Sataye Shinoda

東京家政大学人文学部教授。日本女子大学大学院修了。専門は、日系人の歴史・文学。おもな業績:共編著『日系アメリカ文学雑誌集成』、共著『南北アメリカの日系文化』(人文書院、2007)、共訳『日系人とグローバリゼーション』(人文書院、2006)、共訳『ユリ・コチヤマ回顧録』(彩流社、2010)ほか。

(2011年 2月更新)

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日系アメリカ文学雑誌研究: 日本語雑誌を中心に

『南加文藝』-ロサンゼルスに根づいた文芸誌 -その5/5

その4>>

4. 終刊までの経緯と『南加文藝』が果した役割

創刊号は200部発行されたが、発行部数は次第に増えて第21号から25号までは倍の420部になった。藤田を中心にした熱心な合評会も毎号欠かさず開かれていた。

1981年、30号を記念して東京のれんが書房新社から『南加文芸選集』が出版された。発行部数は1,000部、この中には1965年から80年までに発表されたものの中の秀作が収められている。去った山城、野本もこの時にはすでに和解しており、二人の評論も含まれている。日本で発行されたことは、アメリカでこのような日本語の文学同人誌が続いていることを日本人に知らしめた。日本の伝統から離れることで新しさを求める現代日本の作家の作品から日本人は異国を感じ、逆に日系人の作品から日本を感じるという書評があり(『読売新聞』82年11月18日付)、日系人の作品が日本らしさをとどめているのはなぜかと論じられた。しかしこの本は私家版で流通に限界があり、日本で出版されながら一般の日本人の手にはいらないという結果になった。

『南加文藝』はこの選集を最後に歴史を閉じるはずであった。事務局をつとめていた加屋良晴の体力が限界にきたという理由である。60歳を過ぎた加屋には徹夜で謄写版の原紙を切る体力はなかった。原稿も以前ほど集らなくなったと藤田は気をもんで、いくども編集後記で訴えた。古くからの有力な同人は老齢に達して、ひとり、ふたりと幽明境を異にしていった。

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ワードプロセッサの時代になっているのに謄写版を使っているのもいかにも古めかしく、変らぬ体制で続けて行くことは難しいと同人の誰もが感じていた。日系新聞紙上で終刊が発表されると、人びとの間から惜しむ声が高まった。同人は改めて15年という歳月の重みを感じ、安易に終わらせてはならないと考え、無理をせず年1回の発行に変えた。それから5年、1985年の第35号でついに終刊となった。発行からすでに20年が過ぎ、編集委員も藤田、山中、加屋の3人だけになっていた。

20年もの長い期間にわたって発行された同人誌は、日本でもあまり例を見ない。これはひとえに同人たちの熱意があったからこそ可能になったのである。意見の相違や些細な誤解から去って行く人もいたが、温厚な性格の藤田と一徹な加屋というトゥーリレイク以来の息の合った2人の存在が、この雑誌を支えたのである。翌86年、私家版で『南加文芸特別号』が出版されて、20年の歴史に終止符が打たれた。

『南加文藝』の果した役割は、第一に文学を目指す日系人に発表の場を与えたこと、第二にそれによって日本語で創作する作家を育てたことである。第三に日本における選集の出版が帰米二世とその文学の存在を広く知らせた。と言っても派手な存在ではないので、一般の日本人すべてというわけではないが、少なくとも文学に関心を持つ人びとにある種の驚きをもって迎えられた。残念ながら職業作家となった人はいなかったが、少なくとも文学と呼べるレベルに達する作品を世に送り出し、人材を育てたことは確かである。『南加文藝』は帰米二世文学の集大成であると同時に戦後移住者の文学をも育んだ。

先に述べたように藤田晃は『農地の光景』、『立退きの季節』を出版し、日本の新聞に『南加文藝』に関する記事を書いた(「『南加文藝』の周辺上、下」『中日新聞』夕刊1980年8月20・21日付)。山城正雄は『羅府新報』のコラムをまとめて『遠い対岸――ある帰米二世の回想』(グロビュー社、1984年)、および『帰米二世』(五月書房、1995年)を出版した。このコラムは現在も続き、あと僅かで30年続くことになる稀にみる長寿コラムである。さらに私家版で、老いを見つめた詩集『老人』を出すなど旺盛な意欲をみせて活動を続けている。

戦後移住者の野本一平は『羅府新報』のコラム「木曜随想」を書き続けている。日本の雑誌『酒』に連載したエッセイをまとめて『かりふぉるにあ往来』(ミリオン書房、1985年)および『箸とフォークの間』(巴書房、1996年)に、同じく日本の雑誌『サード・コースト』の連載記事をまとめて『亜米利加日系畸人伝』(弥生書房、1990年)として出版した。

野本は僧侶という立場から日系コミュニティと深く係わっており、そこで得た豊富な資料を駆使して、移民史に埋れた日系人を掘り起こし、記録に留めている。

『宮城与徳――移民青年画家の光と影』(沖縄タイムス社、1997年)は、ゾルゲ事件に係わった宮城与徳の実像を明らかにする研究書で高く評価されている。野本は『南加文藝』から離れ、小説ではなくエッセイや移民史研究の分野に才能を発揮した。

