究ー日本語雑誌を中心にー』 (不二出版、1998年)からの転載。

続きを読む

culture ja

日系アメリカ文学雑誌研究: 日本語雑誌を中心に

望郷の総合雑誌 - 『ポストン文藝』 その1/8

ポストン収容所(以下ポストンとする)では二つの文芸雑誌、『ポストン文藝』および『もはべ』が発行された。前者はポストン文芸協会により1943年2月、後者はポストン・ペンクラブによって3月に相次いで創刊された。とくに「ポストン文藝」は全ての収容所の雑誌の中でもっとも早く発行され、収容所が閉鎖になる2ヶ月前まで続いた。3年近く継続して発行された収容所雑誌は『ポストン文藝』のみである。

『若人』『怒濤』のような青年団機関誌、『鉄柵』のような文学誌とは異なり、『ポストン文藝』は一般的な娯楽雑誌の要素をもつ。さらに前述の3誌と異なる点は、帰米二世ではなく呼び寄せ(先に父が移民として渡り、のちに呼び寄せた子)を含む一世が中心となっていること、文学だけでなく、漫画から芸術論にいたるまで雑多な内容を含んでいることである。3誌が文学の創造、青年たちの啓蒙という高い目標を掲げているのに対し、「ポストン文藝」は気軽に楽しめる肩の凝らない総合雑誌であった。

『ポストン文藝』が1943年2月から45年9月まで毎月発行されているとすれば、全部で32冊になるはずである。しかし準備が遅れて発行されなかった月があると思われる。つまり32冊ではなく26、7冊しか出ていなかったのではないかと推定される。たとえば44年4月号は編集者の移動で5月に発行され、7月号は5、6月合併号となっていて、4ヶ月間に2冊しか発行されていない。『ポストン文藝』の収集は難航し、全ての雑誌を集めることはできなかったので、残念ながら何冊発行されたかを明らかにすることはできない。特に創刊号をはじめ、1943年度のものは完全には入手することができなかった。1945年のものはいくらか重複して残っている。これは初期に発行されたものが失われてしまい、収容所閉鎖の時に手元にあった雑誌を思い出として大切に持って出たためではないかと思われる。

『ポストン文藝』は前述のように娯楽雑誌の要素が強かったことから、他の収容所にも多くの読者をもっていたと推測できる。かつて文芸協会のメンバーであった外川明はその著書『蜜蜂のうた』(私家版、1962年)の中で、また重富初枝は『ポストンものがたり』(松蔭女子学院短期大学、1992年)で『ポストン文藝』について述べているが、いずれも私家版あるため、あまり多くの人の目にふれることはなかった。

一方の『もはべ』は、短歌・俳句を中心とした雑誌で、楠瀬正巳という60代の一世が短歌を書き、1944年3月にトゥ-リレイク隔離収容所に移るまでの1年間、ほぼひとりで編集した。 変体仮名で書かれた謄写版刷りの本文はたいへん読みにくく、『ポストン文藝』に比べると多少見劣りがするが、誌面からは制作者の熱意が伝わって来る。『もはべ』と『ポストン文藝』の間では交流があり、「もはべ俳壇」というページが設けられて『もはべ』の俳句が転載されている。『もはべ』は、『ジャパンタイムズ』元編集長村田聖明の回想録『最後の留学生』(図書出版社、1981年)の中で紹介されている。

1. ポストン収容所の生活

ポストン収容所の正式名称はコロラド・リヴァー戦時転住所で、カリフォニアとアリゾナの州境近くのコロラド・リヴァー・インディアン保留地の中にあった。このあたりはかつて先住民モハベ族の居住地であったが、当時彼らは少数で、保留地には北部から移動させられたナヴァホ族系の人びとが多く住んでいた。ポストンというのは略称で、南北戦争の頃アリゾナ州の先住民対策の責任者であったチャールド・ポストン大佐の名に由来するという。

WRA(戦時転住局)の管轄する収容所としてはもっとも早く設置され、1943年まではWRAよりもむしろインディアン総務局が中心となって監理した。収容所はユニット1、2、3の3地域に分かれており、ユニット1は最寄りのパーカー駅の南18キロの所にあって1万名を収容することができた。ユニット2、3はそれぞれ定員が5,000名で、同駅から32キロ、37キロの地点にあった。収容所はユニット1、2、3を第1館府(キャンプ)、第2館府、第3館府と呼んでいた。全体でほぼ2万名を収容できるこの収容所は、10ヶ所の収容所の中で最大規模であった。

