深沢 正雪

(ふかさわ・まさゆき)

1965年11月22日、静岡県沼津市生まれ。92年にブラジル初渡航し、邦字紙パウリスタ新聞で研修記者。95年にいったん帰国し、群馬県大泉町でブラジル人と共に工場労働を体験、その知見をまとめたものが99年の潮ノンフィクション賞を受賞、『パラレル・ワールド』(潮出版)として出版。99年から再渡伯。01年からニッケイ新聞に勤務、04年から編集長。

(2009年1月 更新)

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ブラジル水泳界の英雄・岡本哲夫:日伯交流から生まれた奇跡

第1回 ヘルシンキ五輪・競泳で初メダル

二世・岡本哲夫(1932年生まれ~2007年没)は、ブラジル水泳界および日系社会共に初の五輪メダルをもたらした。彼が表彰台の3位に登ったのは、1952年8月3日。ヘルシンキ五輪(フィンランド)の1500メートル自由形競泳だ。しかも、その時の表彰台には日本人の血を引く三人が占めた。当時、邦字紙では五輪における日本勢の健闘が記事の中心だった。ところが、勝ち負け抗争の余韻が強く残っていて日本移民への悪印象が強かったにも関わらず、ブラジルの新聞は「ジャポネース」の健闘を大々的に報じ、心から祝福した。

ヘルシンキ五輪閉会式の当日、1952年8月3日午後、1500m自由形競泳の表彰台には、1位にハワイ出身の日系アメリカ人の紺野フォード(18分30秒3)、2位に日本の橋爪四郎(18分41秒4)、3位に日系ブラジル人の岡本哲夫(18分51秒3)が並んだ。岡本は身長178センチ、体重69キロ、鍛え上げられた筋肉質な体には、サムライの精神が宿っていた。

『ニッケイ新聞』2004年8月14日付によれば、1500mの最後のターンの時、岡本は苦しくて卒倒しそうだったが、「お前はサムライの子孫だ。大和魂を見せてから死ね!」という父親の声が聞こえ、「もう死んでもいい」と無我夢中で泳いたという。時代を感じさせるコメントだ。

でも、この気合、踏ん張りが無ければ、彼が表彰台に立つことはなかった。なぜなら4位の米国ジェームス・マックレーンとの差は、わずかコンマ2秒(18分51秒5)だったからだ。

岡本は3位入賞を知らされた時、嬉しさのあまり頭が真っ白になり、知らないうちに涙を流していたという。

岡本は予選で19分5秒6(ブラジル新、南米新)を記録して決勝に進んだ。これだけでも十分に誇れるタイムだった。ところが決勝ではさらに15秒近くタイムを縮め、なんと18分51秒3(南米新)を記録した。これはその後10年間も南米で破られなかった大記録だった。

1位の紺野との差は約20秒、2位の橋爪とは10秒。前年51年3月のパンアメリカン大会の同種目で、岡本の記録は19秒23秒3だった。それから1年半後の五輪までに、実に30秒もタイムを縮めていた。

岡本は凱旋直後の52年8月に『ウルチマ・オーラ』紙の取材に答え、「あと(練習期間が)2カ月ヘルシンキまであったら、1位を狙えた」との勇ましいコメントを残した。それほど20歳の肉体は驚くほどの発達を遂げていた時期だった。

でもそれは、持って生まれた才能だけではなく、日伯交流が生んだ奇跡的な特訓の成果だった。


開拓地プールでカエルと泳ぐ

岡本哲夫の父専太郎はいわゆる農業移民ではない。1892年北海道札幌市生まれのインテリで、測量技師の資格も持つ自由渡航者として1912年にイギリスからアマゾンを経て入伯した。母ツヨカは福岡県の出身だった。

専太郎は息子に「お前はサムライの子孫だ」と説いたほどだから、実際に士族の出で、明治期に本土から北海道開拓に入った家系かもしれない。

19244年のイジドロ革命時にはサンパウロ市のコンデ街で生活し、大正小学校(1915年創立)の後援会が創立した時(1920年)、発起人の一人に入っている。革命の年にドアルチーナに移転、1932年からマリリア(1929年市制開始)へ移り、戦前の同市における日本語教育界の重鎮となった。