森美那子は、『ニューヨーク日米新聞』で執筆を続け、『南加文藝』に掲載されたいくつかの佳作を含む短編集を『事故』(れんが書房新社、1998年)にまとめた。

野本は『南加文藝』を「伝承のない文芸」と呼んだが、『南加文芸選集』の「発刊によせて」の中で、鶴谷寿(当時静岡大学教授)は「やがて三世、四世と時代は異なり、使用される言語が違っても、アメリカ文学の分野に必ず繋がってゆくものと」確信すると述べている。1998年現在も文芸同人誌『平成』がカリフォルニアで発行され、すでに32号を数えている。

アメリカ研究の分野では、移民たちが母国語で書いた文学作品もアメリカ文学であると認識し、それらを英語に翻訳するというプロジェクトが始まっている。アメリカ文学とは英語で書かれた文学だけではないのだという認識がようやくアメリカの研究者の間で芽生えてきたところである。(Sollors, Werner: “From ‘English-Only’ to ‘English Plus’ in American Studies,” American Studies Association, News Letter, March, ’98)。時代は確実に変化している。これからも日本語を使って生活する人びとがアメリカに存在する限り、日本語文芸の灯はかすかながらともり続けていくにちがいない。

* 篠田左多江・山本岩夫共編著 『日系アメリカ文学雑誌研究ー日本語雑誌を中心にー』 (不二出版、1998年)からの転載。

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『南加文藝』-ロサンゼルスに根づいた文芸誌 -その4/5

その3>>

水戸川光雄は、トゥーリレイクの『鉄柵』時代からキラリと光る短編を書いて、その才能の片鱗が見えたが、『南加文藝』でも藤田に劣らず多くの作品を発表している。彼は第2号から23篇の短編小説を載せている。「風と埃」(第9号)、「焦点のない日々」(第15、16号)、「曳かれ者の歌」(第22、23号)、「雪の朝」(第28,29号)「我らは貨物なり」(第34号)など圧倒的に強制収容所とその後の抑留所生活をテーマにしたものが多い。これらは収容所内で書いていたものの続きと言える一連の作品群である。

この他に老人を描いたいくつかの佳作がある。「くわい頭」(第30号)は年老いた母を郷里に訪ねる話、「差し繰られた人生」(第5号)は心ならずも独身のまま88歳を迎えた一世の老人が、日本の親戚からも拒否され、帰りつく場を失ってアメリカで骨を埋める決心をする話である。

もっとも優れているのは、「素麺会」(第2号)、「灰色の墓地」(第6号)である。「素麺会」の主人公は苦労して育てた専門職の息子が結婚し、ほっとしたのも束の間で妻に先立たれる。息子は片言の日本語をあやつって優しくしてくれるが、嫁は日本語ができない上、生活様式もまったく違うので、主人公は戸惑うばかりで、ついに家の中に身の置き所がなくなって町へ飛び出し、「素麺会」なるものと出会う。「素麺会」とは素麺を茹でるとき「おっても、おらなくてもよい」という言葉合わせで、「居ても居なくてもよい」老人の集りを意味した。存在価値のなくなった老人たち5、6人連立ってバスでダウンタウンへ行き、バス停近くに座って一日を過ごす。毎日同じことを繰り返すうちに老人たちは一人二人と減っていく。

「灰色の墓地」では脳溢血を病んで半身不随となった一世の老人がアメリカ様式の墓や人種混合の墓地になじめず、死んだら故郷の墓に葬ってほしいと望んでいる。しかし、妻にその望みを叶えましょうと言われると狼狽してしまう。本来ならば喜ぶべきであるのに彼はなぜ背筋の寒くなる想いにとらわれたのか。故郷は恋しいが、アメリカを離れることは彼の家族と離れることを意味し、それには耐えられない。長年アメリカで暮し、家族をもった一世の相反する複雑な想いを描いている。老人を描いたこれらの作品にはトシオ・モリの『カリフォルニア州ヨコハマ町』に共通する寂漠感がただよっている。

帰米二世の女性の作品は少ない。『ポストン文藝』に小説を書いた久留島扶(芙)紗子は島由記子の名で小説を7篇、随筆を2篇載せているが、小説はいずれも習作で、収容所時代の輝きは見られない。一世の老人問題を扱った「凋落のうた」(第27号)は森美那子の同じテーマの作品と比べるとその差が明らかである。

おなじくヒラリヴァーの『若人』からトゥーリレイクの『怒濤』、『鉄柵』で活躍した伊藤正も随筆を含む雑文を11篇載せている。収容所時代正義感の強い青年で、歯に衣着せずに物を言ったために物議をかもしたこともあるというが、その正義感は『南加文藝』でも少しも変っていない。