収容所はモハベ砂漠の中にある。夏の最高気温は摂氏50度近く、冬は零度まで下がることもあり、夏冬の温度差が激しい。タルカムパウダー状の土壌は、風が吹けば砂嵐となって一寸先も見えなくなり、バラックに容赦なく吹き込んで室内はたちまち砂が積もったという。砂嵐の猛威は「風うなり つなみの如く打つ砂に 建つバラックも 見えつかくれつ」(歌集『ちぎれ雲』日本文芸社、1965年)という一世の風戸登代の短歌によく表されている。一帯は木といえばメスキート、草はセイジブラッシュしか生えていない荒涼とした風景であった。夏の暑さは耐えがたく、ポストンは「猛暑」の代名詞となった。

1942年5月8日最初の立退き者が到着して以来、多くの人びとが南カリフォルニア、フレズノ、カーンなどのサンウォーキン平原地方、サクラメント、南アリゾナから仮収容所を経ずに直接送り込まれた。サンウォーキンなどの熱さに慣れた人びとでも、摂氏45度という気温に加えて砂嵐、サソリやガラガラ蛇(収容者は「鈴蛇」と呼んだ)などの襲来には閉口したようである。村田聖明は「真夏の平均気温43度というモハベ砂漠はまさに焦熱地獄であった。バラックの日陰から日なたに出ると、ガスがまのフタを開いたときのような熱気が顔を襲った」(『最後の留学生』、120ページ)と書いている。筆者は真夏にこの地を訪れたが、現在の収容所跡地は緑の農地に変っているとはいえ、屋外ではほんの数分しか立っていられないほどの目もくらむ暑さであった。

その2>>

* 篠田左多江・山本岩夫共編著 『日系アメリカ文学雑誌研究ー日本語雑誌を中心にー』 (不二出版、1998年)からの転載。

続きを読む

culture ja

日系アメリカ文学雑誌研究: 日本語雑誌を中心に

『鉄柵』 発展途上の帰米二世の文学 -その6/6

>>その5

4.『鉄柵』の特色と果たした役割

『鉄柵』の特色は、第一に一世の指導の下に創られた帰米二世の文学同人誌であること。加川文一、泊良彦など戦前から詩人や歌人として評価を得ている一世が指導的立場にいて、主力は帰米二世の若者たちであった。彼らはきわめて身軽な独身者で、ある意味では収容所を読書と思索、創作の場とすることができた。この時期は日系社会の主導権が一世から二世へと移行した時代であるが、この世代交代は文学の世界でも同様で、一世の指導のもとに帰米二世という新しい世代の台頭を促したのが『鉄柵』であった。

第二に水準を設けて掲載作品の選考を行ったこと。「お高くとまっている」などと悪口を言われながらも、水準に満たない作品の掲載を断ることで、文学作品の質を高めようとした。同人は各号が出るごとに合評会を開いてお互いの作品を批評しあった。したがって同人はつねに作品を向上させようと努力した。他の収容所雑誌では、持ち込まれた原稿はほぼすべて掲載された。選択をした場合、その基準は文学的な質の高さではなく、監理当局の方針に合うか否かであったが、ここでは暇つぶしに書いた駄文は排除された。

第三に同人の数が少なく、一人が多くの力作を載せていること。短詩型文学を除いて、作品を書いているのは男子が多い。

第四に作品のテーマは収容所生活に限られていること。他の雑誌に必ず見られる日本で過ごした日々への追憶・郷愁といったテーマは、ここではほとんど見当たらない。同人は真剣に収容所の現実を直視していた。加川文一は随筆「つまらぬもの」(第3号)のなかで、収容所には日本人が従来文学のテーマとして求めてきた自然の美がほとんど存在しないが、一見「つまらぬの」として既成の価値観では認めえなかったもののなかに文学のテーマを探りあてていくべきだと説いている。つまり美しい花がなければ詩が書けないというのでは、収容所文学は成立しない。同人は加川の提唱したこのような考え方を心に留めながら創作に励んだ。収容所の生活にテーマを求めたことは同時に、同人が自分たちの文学は日本文学の模倣ではなく、日本移民文学なのだと自覚していた証拠でもある。加川は、創刊号の「巻頭言」で、この文学活動は「移民地に最後の花をさかせてゐる」と述べている。とくに帰米二世たちは、日本へ行く前になんとかしてアメリカに自分たちの文学を残そうという気持ちにつき動かされながら書いたと思われる。

「移民地に最後の花」という言葉から、加川は日本へ帰るつもりであったと推測できる。しかし戦争が終わると加川夫妻はアメリカに留まった。『鉄柵』に係わった人びとのなかで実際に日本へ帰ったのは、泊、水戸川、小谷くらいであった。山城はニューヨーク、河合はシカゴと同人は一時中西部や東部へ行ったが最終的にはカリフォルニアへ戻った。野沢と藤田はテキサス州クリスタルシティの抑留所を経て、やはりカリフォルニアへ帰った。

