深沢 正雪

(ふかさわ・まさゆき)

1965年11月22日、静岡県沼津市生まれ。92年にブラジル初渡航し、邦字紙パウリスタ新聞で研修記者。95年にいったん帰国し、群馬県大泉町でブラジル人と共に工場労働を体験、その知見をまとめたものが99年の潮ノンフィクション賞を受賞、『パラレル・ワールド』(潮出版)として出版。99年から再渡伯。01年からニッケイ新聞に勤務、04年から編集長。

(2009年1月 更新)

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軍政開始50年と日系活動家=独裁政権と闘った若者たち -その2/3

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軍事革命かクーデターか=反ジャンゴ多かった日系農家

三宅ダルシさんが捕まった翌月、1972年2月19日に長野県軽井沢町で連合赤軍が浅間山荘事件を起こし、人質をとって立てこもった。熱い政治の季節だった。

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独自の視点から『百年の水流』(2012年、改訂版)を書いた外山脩さん(72、静岡県)は2面に先週掲載された連載「軍政開始から50年」を読んで、「ワシらは当時何も知らなかったと思った」と語った。

ちょうど60年安保運動の頃、1960年代前半に同志社大学法学部政治学科で学生生活を送った外山さんは、まさに京都の学生運動の本場に身を置いていた。「授業の前に左派学生が来て必ずアジ演説をしていった時代だった。右が多かった体育会系の学生が、左派の集会に殴り込む事件を起こした。だからブラジルに来た時も『こっちの全学連も同じようなことをしているな』と感じていた」という。

66年に渡伯し、サンパウロ新聞で記者をした1年目、学生運動を身近に感じていた外山さんは、軍政を皮肉るようなことを記事に書いた。「翌日、水本社長が血相を変えて怒鳴り込んできてね、驚いた。『お前は新聞社を潰すつもりか』って言うんだ。邦字紙もあの当時監視されていた。日系左翼の連中が殺されていたとか、当時は記者であるワシらも知らなかったし、まして報道はされていなかった」と振りかえった。いわばコロニアは蚊帳の外に置かれていた。

「60年代後半から70年代初めにかけて、何回かDOPS(社会政治警察)に取材に行った。あの時、異様な殺気と言うか雰囲気が漂っていて、『ああこれが戦場だな』と強い印象に残った。あの当時は何も知らなかったが、今になってみると、なるほどという感じがする」としみじみと述懐した。

その頃、サ紙の水本ミツト社長のもとには、毎年年末に、ロメウ・ツーマ(77~82年にDOPS最高責任者)やラウド・ナテウ(71~75年に聖州知事)らが挨拶に顔を出していたと外山さんは記憶する。邦字紙の立ち位置は、明らかに軍政寄りだった。

* * * * *

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安部順二連邦下議(73、二世)に軍政50年への見解を問うと「“革命” についてですね」と応じた。伯字紙は「Golpe(クーデター)」と書くが、肯定する派は「Revolucao(革命)」とし、見解が分かれている。

「“革命” 前年の63年、私は24歳でしたが、モジの友人らと10人ほどでコンビに乗って、ブラジリアの田村幸重議員に話を聞きに行った。『ジャンゴ(ジョアン・グラール大統領)が農地改革をするのではないかと心配だ』と彼が言ったのを聞き、心底驚きました。すぐに帰って親と相談し、反対運動を起こした」という。

日系人の多くが農業に従事していた60年代はコチア産組、南伯農協などの全盛期でもあった。「日系人は苦労して土地を手に入れて農業で生活をたてて来た。その土地が農地改革によって二束三文で泣く泣く取り上げられるかと思ったら黙っていられなかった」。

共産主義に共鳴するジャンゴよりも、軍政に親近感を抱くのも無理はない状況だった。だから “革命” が起きた時は、むしろ安堵した側だった。「最初のカステロ・ブランコ将軍の頃は2年とか4年で民政に戻すという話だった。ところが彼が飛行機事故で変な死に方をし、その後まさか21年も続くとは誰も思っていなかった」という意外な展開を迎えた。