「嘘のような話」(第26号)は被差別部落民であると噂をたてられて反論し、自分がそうでないことを証明する過程を述べたものである。彼は部落の歴史に触れ、これは為政者が便宜上作り出したもので、人間はあくまでも平等であり生まれながらの人間の貴賎などは存在しないのだと力説している。しかし、それならばなぜ、戸籍を示してまで噂を否定する必要があったのか。この場合の伊藤の正義感は矛盾をはらんでいることに注意しなければならない。

「分からないままに」(第4号)など彼の書いたものの中には父と息子の関係がよく出てくる。実生活でも彼は二人の息子の親であった。しかし晩年、彼の家庭では息子たちが自殺、妻も離婚後に自殺、最後に伊藤自身も自殺するという悲劇的結末を迎えた。理想に燃え、正義感を貫いたかのように見えた伊藤に何が起こったのかは今となっては知るよしもない。

矢野喜代士は『羅府新報』の記者で、『鉄柵』時代から井阿之雨という変ったペンネームで評論などを書いていたが、ここでも「ある一世の話」(創刊号)、「ジャック・ロンドン」(第4号)、「グリズリー熊とカリフォルニアの州旗」(第6号)などカリフォルニアの歴史に関する興味深い記事がある。

 (3)戦後移住者の作品について

『南加文藝』が消えゆく帰米二世の文学誌にならなかったのは、多彩な戦後移住者の存在であった。彼らは日本の豊かな経済力を背景に高等教育を受け、日本文学やアメリカ文学の教養を身につけて渡米してきた点で、苦労して労働しなければならなかった戦前の日系人とは違う恵まれた環境にあった。

山中真知子は1931年に京都府舞鶴市で生まれた。舞鶴第一高等女学校を卒業後、教師として働くが1957年に帰米二世の山中稔と結婚して渡米、以来カリフォルニア州パサデナに住んで、主婦業のかたわら創作を続けている。日本でもすでに文学を志していたようで同人誌にも加わっていた。『南加文藝』より10年早く創刊された『NY文藝』の同人でもあった。『南加文藝』では創刊時から終刊までの編集委員である。非常に多作でほとんど毎号に小説、詩などを載せている。小説は山中で16篇、旧姓の相馬真知子で4篇、合計20篇。詩が6篇ある。持病の喘息を克服し同人の中でも抜群の旺盛な創作意欲を持つ人である。

「マービスタ界隈」(第6号)に代表されるようにほとんどが自分の住むパサデナの町の近隣の人びととの交流や夫と娘との家庭内のできごとなど、身近な狭い世界を描いた作品が多い。狭いといっても日系人のみの世界ではなく、そこにはさまざまな人種関係が見られる。「女とキャンドル」(第12号)のように日本人女性がヒッピーの男女と係わって、その価値観の違いに当惑する様子を描いた作品もある。当時は若者がベトナム反戦運動、大学紛争などに揺れた時代で、既存の価値を打ち壊す若者と、既存の常識の世界に生きる日本人女性の相いれない考え方を浮彫りにしている。

森美那子は1925年東京に生まれ、津田塾大学を卒業後1952年に留学生として渡米、コロンビア大学で宗教哲学専攻の修士号を取得した。小説6篇、詩1篇がある他、第22号にニューヨーク在住で禅を広めた特異な一世佐々木指月の伝記を書いている。この中で優れているのは、「折りづる」(第5号)、「ぶたどうふ」(第6号)、「トメの場合」(第7号)、「鉢植のつつじ」(第33号)で、いずれも一世の老人の悲哀を描いた短編である。

「ぶたどうふ」は働きづめに働いて立派な息子を育て、小さな成功をおさめた老人が自分は質素に暮しながら、留学生たちにぶたどうふをご馳走してもてなすのを生きがいとする話。学生たちは老人の苦労話に飽き飽きして、ご馳走になったらすぐに帰ってしまう。日本から来た若者と老一世の感情のすれちがいを捉え、時代の変化を浮彫りにしている。その他の3篇はいずれも子と意思の疎通ができずに孤独感にさいなまれる一世の老女の話である。苦労して育てた子どもたちは白人と結婚して、かつて親が憧れていたような立派なアメリカ人となるが、英語の下手な老女とは話が通じない。子供は親の世話をするのが当然という古い日本の道徳観で生きてきた一世は裏切られたと感じる。当時の日系社会ではこのような行き場のない一世老人が社会問題になっていた。森がこれらの老人たちの心の動きを的確に捉えることができたのは、移民史に造詣が深く一世をよく理解していたからであろう。

スタール・富子も前述のふたりに劣らず、意欲的に多くの作品を書いている。スタールは、山中と同じ1931年、京都に生まれた。京都大学文学部仏文学科を卒業後、京都で日本語教師となった。1962年R・ミラー・スタールと結婚してルイジアナ州シュリーヴポートに住んだ。その後ニューオーリンズを経て1984年からテキサス州ダラスのサザンメソジスト大学外国語学部日本語科の専任講師として日本語を教えている。