専太郎はマリリア市日本人会の会長も務め、パウリスタ延長線教師連盟やパウリスタ教育会の創立に尽力した。この教育会が毎年、資金を集めて修学旅行、作品展覧会、学芸会、陸上競技会、柔剣道大会を開催した。日語教育が華やかだった1937年当時、汎マリリア地域だけで1740人の生徒が在籍していた(汎マリリア三十年史『豊原』1959年、中村東民、『三十年史』刊行会)。

哲夫は1932年3月21日にそこで生まれた。哲夫の出生届け番号は町で36番。市制開始からわずか3年。現在では20万人を数える地方中核都市の、最初期の一人だ。兄は良夫、姉には良枝、鈴枝、国枝を持ち、末っ子だった。

哲夫が泳ぎ始めたのは7歳、ちょうど太平洋戦争開戦直前の1940年頃だ。小児ぜんそく持ちだった哲夫は、親の薦めで身体を鍛えるために水泳を始めた。

『パウリスタ新聞』1952年9月18日付によれば、熊本県八代郡出身の戸崎新蔵と山崎用一が、1940年10月8日に私費で自分の農園の中に「日本人プール」を竣工した。長さ25メートル、幅12メートルだった。工事費用は30コントの予定が50コントもかかったという。当時、そんな開拓地でプールを持っている日本人は極めて珍しかった。

岡本はその「日本人プール」で水泳を始めた。『ニッケイ新聞』2004年8月14日付で岡本は、「タイル張りのプールなど田舎にはなく、小川をせき止めて造ったもので、カエルがよく泳いでいた。泳ぎ出すとすぐに濁ってしまい、目を開けても水中ではなにも見えなかった」と最初の頃のことを語っている。

同じ頃にヤーラ倶楽部(Yara Clube)ができ、以後はそこで練習を重ねるようになった。

1937年から本格化したゼッツリオ・バルガス独裁政権のよるナショナリスム政策により、38年には10歳以下の児童への外国語教育の禁止、同年末には日・独・伊の外国語学校が全て閉鎖させられ、41年7月には全邦字紙が強制廃刊となった。岡本が10歳前後を過ごした戦争期は、日本移民にとって受難の時代だった。

第2回 >>

 

* 本稿は、『ニッケイ新聞』(2016年8月5日6日)からの転載です。

 

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外国人になった日本人の気持ち、終わりのない長い旅 - その2

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国籍さえあれば、日本人として信用できるのか

記者コラム・在日ブラジル人にも10万円支給を》のコメント欄を読んでいて気になったのは、在日外国人に対して、永住組と短期滞在者を一緒くたにしている人が多く、また、国籍に対する純粋な思い込みが強いことだ。

たとえば、次のような書きこみだ。

《ていうか外国人ってことは国籍が外国にあり、その外国に国民を守る義務が発生するんだろうから、そういう人は本国にお帰り願えばいいだけじゃないの?
納税してる/してないは日本に滞在するために必要な代金だと解釈すればいい。
外国に国籍のある人をそこまで日本政府が守ってやる必要性ないでしょ。
そこまで外国人に媚びる必要ない。あくまでも日本政府が守らなければいけないのは「日本国籍をもった日本人」だけだと思います。(中略)
この記事を書いた筆者は考え方がズレてるし、発想が図々しい。生活できないなら本国に帰ってください》

《マイナンバー導入した意味ないよね。
外国人の保護は自国がやるべきで、日本が負うべきことではない。
納税してようが、日本国籍をもたないのだから》

このような書きこみをする人は、在日外国人の裏返し「外国人としての日本人」の気持ちが分からない人だと感じる。

外国に住んでいる日本人には、仕事やいろいろな都合でその国に帰化している人もたくさんいる。だが、それ以上に日本国籍に誇りを持って、それを保持し続けている人もいる。「遠隔地ナショナリズム」的な現象であり、日本の日本人以上に日本人であることに誇りを持っている移住者はブラジルにも多い。

同じ現象は、日本に住んでいる外国人にもあるだろう。つまり、「日本という国が好きで永住したいが、できるだけ国籍は元のままでいたい」というケースは多い。

「国籍」は生まれながらについてくる基本属性だ。対して「外国人」という属性は、幼少時に親に連れて行かれた場合もあり、好き嫌いを問わずに後から身につけた属性だ。だが、帰化することができるから、国籍だってその人の精神性、アイデンティティを現しているとは言いがたい。