その後、同人たちは生活再建に必死で、作品を書くどころではなかった。ようやく生活が落ち着いた1956年、藤田など『鉄柵』同人が中心となってロサンジェルスに「十人会」という文芸人の集まりが発足した。「十人会」は雑誌を創らず、『羅府新報』の文芸欄に投稿した。そのころ野沢が『羅府新報』に入社しており、文芸欄を充実させようと張り切っていた。当時、この新聞には短詩型文学のほか「置き時計」という随筆欄と加川が担当する「木曜随想」があった。「十人会」は「南加文芸会」となって発展的に解消した。

1965年、「南加文芸会」の人びとの努力が実り、本格的な文学同人誌『南加文藝』が誕生する。『南加文藝』を創刊した人びとの大多数は、かつての『鉄柵』同人であった。日本へ去った水戸川もふたたび帰米して第2号から登場した。『南加文藝』は1986年に特別号を出して活動を終えるまで20年間も続き、日系アメリカ文学の歴史に多大の業績を残した。

『鉄柵』同人のなかで、『南加文藝』に加わった人は、加川文一、桐田しづ、藤田晃、山城正雄、水戸川光雄、野沢襄二、矢野喜代土、外川明、伊藤正、谷崎不二夫、矢尾嘉夫であった。のちに藤田は小説『農地の光景』、『立退きの季節』を、山城は随筆集『遠い対岸』および『帰米二世』を日本で出版し注目を浴びた。第5号から鉄筆を担当した帰米二世加屋良晴は、『南加文藝』でも創刊号から最後まで鉄筆を担当し、編集長も兼任した。農園労働に明け暮れて文学に縁遠かった加屋は、『鉄柵』と出会ってはじめて文芸誌を創る楽しさを知った。加屋のその後の人生は『鉄柵』との出会いによって大きく変化したのである。

収容所内で『鉄柵』同人が生みの苦しみを味わいながら習作を書き、お互いに競い合って優れた作品を創り出そうとした努力は、戦後の帰米二世文学隆盛期の土台となったのである。強制収容は不幸なことであったが、日系文学にとっては幸いな時期であったといえるかもしれない。『鉄柵』は若い帰米二世の作家を育て、ほかのアメリカ文学に例を見ない帰米二世文学を生み出したのである。

* 篠田左多江・山本岩夫共編著 『日系アメリカ文学雑誌研究ー日本語雑誌を中心にー』 (不二出版、1998年)からの転載。

続きを読む

culture ja

日系アメリカ文学雑誌研究: 日本語雑誌を中心に

『鉄柵』 発展途上の帰米二世の文学 -その5/6

>>その4

井阿之雨という変ったペンネームで書いているのは、戦後長い間ロサンジェルスの日系新聞『羅府新報』の編集長を勤めた帰米二世の矢野喜代士である。矢野の戦前のペンネームは創刊号で使っている丸山定夫であったが、収容所ではアメリカ人がYANOを発音するときの「イアノウ」を漢字にあてはめて井阿之雨としたのだという。

「終身教室」(第3・4号)、「ジャーナリズムに現はれた精神分析」(第6号)、「常識と文化」(第8号)、「直観について」(第8号)、および丸山の名で短編小説「智識人の責任」(創刊号)がある。このなかで「智識人の責任」は無責任なうわさがうわさを呼び、流言蜚語が飛び交う収容所で争いの仲裁をしたり相談にのったり、まとめ役をつとめているブロックマネジャーが主人公である。彼はそんな役目にすっかり嫌気がさして、仕事を投げ出して逃避したい気持ちにかられるが、最後には知識人として自分の役割を自覚するというストーリーである。面倒な問題には係わらないとして逃げてしまう収容所の知識人の覚醒を促す佳作である。

異色の存在は大山空夫および大山澄夫で、いずれも小谷真寿夫のペンネームである。小谷は細胞学専攻の生物学博士で、日系人学者として有名であった。大山の名で「パチンコと子供」(第6号)、大空の名で「科学思想二つ」(第8号)の2篇の随想がある。

市場美志恵は純二世としてはめずらしく日本語に堪能で、創刊号の「綴りかた教室」に吉屋信子の『花物語』の感想文を載せているほか、「風が吹いてくると」・「停電」(第4号)、「去年」(第6号)、「早春」・「風の日」(第8号)、「同情」(第9号)の6篇の詩を書いている。