作品を発表したのは20号からで、終刊号までに14篇を載せている。小説の他テネシー・ウイリアムズについての作家論もある。カリフォルニア州在住者が大多数を占める同人の中で、スタールの小説はルイジアナ州を舞台として、南部に住む数少ない日本人戦後移住者の姿を描いている。「沼沢の町」(第28,29号)はニューオーリンズに住むアメリカ人と結婚した日本人の妻とその夫、息子、近隣の友人たちの日常をテーマにした小説で、人種差別、脱走兵、反戦運動などベトナム戦争当時のアメリカ社会のさまざまなできごとが織り込まれている。物語り展開のテンポが速く、読む者を惹きつける。日系人家庭の心情を扱ってごく狭い世界を描く小説が多い中で、スタールの小説は『南加文藝』の世界に新風を吹き込むものであった。

詩では古田純三の子息でニューヨーク在住の古田草一が古い世代にはみられなかったテーマと手法で、多くの詩を書いている。第9号から終刊号まで毎回、意欲的な創作活動を行っている。

短歌では矢尾嘉夫などの一世歌人に代って、セコイヤ短歌会を主宰する松江久志が大いに活躍している。完全に世代が交代して戦後移住者の世代に移った感があり、短歌会には多くの人びとが参加して活動は盛んになっている。松江は第18号から21号まで「歌集回顧」を連載している。日系人の歌集は私家版で出版されることが多く、日本の研究者の目にふれることもほとんどないため、このような記事はたいへん価値がある。

野本一平は本名乗元恵三、1932年岩手県に生まれた。龍谷大学文学部を卒業後、東京で教師をした後、1962年に渡米。西本願寺の開教使として長年フレズノ別院の輪番をつとめ、のちに『北米毎日新聞』社社長となった。野本は多彩な人で、僧職のかたわら日系新聞のコラムにエッセイを書いている。『南加文藝』の同人になった当初は小説を書いており、「蓋棺の記」(第5号)、「白い舟」(第8号)、以下「回帰」(第12号)までの6篇の小説が収められている。しかし野本をもっとも有名にしたのは、文学評論「伝承のない文芸」(第18号)であろう。アメリカにおいて日本語で創作することには、それを子孫に読んでもらえないという寂しさがつきまとう。日系日本語文学は「伝承のない文芸」であるという野本のこの文学論は、日系文学を論じるときにいつも引用される重要な一節になった。彼は意見の相違からか、これを最後に同人を去った。

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* 篠田左多江・山本岩夫共編著 『日系アメリカ文学雑誌研究ー日本語雑誌を中心にー』 (不二出版、1998年)からの転載。

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『南加文藝』-ロサンゼルスに根づいた文芸誌 -その3/5

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3.『南加文藝』の内容

『南加文藝』の作品には三つの流れがある。第一は戦前から創作を続けてきた一世の作品である。これらの人びとにはまず加川文一が挙げられるが、その他、文一夫人の桐田しづ、外川明、矢尾嘉夫、萩尾芋作など短詩型文学の人が多い。

第二は創作の中心となった帰米二世グループである。加川文一は指導的立場にいたが、実質的なリーダーは藤田晃であった。彼は編集だけでなく、自らもエネルギッシュにたくさんの小説を書き、毎月の合評会で手厳しく作品を批評した。彼らの作品を文学のレベルにまで高めようとする熱意につき動かされながら藤田は活動した。これら帰米二世にはトゥーリレイク出身者が多いが、ポストンやマンザナにいた忠誠組の人びとも加わっていた。

第三のグループは戦後移住者である。山中真知子は創刊当時から参加してずっと中心的存在の一人になっていたが、3 号から短歌の松江久志、4号から野本一平、5号から森美那子と次第に多彩な人びとが加わった。これらの人びとは一世、二世とはまったく異なる背景を持ち、すでに一世らによって基礎が固められた日系社会にはいってきた若者であったため、とくに二世との軋轢が多かったようである。

新公民権法が成立したのちは、それぞれがエスニック・アイデンティティを主張し、日系人への差別も戦前ほどひどくなかったことから、二世は戦後移住者を一世・二世の苦労を知らず、アメリカ生活の良いところだけを享受していると非難した。彼らにとって日本は遠い対岸の国ではなく、ジェット機でいつでも往復できる国であった。さらに日本の経済力という背景もあった。片道切符を手に渡米して、排日の嵐の中を汗水たらして働いたのは遠い昔のことであった。『南加文藝』も例外でなく、内部では反目もあったようである。20号以降はスタール・富子が加わって、さらに戦後移住者のパワーが勢いを増した。

『南加文藝』に掲載された作品には日常生活に題材を求め、個人の体験を踏まえた作品が多いのは以前と変らない傾向である。形態もさまざまであるが、小説、随筆、紀行文、評論、詩、短歌があり、俳句や川柳は含まれていない。これは小説に重点をおきたいという編集方針の表れである。