むしろ、国籍を過信することは怖い。国籍を持っているからといって、その人が「心まで100%日本人」であるとは限らない。

たとえば20年ほど前、当時、サッカー日本代表をしていた某ブラジル人サッカー選手(日本国籍)を取材した。彼が里返りした折、サンパウロ市で会った。

仮にも日本代表選手なのだから、てっきり日本語で取材できると思って話しかけたら、「ここはブラジルだから、俺はブラジル人。ここでは日本語はしゃべらないから、お前の方がポルトガル語で質問しろ」と言われた。

彼は二重国籍だったから、彼の言い分にも一理あると思い、ポルトガル語で取材した。だが、なにか釈然としないものが残った。彼はもちろん日本では「日本人」と言われている。

国籍があれば日本人として信用できるのではない。国籍は一つの判断材料にすぎない。大事なのは日本のことがとにかく気に入っており、永住する気持ちがあるかどうかだと思う。


映像化してほしい『血の記憶』

クアレンテナ(検疫)のおかげで、『血の記憶』(麻野涼、文芸社文庫、20200年)という興味深い社会派ミステリー小説を読んだ。奇しくも在日外国人が主人公になっていた。

外国人の血が入ったような特徴のある容貌と、笑いを誘う軽妙なコメントでバラエティ番組の人気者、モデル出身の若い女性タレントである主人公SUMIREは、赤ん坊の時に渋谷区の病院前に捨てられているのを保護された。「私には両親の記憶がまったくありません」という謎の出自をもっている。

芸能界に入った理由も、「有名になれば両親が名乗り出てくれるのでは」という儚い希望からだった。

事件は、在日ブラジル人労働者がたくさんいることで有名な静岡県浜松市のスーパーで起きた。閉店間際に、アジア系外国人に地元のグローバル企業社長の娘と孫が拉致される。そこで出された犯人の要求は、よくある大金ではなく、「社長の左手を切断しろ」という理不尽なもの。

そこに1990年の日系人によるデカセギブーム開始時、2008年のリーマンショック時に、不自然と思われる左手や左手の指を切断する重大事故があちこちの工場で起きていた本当の出来事が重なり、犯人像が徐々に明らかにされていく。

SUMIREの父親が同グローバル企業で働いていた外国人であることが分かり、彼女があるニュース番組でその事件をコメントしたのを犯人が見て、驚きの行動に出る。そこからストーリーが急展開し、予想外の結末に繋がる。

物語には、東京の六本木のバーで演奏をする黒人系日本人ミュージシャンBJという個性的なキャラクターも登場する。実在の人物がモデルになっており、進駐軍の米兵と日本人女性の間にできた混血児を預かるエリザベス・サンダース・ホーム(神奈川県大磯)育ちの黒人系日本人だ。

仲間の8人の孤児がブラジル・パラー州のトメアスー移住地にある第2同ホーム(聖エステファニー農場)に1963年に移住したのを見て、「自分もブラジルへ」と夢見るが、政府がビザを出し渋るなどの問題が起きて、移住を諦めた。

最後は、拉致現場とテレビ局のスタジオが混然となったラストには、手に汗にぎらされる。

ぜひ実在の売れっ子アイドルを起用して、映画やテレビドラマ化してほしいストーリーだ。

「在日」と言われる人々は、韓国人や中国人ばかりではない。外見や国籍では簡単に測れない「多彩な日本国住民」の群像が、『血の記憶』にはちりばめられている。

TBS開局60周年記念『99年の愛 〜JAPANESE AMERICANS〜』(2010年)、NHK放送80周年記念・橋田壽賀子ドラマ『ハルとナツ 届かなかった手紙』(2005年)など、戦争前後の日系人の歴史を描いたドラマや映画は作られている。

だが「今現在の在外邦人」に関して、ドキュメンタリーばかりでドラマにはなっていない気がする。「外国人になった日本人」が何を思い、考えているのか。グローバル化したなにげない日常、それを結晶化させた文章、映像を発表する人に出てきてほしい。