一度権力を掴んだ軍事政権は、民衆から離れて一人歩きを初めた。1968年頃から左派学生への弾圧を強め始め、その流れの延長線上に69年からのバンデイランテス作戦、70年からのDOI―Codiに結実していった。

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※ 本稿はブラジルの邦字紙『ニッケイ新聞』(2014年4月8日)から、許可を持って転載しています。

 

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軍政開始50年と日系活動家=独裁政権と闘った若者たち -その1/3

マリゲラと共にゲリラ活動=拷問で苦しんだ三宅ダルシ

「軍事クーデター50年・独裁政治の撲滅を」式典が3月31日、聖市南部にある市警36分署の裏、かつて左翼活動家の逮捕や拷問による情報収集と分析を目的とした軍施設のまん前で実施された。千数百人の参加者は、今も行方不明の活動家や拷問死した若者の顔写真を手に、軍政時代の人権侵害の歴史的事実の掘り起こしや、それを特赦したアネスチア法の見直しなどを訴えた。日系犠牲者の顔写真もみられる生々しい歴史の傷跡を取材した。

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「私の活動は家族には理解されなかった」―― “都市ゲリラ戦の教祖” カルロス・マリゲラ率いる武装組織ALN(全国解放行動)でゲリラ活動に参加していた三宅ダルシさん(68、二世)は、そう悔しそうに語った。

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当時USP法学部のエリート学生だった三宅さんは、72年1月25日にグアナバラ(リオ)で陸軍DOI―Codi(以下DCと略)に捕まり、28日に聖市のOBAN本部に連れてこられた。まだ27歳だった。

三宅さんは「私は逮捕状もないまま、DCに7カ月間も “誘拐監禁” されていた」とすぐ横の建物を指さした。「彼らは私から情報を聞き出そうと1カ月間、毎日拷問したのよ。その後は週2回ぐらい。…言葉にならない酷い体験だった」と振り返る。

13年12月12日付けブラジル国営通信記事によれば、同日の連邦真相究明委員会で三宅さんは、自分を拷問した暗号名 “ウビラジャラ大尉” が目の前にいるアパレシード・ラエルテス・カランドラ元市警捜査官に間違いないと断定し、「私は、彼やその部下から耳、足や手、女性器まで電気ショックで拷問されて苦しんだ。彼は仲間の多くの殺害に関わったはず」と証言をした。

64年の軍政開始時から検討されてきた左翼活動抑圧の「バンデイランテス作戦」(OBAN)の開始は、軍政を人権侵害の次なる段階に導いた作戦と言われる。政治社会警察(DOPS)と連邦警察、市警、公安部隊の左翼取締り関連部署による合同作戦として69年7月に始まった。

第23回国家歴史シンポ(05年)で発表されたUSPのマリアナ・ランジェル・ジョフィリ論文によれば、この作戦を資金面で支援したのはウルトラ・グループ、フォード、ゼネラル・モータース等の多国籍企業群だった。

PBANの経験を元に翌70年7月に軍直轄の常設組織として、同様のメンバーからなる情報作戦本部(DOI)と治安行動センター(Codi)が設置された。前者が作戦行動の指揮かつ捜索・逮捕・尋問、後者が情報分析・軍各部署との連携調整を担当した。

多くの拷問犠牲者が “ウビラジャラ大尉” は同氏に間違いない証言していることに関し、同捜査官は同委員会で「まったく身に覚えがない。拷問など人権侵害に関わったことはない」と関与を真っ向から否定した。

クルツーラTV局の幹部ヴラジミル・エルゾキさんら数々のジャーナリストや活動家が拷問の末に “行方不明” もしくは “病死” や “自殺“ したとされている建物は、イベントの喧騒をよそに、不気味な静けさをたたえていた。

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※ 本稿はブラジルの邦字紙『ニッケイ新聞』(2014年4月5日)から、許可を持って転載しています。

 

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アマゾン=河民の生活向上に尽くす ~格差社会に挑む日本人~

第6回・終 森林農業で経済安定へ

>> 第5回

住民を〃環境の番人〃に

HANDSは今年七月、パラー州のトメ・アスー移住地からアグロ・フロレストリー(森林農業)の日本人専門家を当地に呼び、コミュニティを巡回するセミナーを実施した。地球環境基金(環境再生保全機構)からの助成を受けた。