(1)一世の作品

一世はすでに老年に達しており、作品は少ない。それでも加川文一はリーダーとして毎号に詩を載せている。しかしその詩は自らの老いを反映してか、暗く寂しいものが多い。猫を相手に妻と暮す日常で、彼は老いを避けられないものとして見つめながら詩を書いた。「古箒」(第2号)では自分をすりきれた箒にたとえ、「荒廃」(第30号)では晩年のベートーヴェンを想い、「荷車」(第29号)では「時代にとり残され、誰にも相手にされない詩」を自分を貫くために書き続けると言う。次々と新しい感覚をもつ詩人が現れるなかで加川は自分の時代は終わったということを実感していたにちがいない。

彼は受診を勧める皆の心配をよそに、医師を拒否して自分の信念を貫き、1981年の暮に亡くなった。加川の妻の歌人桐田しづは『鉄柵』以来の同人である。36号のうち16号に短歌と短文を載せている。桐田の歌はケネディ大統領の暗殺やベトナム戦争などさまざまな話題が盛り込まれていて、幅広い関心の持主であることが分かる。

外川明は詩を作らず、「南加詩壇回顧」を創刊号から27号まで連載した。日系人の作品は出版されたものも少なく、いわゆる文芸人と言われた人びとの経歴もほとんど不明であることから、この回顧録は文学史上貴重な文献となっている。同じく『ポストン文藝』に詳細な収容所生活の記録を書いた貴家しま子は、ポストン収容所の木にまつわる随筆「めぐりあい」(第4号)のみで、1978年に亡くなった。

第1号から4号まで毎号詩を載せている萩尾芋作は特異な詩人である。彼の詩は一度読むと忘れられないほどユニークなもので、移民のことばを使い、思った通りを綴った素朴な詩であるが、読む者の心に響く。学歴もなく農業一筋に働いて、8人の子を育てた。書きためた詩を1961年に私家版の『移民のうた』にまとめ、67年に80歳で亡くなった。

(2)帰米二世の作品について

まず小説をみると第一に挙げられるのは藤田晃である。藤田は多作で、創刊号から第8号まで休みなく執筆を続けている。第15号から20号までのブランクは、彼が腎臓移植を受けて病床にあったためである。彼はガーデナをした後、結婚してモーテルを経営していたが、その不規則な生活のため健康を害し腎臓の透析が必要になった。1972年の秋、腎臓移植手術を受けたところ成功した。薬の副作用に苦しみつつも病気を克服し、第21号から第35号までほとんど休むことなく創作を発表している。病におかされながら書き続けることは、健康な人の何倍もの努力を要したであろう。ここに彼の不屈の作家魂をみることができる。

創刊号の「向日葵の追憶」をはじめ大部分の小説は、彼が父と暮したカリフォルニア州インペリアル・ヴァレーの農業地帯を舞台にしている。日系文学では自伝的小説が多いが、藤田の作品は自分の経験を書いているにもかかわらず、時間の経過を追うのではなく、静止した時間のなかで農家の生活を描いている。とくに第26号の「ミュールを埋める」から第32号の「真夏の眩惑」までの7つの作品は連作になっており、1940年代のインペリアル・ヴァレーで、長い間父と離れて暮したのち帰米した息子と父の避けがたい違和感を中心に貧しい日系自作農の日常がテーマである。

これらはいずれも優れた作品で、藤田は日系人の日本語の創作を文学の域まで高めた最初の作家ということができる。1982年、藤田はこれら7篇を『農地の光景』(れんが書房新社)として日本で出版した。日本の出版界では地味な存在であったが、いくつかの雑誌や新聞に書評が掲載された。『サンデー毎日』の書評では、藤田の小説は現代日本の小説と比較するとストイックであって、「こんなところに戦前の日本文学の感性が残っているように思われて、著者の経歴と戦後の日本を思いあわせると、甚だ興味深い」と書かれている(『サンデー毎日』1982年10月17日号、評者 椎野静生)。

2年後の84年、藤田は『農地の光景』の続編として『立退きの季節』(平凡社)を出版した。これには第8号の「検束」、第24号の「亀裂」が含まれている。主人公の父はFBIに検束されてミズーラ抑留所へ送られ、主人公はポストン収容所へ送られる。この本ではポストン収容所での日常が描かれ、忠誠登録を拒否した主人公がトゥーリレイク隔離収容所送りになることを暗示して終わっている。

藤田は帰米してからの自分の生活を3部作としてまとめる構想をもっていた。第3部は第13号、14号に掲載された「帰還の季節」上・下を中心にまとめられる予定であった。「帰還の季節」は1946年、閉鎖される直前のトゥーリレイクからクリスタル・シティ抑留所へ送られたのちに釈放されるまでの生活を描いている。ここでは彼の友人たちが実名で登場し、藤田の経験そのものが克明に記録されている。その後、彼がいかに生活を再建していくかが描かれて3部作が完結するはずであった。つまり戦前から戦中、戦後にわたる帰米二世の生活記としてその心の軌跡が明らかにされると期待されたが、藤田の健康状態が悪化したため断念せざるをえなかった。