「外国人になった日本人」が容易に想像できれば、「日本国内でどう外国人を扱えばいいか」と言う、良い意味での日本らしい方式が生まれるのではないか。

『血の記憶』のような日本永住を決意した外国人を主人公にした物語や、外国に永住をする在外日本人のドラマをもっと作り、グローバル化した現実、日本人も外国人になるという事実を描き、日本の一般常識に織り込んで欲しい。

 

* 本稿は、「ニッケイ新聞」(2020年5月5日)からの転載です。

 

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外国人になった日本人の気持ち、終わりのない長い旅 - その1

成田国際空港の「おかえりなさい」見てホッとする心情

海外在住日本人、移住者にとっての日常生活は、終わりのない長い旅のようだ。普通の人はふるさとに戻ることで、旅が終わる。それは祖国のどこかだ。

ブラジルで生活を始めて25年以上経ったが、いまだにどこかを旅している感覚が抜けない。

外国で生活せざるをおえなくなった人、それを選んでしまった人にとって、祖国に帰るのは一時帰国の時だけ。

では、どうやって「長い旅」を終わらせるか。どこかの時点で腹を決めて「ここが第2のふるさとだ」と思いこむしかない。いや、そう思い込めるようになったときに、ようやく旅が終わる。

固い、しっかりとした大地を歩いている感覚が、ふるさとで生活している心境だとすれば、移住生活は高いビルの谷間に渡した長くてゆらゆらした綱渡りを、ずっと続けているような感覚だと思う。

たまに日本に帰って成田国際空港の入国ゲート前にある、エスカレーターの上に書いてある「おかえりなさい」という表示を見たとき、いつもホッとする。「ああ、やっと地面に足を下したな」と感じる。

たぶんこの感覚は2年、3年以上を外国で過ごした人にしか分からない。異国の地で四季を何度も繰り返して、「ああ、またこの季節が来たな」というのを空気で分かるようになったときだ。「終わりのない旅」や「綱渡り」の感覚を日常と思えるまで暮らさないと身に着かない。

それを経験した日本人は「外国人」になると思う。

日本の日本人にとって一般的に、「外国人」というのは「自分たち以外」の人たちのことだ。

例えば、身近なところに在日外国人労働者が増えてきて、コンビニや居酒屋の店員、自動車部品工場、干物工場、弁当工場などなど、外国人なしでは日本の産業は回らないところまで来ている。たとえ彼らの中に日本永住を決めている者がいたとしても、同じ日本国住民、日本国市民と思う事はほとんどないのではないか。

でも、我々のような外国を「第2のふるさと」としている日本人移住者にとっては、自分の方が「外国人」だ。

外国人であるかどうか―という問題は、生まれながらに備わる属性ではない。ふるさとや祖国で生活をしているかどうか、移民かどうかという部分と直結する「後付けの属性」の問題だ。

つまり、誰もが「外国人」になりえる。

グローバル化社会においてヒトやモノの移動は、避けられない部分がある。移動したヒトはすべて「外国人」になる。いわばグローバル化社会のおとしごだ。


ヤフーニュースに載せたコラムに3800件のコメント

冒頭に書いた感覚は、あまり日本の日本人には理解されないのかも―という感想を、先日書いた《記者コラム・在日ブラジル人にも10万円支給を》をヤフーニュースに出した際にもらった3800件以上のコメントを読みながら感じた。

PV(アクセス)数が約195万件もあり、単なるブラジルの日本語新聞としては過去最高を記録した。地球の反対側にある、吹けば飛ぶような公称1万5千部のミニコミ紙が、瞬間最大風速とはいえ、インターネット上ではその130倍の読者の目に触れたわけだ。

コラムの主旨は《ブラジル在住日本人およびブラジル日系社会の立場からすれば、日本永住を決めているブラジル人も当然、日本国民の一人のはずだ。ぜひ10万円の現金支給をしてほしい》ということ。

リーマンショックの後、日本に残った在日ブラジル人の大半は、日本で永住しようと決意した「永住組」であり、永住権を持って、子どもを日本の学校へやって育てている。主に永住組に関する支援を主張したつもりだった。余裕があれば、永住権はないが労働する権利があるビザで滞在している人も―ぐらいのつもりだった。だがコラム子の言葉が足りなかったようで、「不法就労者や無滞在資格者にまで支給しろ」と言っているように誤解して、批判コメントを書きこむ人がけっこういた。