一見、保健衛生とは関係ないように思えるが、「住民がコミュニティを離れてしまうと自然破壊が進むんです」と定森さんは真剣な表情で訴える。広大 な市ゆえに南部の方ではすでに不法な熱帯雨林の伐採が始まっており、コミュニティが消滅した場所から不法伐採が始まる傾向がある。

コミュニティが解体しないためには、経済的に安定することが重要だとHANDSは考えた。バナナ、マンジョッカだけに依存せず、多様性のある作物を自然の中で栽培する工夫の一貫としてこの取り組みが始まった。

「住民には〃森の番人〃として無謀な開発に目を光らせて欲しい」。定森さんは保健衛生知識の普及ではなく、環境保全にも目を配る必要があると強調する。

来年のプロジェクト終了を見越して、活動を引き継ぐ位置付けの団体IDEAS(アマゾン持続的開発協会)を立ち上げた。環境に力を入れた活動になることを見越した命名だ。

◎   ◎

実は人間的出産セミナーの直前、生まれたばかりだった定森さんの二人目の赤ん坊の容体が悪化し、定森さんは飛行機をチャーターして州都マナウスの病院に緊急移送していた。手術の可能性があり、顔には出さないが、心の中では心配で仕方なかったに違いない。

セミナーの途中で、元研修員の三人が音頭を取って、定森さんと関係が強い遠隔地コミュニティの地域保健員に前に出るように突然呼びかけると、会場の半分がごっそり移動した。

自ら参加を呼びかけていたとはいえ、遠隔地からこれほど駆けつけていたとは、実は定森さん自身も想定していなかった。最後に定森さんが真ん中に呼ばれ、全員が両手を上に上げ、真ん中にいる定森さんに向かって念を飛ばすような、祈るような仕草をした。

「子供の容体が良くなりますように」と全員で祈りが捧げられ、「アミーゴ・パラ・センプレ」(永遠の友達)が大合唱された。

不測の事態に、定森さんはこぼれる涙を手でぬぐいながら、言葉にならない様子で感謝した。自分が支援していたはずの人たちから逆に励まされる、そんな瞬間だった。

遠隔地の河民らは次々にマイクを持って「みんな貴方のことを愛している。子供が良くなることを心底祈っている」などと言葉を贈り、アブラッソ(抱擁)をした。

民衆からいかに頼りにされ、愛されているか、定森さんは実感したに違いない。

二十八時間かかる一番遠いコミュニティからきた長老格の教師オジネイア・メイレーレスさんは、セミナーの締めくくりにマイクを握り、「HANDS はいつも我々の側にたってものを考えてくれる。彼らが私たちに伝えてくれたことは本当に大切なことだ。心から感謝したい」と総括し、神に祈りを捧げた。

定森夫婦は懸命に介護したが二男は十一月二十日になくなった。河民たちの祈りも届かなかった。これもまた、定森さんが解決に尽力している遠隔地ゆえの貧弱な医療体制がもたらした悲劇の一つなのかもしれない。

◎   ◎

ブラジルはキレイ事で済む世界ではない。最初は好きで関わっても嫌な面もたくさん見ざるを得なくなる。格差社会ゆえの既得権者もいる。利害関係が複雑に絡み合う中で、社会の底辺から物事を変えようとする運動には風当たりも強い。

なぜそんなに伯国にこだわるのか。そんな問いかけに定森さんは、「正直言って今は嫌な部分の方が多いぐらい。でも、中途半端に辞めたくない。IDEASが動くのを見届ければ安心する」とつっぱる。相当な意地っ張りだ。

定森さんは「グローバリゼーションの世の中で日本だけ幸せになることはありえない。世界の困っている人に手を差し伸べる活動は今こそ重要です」と強調する。

さらに米英独仏などに比べ、「日本の国際貢献におけるNGO活動はまだ弱い。例えば国境無き医師団、MSHのような国際的な発言力のあるNGOは日本にはない」と語り、そのような団体を育てることの重要性を訴えた。

(終わり)