藤田は『南加文藝』創刊から終刊までに24篇を書いている。彼が『怒濤』に短編を書き始めたときの作品と比べると、テーマのとらえ方にも創作の技術にも天と地ほどの差がある。彼が文学としての評価に耐えうる作品を書くためにいかに努力したかが明らかである。

山城正雄は、長編小説「移民時代」を創刊号から第8号まで連載している。これはカワイ島低地のラワイ・ステーブルという名の砂糖黍プランテーションを舞台に繰り広げられる日本人移民の生活である。錦衣帰郷を夢見て日本からやってくる人びと、事業を興そうと倹約して貯金をする「辛抱人」、写真結婚の女性、移民地で育つ子供たちなどさまざまな人間模様の中に、食べ物や生活様式などが詳細に描かれて現地の生活の匂いが伝わってくる。山城の両親は沖縄からカワイ島への移民であったから、たぶんこれは彼の幼いころの経験をもとにした創作であろう。読む者を惹きつける興味深い作品であったが、第8号を最後に山城夫妻が、意見の相違から『南加文藝』を去ったために未完で終わった。彼はこの後『羅府新報』に設けられた、「子豚買いに」というコラムに創作の拠点を移したが、ついに「移民時代」は完成をみなかった。他人と安易に妥協しないところが山城の長所であり短所でもあるが、この小説が未完のままであることは残念である。彼が鋭い洞察力と感性をもつだけに、もし『南加文藝』同人にとどまっていれば、小説家としての道を歩んだのではないかと惜しまれる。

続く>>

* 篠田左多江・山本岩夫共編著 『日系アメリカ文学雑誌研究ー日本語雑誌を中心にー』 (不二出版、1998年)からの転載。

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『南加文藝』-ロサンゼルスに根づいた文芸誌 -その2/5

その1>>

2.「十人会」から「南加文芸社」へ

          胸ぬちにうづく思ひは言ふを得ず歌になし得ず涙流るる  
                                                    内田 静 (『羅府新報』1946年6月21日付)

この短歌は日本の降伏によりすっかり混乱して、自分の思いを表現できずに沈黙した一世の気持ちを代弁している。日系社会は完全に世代交代して二世の時代になっていた。戦争中にアメリカ政府に協力し、日系人の立退きをすすめた全米日系アメリカ市民協会(JACL)は日系人を代表する組織になった。戦中の忠誠登録は戦後もずっと尾を引き、これによって日系社会は長い間忠誠者と不忠誠者に二分されたままになった。忠誠者は脚光を浴びた。とくに従軍した兵士たちは日系社会の英雄となった。ヨーロッパ戦線で片手を失ったが、不屈の努力でハワイ州選出上院議員になったダニエル・イノウエなどはもっとも有名な英雄のひとりであった。彼の『ワシントンへの道』をはじめとして、英文による忠誠の記録が相次いで出版された。

かつてトゥーリレイクに収容されていた一世、帰米二世にとって忠誠者は輝いてまぶしい存在であった。不忠誠者は何事も控え目に、収容所の話にはなるべくふれないように暮していた。しかし、生活が落ち着きを取り戻すと、かつて収容所で熱中した文学活動が忘れられず、何か書きたいという思いが湧き上がった。理不尽な収容所生活ではあったが、そこで多くの文芸が育てられたことは事実であった。

トゥーリレイクで『怒濤』を編集した藤田晃は、戦争直後から『羅府新報』に詩、短編小説、随筆、映画評論などを投稿していた。冒頭に引用した詩は戦後最初に掲載された作品である。トゥーリレイクで『鉄柵』の編集を担当していた野沢穣二は1947年、父が株主であった『羅府新報』に入社し、「羅府文化」という文学のページを設けて文学青年たちの投稿を促した。ここに多くの作品を投稿したのは、藤田晃、山城正雄であった。戦前と同様に新年には懸賞小説の募集があり、三等までの入選作が新年の紙上で発表された。もっとも多く一等を受賞したのは藤田であった。野沢は作品発表の場を提供して、日本語文学を育てようとしたのである。

生活再建のための苦闘の結果、かつての文芸人たちがやっと文学について考える余裕ができたのは、収容所を出て10年後のことであった。10年という歳月は生活再建のためばかりではなく、時代の変化を理解し、自らを納得させるのに要した時間といえるかもしれない。トゥーリレイクで創作の楽しさを味わった若者たちも30代半ばに達し、家庭をもっていた。しかし文学への思いを断ちがたく、1956年1月7日、ロサンゼルス地域に住む人びとが、かつてポストン収容所にいた詩人外川明の家へ集まって文学同人会「十人会」を結成した。この会はおもにトゥーリレイクで文芸誌発行の苦楽を分かちあったかつての仲間の集りであった。