そもそもコラム子は、日本がキチンとした移民政策をとらずに、中途半端な外国人労働者導入を拡大していること自体に反対している。

寄せられたコメントの多くは、《住民基本台帳に登録されていて納税義務を果たしていれば、日本人でなくても給付されるようです》という情報を教えてくれるもので一安心した。

「住民基本台帳法」は各自治体が住民全体の住民票を世帯ごとに作成する公簿だ。そこに、2012年の外国人住民に係る入管法等改正法によって、外国人住民も同台帳の適用対象に加えられた。つまり、永住組在日ブラジル人は登録しているから、問題ないことが分かりホッとした。

ヤフーコメントには、《永住許可が有っても税金を払わず生活保護目当てであれば保護する必要は無いでしょう。寧ろそのような人達は、自分達の本来の国に帰って頂くべきだと思います。人権などと言うのであれば、其々の国で言いましょう。税金を納め生活している人達は、日本国民として助けるのは、当然の事だと思います》というものもあり、「その通り!」と膝を打った。


ブラジルでは外国人、在外者にも支援金を給付

ちなみに、ブラジルで今回のコロナショック対策として打ち出された非正規雇用者向けの600レアルの給付金(×3カ月)には、外国人も申し込める1

永住権を問う内容は書いてないが、納税者番号(CPF、日本のマイナンバー)は必要だから、「納税している人」ということだ。

とはいえブラジル在住日本人で、これを受け取っている人はほんの一握りだろう。受給者条件に家族一人当たりの月収が522レアル(約1万円)以下というものがあり、日本人でそれ以下の生活をしている人は、ほぼいないからだ。

というか、そんな生活を元々していた日本人は、おそらくとっくに帰っているだろう。

興味深いことに、在外ブラジル人もこの600レアルは受け取ることができる。ただし、「恒久出国申請」(declaração de saída definitiva)を国税庁に提出した人は、受け取る権利を消失している。ブラジルと外国の両方で税金を納めている二重生活をしている人のみだ2

ということは、在日ブラジル人の永住組は恒久出国申請をしているだろうから、受け取る権利を持たない。やはり、日本で支援して欲しい。

続く >>

注釈:

1.“Sou estrangeiro e moro no Brasil. Posso receber o auxílio emergencial?” (globo.com, 15 de abril de 2020).

2. “Brasileiros no exterior também têm direito ao auxílio emergencial; conheça os requisitos” (Geral, 20 de abril de 2020)

 

* 本稿は、「ニッケイ新聞」(2020年5月5日)からの転載です。

 

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青年海外協力隊員から陶彫作家、モジお茶屋敷へ — その2

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海外協力隊の後、中南米を放浪してブラジルへ

中谷さんは1943年5月23日に大阪府大阪市で、5人男兄弟の4番目として生まれた。京都学芸大学(現教育大学)美術科を卒業し、商業施設の展示施工をする日展で働くも、自分のデザインがクライアントの注文によって変更させられる現実に嫌気がさし、1年で退職。

たまたま京都近代美術館でやっていた近代陶芸展を見て、これだと直感し、京都の鋳込み工場で働きながら陶芸工房を見学して回り、陶芸家の叶光夫に心酔して2年間師事する。「焼き物の基本をすべてそこで習った」と振り返る。陶芸の里として知られていた福岡県小石原地区の生活雑器工房でも1年間下働きをし、ロクロの使い方を憶えたという。

「就職して実家を出て、しがらみから出たいという気持ちが強かった」ので1971年から2年間、JICA青年海外協力隊に参加してエルサルバドルで陶芸指導をした。同協力隊は1965年に発足して現在も続く制度。指導する学校が休みの期間に近隣の中米諸国、ホンジュラス、グアテマラ、メキシコなどの古代マヤ文明遺跡を中心に旅行して回った。

「特にグアテマラのティカル遺跡に感動した。高さ65メートルのピラミッドの上まで登ると、周りを一望できる。360度、原始林なんだ」とトツトツとしゃべる。そうして見て回った中米の遺跡や発掘された道具類の心象が強く、中谷さんの初期の作品に色濃く影響を残している。