※ 本稿はニッケイ新聞2008年12月3日に掲載されたものを許可を持って転載しています。

※ ニッケイ新聞(www.nikkeyshimbun.com.br)はブラジル国サンパウロ州サンパウロ市で発行されている、移住者や日系人・駐在員向けの日本語新聞です。

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アマゾン=河民の生活向上に尽くす ~格差社会に挑む日本人~

第5回 人間的出産セミナー

>> 第4回

日本式助産の知恵を普及

「エ・プレシーゾ・サビ・ビビェール!」(生き方を知る必要がある)。全員が立ちあがり、手を叩きながら人間的出産のテーマ曲を合唱する。まるで 自己啓発セミナーか教会のミサのような賑やかさと活気にあふれている。アマゾナス州保健局とJICAの共催だが、堅苦しいセミナーとはほど遠い。

日本式の助産婦の保健知識、妊婦への心理的な支援方法を教える「第二回人間的出産セミナー」が、十月三十~三十一日にマニコレ市立展示場での行われた時の様子だ。

二十八時間離れた遠隔地コミュニティの地域保健員まで参加し、二百人以上が出産についての見識を深めた。

従来は、民間伝承の助産婦しかいなかった。船で七時間かかるフェラ・プレッタで助産婦をするネイラ・クルス・オリベイラさん(34)は二十歳の時から助産婦をし、すでに三十二人を取り上げたが、保健知識はなかった。「先輩を手伝っているうちにやり方を覚えた」という。

妊娠は病気でない。自然出産する妊婦を助けるのが助産婦の役割だ。伯国の都市部ではすぐに帝王切開する医師が多い。

このセミナーは、昨年本邦研修に行き、三カ月間、日本で助産婦のやり方を学んできた現役助産婦の伯人女性三人が企画した。JICAはフォローアップ事業として、研修内容を広めるOBの企画を後押しする。

マナウスの医療機関で働くマリア・グラシマ・フェクリ・ダ・ガマさん(41)、ロゼリー・セルケイラ・リラさん(47)、サンドラ・カバウカンチ・シルバさん(49)の三人の研修成果がこのセミナーによって何百人にも共有される。

第一回目は彼女たちが住むマナウスで約二百人を集めて行われた。今回がマニコレ、第三回はポルト・ベーリョで実施される。

会場の後方には、彼女たちが買ってきた日本人形や、日本で撮った写真が飾られ、参加者全員にきれいな箸が配られた。グラシマさんに聞くと、訪日中 にすべて企画購入したというから実に計画的だ。テーマ曲もわざわざセミナーのために作曲。伯人同士だけに、セミナーを盛り上げ説明するポイントをよく踏ま えた演出を考えている。

何が人間的(ウマニザソン)か。妊婦が苦しんで叫んでいても、「つくる時はさんざ楽しんだんだから、生む時は少しは我慢しなさい」などと助けないことが公立病院ではままあるという。

また、妊婦の子供が病室に母を訪ねることは一般的ではなかったが、セミナーでは妊婦心理の安定性を重要視して積極的に進めるなど意識改革的な部分が大きい。

またほとんど行われていなかったプレナタル(産前検診)の重要さも訴えられた。

セントロの医療施設でコーディネーターをするマルガリタ・ベルナルドさんは「面倒臭いと思って妊婦へ今まで詳しい説明をしなかったから、逆に余計な手間が生まれていたことが分かった。患者の話をよく聞き、よく説明する寛容さを持つことの重要性がよく分かった」という。

フェラ・プレッタから来たアナ・ルシア・フルタード・サントスさん(30)は「ここで学んだことを持って帰って、みんなに伝える」という。「保健 衛生知識が向上した。昔はすぐに投薬していたが、今では予防に力をいれるようになった」とHANDSの活動も高く評価している。

グラシマさんは「せいぜい五十人ぐらいの参加者かとおもったら二百人も集まってくれた。他の市にもこの運動を広げなくては」と意気込んだ。

フランシスコ会修道女として三年前から派遣されている、マニコレ唯一の日系人カナシロ・マリア・サチコさん(64、二世)は「ここの市民の現実 は、色々な意味で足りないことばかり。そんな中で定森はHANDSを通して、必要な知識を与える良い取り組みをしている」と語った。