当時、外川の家に集ったのは加川文一、矢野喜代士、山城正雄、藤田晃、野沢穣二、河合一夫のトゥーリレイクの仲間6人に外川明、谷崎不二夫、三好峯人、当時留学生だった沼田が加わって全部で10人であったから「十人会」と名づけられた。外川は呼び寄せ一世だが忠誠組であった。帰米二世の谷崎は忠誠組でマンザナ収容所から陸軍情報部隊(MIS)の一員として当時のビルマ(ミャンマー)で活動するなど、この会の中では異色の存在であった。しかし彼は 『マンザナ・フリー・プレス』紙に評論を書くと同時に『鉄柵』にも投稿したという関係から参加したのであろう。彼らは月に一度ほど集っては外川家名物のうどんをご馳走になって文学談義に花を咲かせたという。野沢は『羅府新報』に「置き時計」というコラムを用意して、メンバーが交代で執筆することを勧めた。皆の尊敬する加川文一が最初に執筆すると、その作品の質が高かったため、他の人は遠慮して書かず、このコラムは加川専用となった。こうしてこの会は自然消滅してしまった。

それから10年近い月日が流れ,時代は変化していた。マーティン・ルーサー・キング牧師を中心とする公民権運動で多くの犠牲が払われた結果、1964年には新公民権法が成立し、アメリカ社会は大きな転換期を迎えた。ブラック・パワー運動に刺激されて、日系人の間からも、他のアジア系の人びとと連帯してイエロー・パワー運動が起こった。エスニック・アイデンティティの覚醒が叫ばれ、日系、中国系などという区別をなくし、すべてを含めて「アジア系」とする考え方が次第に若者に支持されていった。1964年には第一次トンキン湾事件が勃発し、北ベトナムへの報復爆撃によってベトナム戦争はアメリカの戦争となった。ベトナムで戦う日系兵士も徐々に増えて、日系人は否応なく社会の激動の中に飲み込まれていった。

日系社会の人びとの流れも大きく変化していた。1947年にアメリカ軍属と結婚したアジア人花嫁の入国が許可されると、写真花嫁以来はじめて多くの日本人女性が渡米した。進駐軍兵士ばかりでなくアメリカ市民の妻として入国した日本女性の数は、1948年から増え続け、1952年には4,220名、1957年には5,003名となって、このような状態が1970年代初めまで続いた(U.S. Commissioner of Immigration and Naturalization, Annual Reports, 1947-75)。また、市民権を放棄して送還船で日本へ行った者の中にも、敗戦国日本の耐乏生活に疲れ、ふたたびアメリカへ帰ってくる者も多かった。『鉄柵』同人の水戸川光雄はいったん日本へ行ったものの1950年代の半ばにアメリカへ戻り、かつての仲間とともにガーデナとなった。

このような状況のもと、「十人会」のメンバーだった人びとが集って「南加文芸会」が発足した。トゥーリレイクからずっと行動をともにした河合一夫はすでに亡くなっていた。当時、彼らにとって日系新聞以外に作品を発表する場はなかった。それならば自分たちで雑誌を作ろうという話がまとまった。このときのリーダーも加川文一であった。加川は『收穫』、『鉄柵』、『南加文藝』と一貫してカリフォルニア日系日本語文学において指導的な役割を果した。加川をはじめとするトゥーリレイクの文芸人の努力で、1965年9月に文学同人誌『南加文藝』が生まれた。編集委員は、加川文一、山城正雄、野沢穣二、藤田晃、加屋良晴という以前からのメンバーに戦後移住者の山中真知子が加わった。男ばかりの編集委員のなかでただひとりの女性であった。トゥーリレイクの青年団時代から鉄筆を担当していた加屋良晴がふたたび鉄筆を握った。謄写版刷り、版画の表紙のついたまさに手づくりの雑誌が誕生したのである。加屋の自宅が事務局となり、彼はメンバーとの連絡、原稿集め、版下作成、販売までをひとりで引き受けた。毎回の表紙を飾る版画とカットは、山城正雄夫人の静枝が担当した。静枝は女子美術大学を卒業した画家であるが、戦後結婚して渡米した。

経費を節約するために製本なども収容所のときと同じようにメンバーによる手作業であった。この頃野沢穣二は『羅府新報』を辞めて、リトル・トウキョウでかなり手広く貿易会社を経営していた。彼は創作するよりも文芸会を維持するためのサポート役にまわった。そして自分の会社を作業場に提供したので、同人はそこで製本作業を行なった。ときにはメンバーの家族全員も手伝いに来るなど、和気藹々のうちに雑誌ができあがるところなどは、かつての収容所時代と同様であった。

「発刊の辞」のなかで加川文一は、『南加文藝』創刊の目的は南カリフォルニアの日系文芸人に発表の場を提供することであると述べている。そしてアメリカに根づいた日系人の日々の生活の中から文学を生み出し、大切に育てていきたいと抱負を語っている。人間が生きる上でもっとも大切な「誠実」をもって、この同人誌を長い間続けていきたいというところに、真摯に文学に取り組んできた加川の姿勢がにじみ出ている。創刊号は200部発行された。

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* 篠田左多江・山本岩夫共編著 『日系アメリカ文学雑誌研究ー日本語雑誌を中心にー』 (不二出版、1998年)からの転載。