本来なら協力隊期間が終わったら帰国しなければならないが、そのまま2年ほど中南米を放浪し、ブラジルへ。途中ペルーのリマで、アンデス文明の貴重な史料が展示されている天野博物館を訪ねた。創立者の天野芳太郎が存命で、陶芸家として身を立てることについて相談に乗ってくれた。「それならブラジルへ行ったらいい。あそこは人情が深いコミュニティがある」と推薦してくれた。


旅行で来て、体当たりで永住ビザを取得

普通の戦後移民なら、最初から移住を意図してやってくる。だが中谷さんは違う。1974年、中谷さんは旅行の延長でやってきて、何の身寄りもないまま居ついた。もちろん永住ビザもない。

「当時は観光ビザから永住ビザに切り替えることができた。でも安定した収入があることを証明するための勤務先が必要とされた。いくつか日系企業を回って頼んだが、企業で働くこと自体に永住ビザが必要だと断られた」。でも、いったん気に入ったら簡単には諦めないのが、中谷さんだ。

たまたまSENAI(工業実習サービス機関)の陶芸教室の教師が欠員しているという噂を聞き、パウリスタ大通りの本部に出向いて「雇ってくれないか」と直談判した。応対したのがドイツ系子孫の責任者で、当時ポ語もまともにしゃべれなかった中谷さんを「ブラジルは移民大国だから」と快く雇用してくれ、永住ビザの申請まで手伝ってくれた。エルサルバドル仕込みのスペイン語で指導した。

でも1年で辞めて、粘土が取れる町として有名だったサンシモンで自分の工房を始めた。そこで最初に作った作品は、教会とその前に立つ十字架というブラジルの田舎町の典型的な光景だった。
 だが近くに大都市がなくて作品が売れない現実にぶち当たり、サンパウロ市の近くに住まないとダメだと考えて探した。イビウナの前田農場で空き家があると言われて2年間そこでやっているうちに、竹中商会の農業技師・北方邦雄さんに知り合い、彼がモジ市コクエラに持っていた土地を好条件で売ってくれた。「私がブラジルで尊敬する人物の一人です」。1978年に移り、今もそこにアトリエを構える。

北方邦雄さんは竹中商会退職後、汎ヅットラ花卉生産者協会の荒木克弥会長(当時)に口説き落とされてアルジャーに移り、農業指導に貢献した人物。アルジャーの花祭り会場には、彼の俳句「愛と美に生きるよろこび花まつり」の句碑が立っている。

発想の源泉が古代文明から有機体へ

中谷さんは最初、中南米の古代文明からインスピレーションを得た作品が多かったが、ブラジル自体の影響を受けて、有機的なデザインに変わっていった。まるでサンゴ礁か脳味噌のような複雑に入り組んだ形だ。

なぜこの形になったかを問われて、《陶芸でしかできない造形を追求したかったから。現在の文明生活の中で失われた有機的、生態系的、原始的な何かを、陶芸や釉薬がもつ可能性を最大限に発揮できる形を模索したらこうなった》(作品集129P)と応えている。

「実家の母からは日本に帰ってきて、敷地内で陶芸をやったらどうだと何度も言われました」。実家の土地が広く、アトリエを作る場所は十分にあったようだが、中谷さんは断った。「日本に住んでいたら、全然別の作品になっていた。自分が作っているものが、日本の一流の焼き物に比べて、どの程度のものか分からない。でも対抗したいという意識は常にある。ブラジルに住んでいる感覚、それが有機的なデザインに反映されていると思う」。

ブラジル国内を中心に日本でも個展を開き、あちこちの陶芸展に出品を重ねた。1980年にはヨーロッパ陶芸の中心地の一つ、イタリアのファエンサで開催されている国際陶芸展に出品して「大統領章」に輝いている。

1984年に文協で第1回陶芸展を開催し、陶芸委員会の委員長に就任、そこから5年間も務めた。そんな脂がのりきった時期に始めたのが、1996年からのカザロン修復だった。


修復されたカザロン・ド・シャ(お茶屋敷)