桐田しづは加山文一夫人で短歌の作品が主であるが、ただひとつの随筆「たんぽぽの鉢植」(第7号)がある。マンザナーから来た桐田は、そこの自然がいかに美しかったか、収容者が努力をして花や木を植えたかを語り、それに比べるとトゥーリレイクがいかに自然の美しさの乏しい所であるかを述べている。彼女は、たんぽぽを鉢植えにして楽しむ。普通なら踏みつけて平気でいるようなありふれた野の花だが、殺伐とした環境におかれて初めて、彼女はたんぽぽの美しさやそれをいとおしむ心を知ったという。桐田の優しさが感じられる味わいの深い佳作である。

千代田学はのちに『カリフォルニア州強制収容所』を著した白井昇のペンネームである。白井は1907年に広島県で生まれ、広島高等師範学校を卒業した。1934年に渡米して、カラマズー大学を卒業、さらにスタンフォード大学大学院を修了した。

彼は「深夜私囁」(第4号、第6号)と題して2回にわたり、収容所内部の問題を提起している。白井は特に日本精神という名のもとに個性を失って考えることを放棄し、集団行動のなかに取り込まれていく若者やトラブルに巻き込まれたくない一心で、無関心、逃避を決め込む知識人などを案じている。彼自身は一世であるが、日本の軍国主義を賛美するのではなく、距離を保って状況を冷静にとらえている。エリートらしく理路整然とした評論である。

そのほか「下駄」(創刊号)の咲春枝は、カリフォルニア出身の帰米二世で、戦前は『加州毎日』新聞に寄稿していた。詩「母のをしへ」(第6号)、「心のふるさと」(第7号)の白井園子は広島県で教育を受けた帰米二世である。「母の行路」(第6号)の谷ユリ子は本名を板谷幸子という帰米二世である。

『鉄柵』に書いている人びとがすべて不忠誠であったわけではない。トゥーリレイク以外の収容所などから寄稿している人もわずかながら存在する。「父も引っぱられた」(第2号)を書いている谷崎不二夫は、熊本県出身の帰米二世で、3人の編集者の高校の同級生である。彼は忠誠を表明してマンザナー収容所にいたが、のちに陸軍情報兵としてインドで対日工作を行った。この作品はマンザナーからの寄稿である。

雪村圭三は山城正雄の弟だが、兄とは別の道を選択して忠誠を表明し、志願兵として従軍した。詩「海辺」(第6号)はオーストラリアの戦場から送られた。その点でこの詩は『鉄柵』のなかでも特殊である。しかし内容は普遍的で、誰もがもつ懐かしい心の故里への望郷の思いを表現した詩と理解することができる。しかし、帰米二世の志願兵である雪村が「故国」というとき、アメリカなのかそれとも幼い日々を過ごした沖縄なのか、それはわからない。素朴な詩のなかに帰米二世の苦悩が読み取れる。

外川明は1903年に山梨県で生まれた呼び寄せ一世で、戦前から詩を書いていた。彼は忠誠を表明してポストン収容所にいたが、創刊号に「偉さと云ふこと」という随想を寄せている。ポストン収容所では『ポストン文藝』が発行され、外川も参加していたが、収容所の間で文芸誌の交換が行われ、お互いに作品の交流があったことがわかる。

短詩型文学の分野では短歌と俳句が掲載されている。短歌の中心的存在は1887年生まれの一世歌人・泊良彦で、「高原短歌会」を組織して指導にあたっていた。このグループにはトゥーリレイクだけでなくすべての収容所の人びとが加わっており、郵送された歌を泊が選んで掲載した。トゥーリレイクでは泊の主宰する短歌誌『高原』が発行されていたので、『鉄柵』に発表された短歌の歌はあまり多くない。俳句はトゥーリレイク全体で4つのグループがあったが、『鉄柵』には一世の森山一空を中心とした「鮑ヶ丘俳句会」、伊奈いたるの指導する「鶴嶺湖吟社」が作品を載せている。他の収容所の雑誌と比較すると俳句の数が少ない。

子供たちの作文は文章がしっかりと書けていていずれも優等生の作文らしい。「私の菜園」・「私のすきな鳥」(第5号)のように収容所の生活のなかに見出した小さな楽しみや「イサム」・「さんぱつ」(第9号)のように生活のひとこまをほほえましく描いたものが多い。一方、「僕の犬」(第4号)、「犬の思い出」(第5号)は家族の一員であった可愛い犬を手放さなければならなかったつらい気持ちを書いたもので、読む者の胸が痛む。立退きに際して人びとは、飼っていた動物を連れて行くことは許されなかった。多くの人は泣く泣く動物を処分するか、知人に預けるかを選択した。これらの作文は強制収容という経験が幼い子供たちの心をいかに傷つけたかを教えてくれる。

その6>>

* 篠田左多江・山本岩夫共編著 『日系アメリカ文学雑誌研究ー日本語雑誌を中心にー』 (不二出版、1998年)からの転載。

続きを読む

この筆者が寄稿しているシリーズ