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日系アメリカ文学雑誌研究: 日本語雑誌を中心に

『南加文藝』-ロサンゼルスに根づいた文芸誌 -その1/5

『南加文藝』はアメリカでもっとも長続きした日本語による文芸同人誌である。第二次大戦中、ヒラリヴァー強制収容所の『若人』に始まった帰米二世の文芸活動は、トゥーリレイク隔離収容所の『怒濤』、『鉄柵』を経て、戦後はニューヨークで『NY文藝』およびロサンゼルスで『南加文藝』となった。『南加文藝』は『NY文藝』が終わったあとも続き、1986年の『南加文芸特別号』の出版で20年の歴史に幕を下ろした。『南加文藝』は戦争の中で芽ぶいた帰米二世文学が木となって咲かせた花ともいうべきものである。

しかしこれは帰米二世にとどまらず、新しい戦後移住者の文学の種を蒔くことになった。その種もやがて芽を出し、枝葉を茂らせた。戦後移住者の参加はそのテーマを農村の狭い日系コミュニティの中からさまざまな人種と接触する都会へと広がりのあるものに変えた。従来の日系文学に新しい傾向が生まれたのである。『南加文藝』は日本へも紹介され、日系文学研究の中で必ず言及されてきた。しかしあまりにも膨大であるため、まだ研究は進んでいない。ここに『南加文藝』20年の軌跡をたどり概観してみることにする。

1.生活再建の時代-収容所を出た日系文芸人

時です――
偉大なる時の回転です
おまえのあふりを食らった人間の群が
世界の一隅でよろめいてゐます

時です――
荒々しき時の足音です
おまえの重き足の下に
白き腹を見せながら
喘いでゐる人々の群があります   
                                          (『羅府新報』1946年4月16日付)

抑留所からの釈放直後に書かれた藤田晃のこの詩は、戦後の時代の変化に翻弄される「不忠誠組」の気持を率直に表わしている。1946年、トゥーリレイク隔離収容所を最後に全ての収容所は閉鎖された。収容所で文芸活動にたずさわった多くの人びとは、収容所の閉鎖とともにある者は送還船で日本へ、ある者はアメリカに留まる決心をして、各地へ散って行った。原爆投下と日本の降伏は一世や帰米二世が抱いていたきわめて漠然とした日本勝利の希望を打ち砕き、その結果アメリカで生きる決心はより強固になった。

『鉄柵』同人の山城正雄はニューヨークへ、加屋良晴はユタ州ソルトレイクへ行き、藤田晃はクリスタルシティの抑留所へ送られた後、やっと釈放された。水戸川光雄は市民権を放棄して日本へ行った。彼らは仕事も財産も失い、文字通りゼロからの出発であった。戦争が終わって、目まぐるしく変ってゆく世の中の動きに、彼らはとまどい、よろめきつつも再定住へ一歩を踏み出していった。

還暦でまた出直した皿洗ひ  
                                          今村仁逸 (『羅府新報』1946年2月20日付)

再建に奮い立ちたる古稀我れのホウ振る腕に力漲る 
                                          船越茂吉 (同6月21日付)

老いた一世はふたたび移民当初の状態に戻ってしまった。人びとはひとまず季節労働者となって全米各地の農園を巡ったり、大都市のホテルやレストランで皿洗いなどをして生計をたてた。家を失った人びとは戦時転住局(WRA)や宗教団体が各地に用意したホステル(日系人のための一時宿泊所)、トレーラーキャンプなどの仮設住宅で暮した。失った家や畑、倉庫に保管した荷物などを取り戻すために裁判をしなければならない人びともあった。強制収容所の損害賠償請求も始まり、市民権を放棄した人びとはその回復を求めて長い間にわたる裁判を開始した。

戦前からカリフォルニアに住んでいた日系人は、いったんは東部や中西部へ行ったが、いつの間にか多くの者はふたたび住み慣れた元の居住地へ帰っていった。戦争中、南部から来たアフリカ系労働者の町になっていたリトル・トウキョウにも次第に日系人が帰って、かつての活気を取り戻しつつあった。ここで人びとは助け合いながら、生活を再建していった。多くの人は需要が多く、器用さを生かせるガーデナ(庭師)になった。山城、藤田、加屋もガーデナとして汗を流して働いた。この仕事は少ない資本で開業することができ、労働をいとわなければかなりの収入を得ることができた。伊藤正は白人の家で家事手伝いをしていた。

日系人の忍耐強さ、勤勉、そして何よりも戦場で戦うことによって合衆国への忠誠を証明した日系兵士たちの活躍のお陰で、日系人を取り巻くアメリカ社会の状況も少しづつ変化していった。彼らがようやく元の生活を取り戻したのは、1950年代の半ばであった。

続く>>

* 篠田左多江・山本岩夫共編著 『日系アメリカ文学雑誌研究ー日本語雑誌を中心にー』 (不二出版、1998年)からの転載。

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