中谷さんは「カザロン修復を呼びかけた時、『そんなことして何になる?』『どうせできっこない』とあちこちで言われた」と振り返る。一文にもならないカザロン修復に関わろうと決めた理由は、「日本文化を残そうとか、文化的価値があるからといった大義名分ではなく、手仕事をする者に共通する感性を建物から感じ取れ、愛着が沸いたからだ」という。

「入口周辺の瓦の曲線とか、自然な枝ぶりをそのまま組み込んで、建築に生かした内装などに温かさがある。大工と陶芸家には手仕事としての共通点がある。意味があるとかじゃなくて、細かいところまで気を使って、キレイなものを仕上げる。やることは大工も焼き物も一緒」とひと言、ひと言、考えながらしゃべる。そのしゃべり方ゆえに、独特の説得力が生まれる。

芸術へのこだわりと同じ情熱がカザロン修復に注ぎ込まれた。モノという形のある作品でなく、「行為」としての芸術だ。あの修復事業自体が彼の芸術作品だと本を見ながら思った。

2017年にサンパウロ連邦大学修士課程にいたジョバンナ・デラグラシアさんが中谷さんの業績を論文としてまとめた。それを読み、「これを元に本にしよう」と思いついたという。PROAC(サンパウロ州文化免税事業)に申請したら許可され、協賛企業を探し、本書出版に至った。

「去年(2018年)3月から初めて、ようやく完成した」という中谷さん。本の刊行記念パーティは、昨年10月カザロンで行った。


Enock Sacramento, Giovana Delagracia. AKINORI NAKATANI sua obra e sua vida. (40レアル)

 

* 本稿は、「ニッケイ新聞」(2019年10月8日付)からの転載です。

 

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青年海外協力隊員から陶彫作家、モジお茶屋敷へ — その1

来社対応を終えて、なにげなく編集部入口の古本売り場をみたら、見覚えのある特徴的なヒゲを持つ男性の後姿がみえた。「珍しい人が来られましたね」と声をかけたら、やっぱりモジ市コクエラ在住の陶芸家・中谷哲昇さん(あきのり、76、大阪府大阪市出身)だった。

中谷さんは「本を出したんで、持ってきたんです」と自分の作品集『AKINORI NAKATANI sua obra e sua vida』(ポルトガル語、Enock Sacramento, Giovana Delagracia)をポンと渡した。開いてみてアッと驚いた。本当はこういう作品を作ることを本業にした人だったんだ、と今更ながらに感心した。生活雑器ではなく、陶彫(彫刻としての陶芸)だ。

というのも、正直言って中谷さんには「金にもならないカザロン・ド・シャ復元運動をしゃにむに進める不思議な人物」という印象が強かった。

名だたる財閥がブラジル上陸した1920年代

「カザロン・ド・シャ」はモジ市コクエラ区がまだ紅茶の産地だったころに建てられた製茶工場の別名だ。日本の片倉財閥の中核企業「片倉製糸」の今井五介が私財で土地を購入し、農学士の揮旗(ふりはた)深志、大工の花岡一男が建設に関わって、戦争中の1942年に完成した。

第2次大戦でインド・ヨーロッパ間の国交が断絶し、紅茶の価格が高騰したことをきっかけに、本格的な製茶工場として60年代まで利用された。その後は倉庫として使われ、86年には美術、歴史、考古学的な価値が認められて連邦文化財に指定されたが、荒廃が進んでいた。

「片倉財閥」は戦後GHQによって解体されたぐらい大きかった。「シルクエンペラー」と呼ばれた二代目・片倉兼太郎(1863―1934)は、父が長野県諏訪郡に創業した製糸会社を拡大発展させて、県を代表する大財閥に育て上げた。彼は1922年に欧州諸国、アメリカ合衆国、中南米を長期視察した。この時にブラジルに着目したとみられる。

この二代目の実弟が今井五介だ。その経済力を背景に今井五介は1918年、貴族院多額納税者議員に選出され、32年には貴族院勅選議員に任じられ、46年に死去するまで在任した。