第6回 >>

※ 本稿はニッケイ新聞2008年12月2日に掲載されたものを許可を持って転載しています。

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第4回 電線が文明とのへその緒

>> 第3回

毎月船で巡回保健指導に

「ボン・ジーア!」。子供たちは好奇心丸出しの表情で一行を迎え、一斉にあいさつする。HANDS職員らが口内の模型を使って、歯ブラシの使い方を教える。

イガラペジーニョ生まれのジョアキン・カバウカンテ・ダ・シルバ校長(31)によれば、ここには五十六家族、三百二人が住んでいる。生徒数は百六人、その大半が集まってきている。

市遠隔地教育局の教師グラージス・シダーデ・テリスさん(38)は、一人芝居のように大げさな動作で「土に落ちている果物は洗ってから食べる」「食事の前には手を洗う」「トイレの後には手を洗う」「食べたら必ず歯を磨く」と何度も唱和させる。

都会では当たり前のことでも、そうでない世界に河民は生きている。

職員のジルソンさんは寄生虫の予防について、子供たちに説明する。井戸水やわき水、川の水はそのまま飲むと危ないから、親にイポクロリットを入れて殺菌してから飲むように伝えて、と子供たちにいう。

ここはセントロから七キロしか離れていないが、遠隔地コミュニティと同じ生活パターンだという。セントロまでの道路が最近通じたが、自動車がない。歩けば片道一時間二十分かかる。セントロから近いので先生は毎日船で通っている。

校長によれば、セントロから電線が〇四年に敷設され、「それまではランプ生活、テレビもなかった」という。

人一人やっと通れる土道沿いに、文明とのへその緒のように電線が伸びている。約五十メートルおきに高床式の木造民家が建ち、テレビの音声が聞こえてくる。

案内したHANDS職員のエメルソン・ボルゲスさんは真剣な表情で、「手前の家はテレビもはっきり映るが、先に行くほど電気が弱くなって一番先だと扇風機も回らない」という。

どこの民家も十メールほど離れた所に草葺の小屋がたっている。トイレだ。エメルソンさんによれば、最近まで付近の草むらで用を足すのが普通で、伝染病などの観点からトイレを作るように指導した成果だという。

◎   ◎

まかない婦が作った昼食を立ったまま船中で食べ、次のコミュニティへ向かう。セントロをはさんで一時間ほど反対方向にあるサンタ・リッタだ。やはり教会を中心とした四点セットがある。

子供たち五十人ほどが集まって、講堂で椅子に座っている。同じ保健衛生の話をする。

地域保健員のアントニオ・プラド・アルファイアさん(64)は「こうやって説明してくれると、住民の意識が変わる。ここでは寄生虫がひどかったが 相当改善した」とHANDSの活動を高く評価する。「あとハンセン病患者がけっこういるから、それについても調査して欲しい」。

帰路、船の中で全員が集まって反省会。こんなに献身的かつ真面目に取り組んでいるグループがあること自体が、驚きに値するような真剣さだ。

HANDSではこのような一日に二カ所程度のコミュニティの学校をまわる船の巡回指導を、毎月十日間から二週間程度行っている。今月下流に行けば、次の月は上流という具合に巡回する。みなの役に立っているとはいえ大変な仕事だ。

電話がない遠隔地コミュニティで病人が出た時、医師や専門家の相談を受けたいという要望を受け、昨年HANDSは二十九のコミュニティに無線機を配った。朝夕一時間ずつ時間を決めて、地域保健員が健康相談などの無線交信をする。

ところが、肝心のマニコレの病院は無線に返答をしてくれない。ジルソンさんは「ただでさえ煩雑な業務が、さらに増えるのを嫌ってのことではないか」という。「それでも、僕らが相談を受けて対応している。重病の時は医者を呼んで直接話をしてもらう」。

地域保健員と医療機関との連携強化は必要だと誰もが思っていても、意識変革には時間が必要だ。

第5回 >>

※ 本稿はニッケイ新聞2008年11月28日に掲載されたものを許可を持って転載しています。

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