同じ長野県諏訪郡出身の永田稠が日本力行会会長に就任して、ブラジルにアリアンサ移住地建設(1924年)を打ち出したことから、それを日本側で支援した。

2005年12月17日付本紙に掲載された中谷さんの寄稿文「カザロン・ド・シャ保存運動」によれば、《もと長野県にあった片倉製糸の当時のオーナーが私費によって、北海道大学農学部出身の農学士揮旗深志をブラジルに派遣、一九二六年片倉合名会社の名前で百七十アルケールの農園(コクエラ農場)を購入した》とある。

思えば、この1920年代後半は凄い時代だった。日本財閥の進出ラッシュといえる時期だったからだ。たとえば三菱創始者岩崎弥太郎の長男である久弥がブラジルに東山農場を創立したのも1927年。その先発隊として派遣されたのが、戦後のコロニア再編の立役者となった山本喜司誉だ。

野村證券や野村生命保険(現東京生命保険)などを創立した野村徳七が、パラナ州バンデイランテに「野村南米農場」を設立したのも1926年だ。

武藤山治(鐘淵紡績社長)がアマゾン入植を計画して南米拓殖株式会社創立に尽力し、第1回アマゾン移民送り出しを実現させたのも1929年。現地では今年、そこから90周年を祝っている。


台湾で大成功した後宮財閥の後継者の一人だった後宮武雄が慶応義塾大学の産業研究会南米視察団員として来伯したのも29年。すぐにパラナ州コルネリオ・プロコピオに2千アルケールを購入して大コーヒー農場を始めた。

そのような大きな流れの中でカザロンも作られることになった。サンパウロ州には約60の連邦文化財があるが、日本移民関係はレジストロにある海外興業株式会社(KKKK)が作った精米所と倉庫の建物群と、カザロンの2カ所のみ。貴重な建造物といえる。


バイオリンが響く和風の文化的空間、お茶屋敷

「片倉合名会社」の現地農場支配人・揮旗深志(1891―1971年、長野)は、当時まだ珍しい農学士。コロニア雑誌としては最初の本格的な出版物、月刊誌『農業のブラジル』(農事通信社)を1926年から堂々たる活字印刷で発行し、農業界を牽引した。

その揮旗が、諏訪出身の大工花岡一男に依頼して建設したのがカザロンだ。そんな長野県繋がりが強い人脈が生んだ日系名建築だ。主要部は、当地では一般的なトラス構造で洋瓦葺き。だが玄関部に和風の意匠が凝らされ、内部の柱や階段にも自然の枝ぶりをもちいた曲線的なデザインがあり、独特の雰囲気を醸し出している。コラム子が初めて実物を見たとき「和風のガウディだ」と感じた。

2011年11月の県連故郷巡りの時、参加者の藤川修子さん(よしこ、岡山県)から、終戦直後47年から3年間、カザロンで働いていた当時の貴重な体験談を聞いた。

「『釘を一本も使ってない』って、支配人がいつも自慢していたわ。あの頃、私のような茶摘み娘が2、30人も働いていたかしら。揮旗さんの息子さんはサンパウロでオーケストラに入っているとかで、夕方にバイオリンを練習しによくカザロンに来ていたわ」とうっとりした表情で思い出す。

茶摘み娘たちがせっせとお茶を揉んだり、袋につめたりする作業の手を休めた瞬間、夕陽のお茶畑を望むお茶屋敷の二階から、若い青年がバイオリンでクラシック音楽を練習する音が響く――当時の文化村コクエラを彷彿とさせる光景だ。

80年代にはすっかり朽ちて廃屋同様になっていた建物を、孤軍奮闘して1996年に協会を設立して復元運動を始め、日本移民百周年の2008年まで12年がかりで見事に実現させたのが中谷さんだ。

前述寄稿文には《私達がカザロン・ド・シャ保存運動を始めるに当たり、民間非営利団体として協会を設立、現在で九年を経過している。協会の設立に至るまでに、地元コクエラにある日本人会、モジ地域日本人会の連合体であるモジ文化協会、またサンパウロ文化協会などに保存の協力を呼びかけた。しかし反応は鈍く、結局のところ協力は得られず独自の協会設立に踏み切った。協会設立当初、保存活動に対する地元日本人会の扱いは、半ば白眼視といったところであった》ともある。

この間、中谷さんは編集部に何度も足を運んでは、カザロン復元の意義を熱く説いていたのを憶えている。彼は当時、本職については何も語らず、ひたすらカザロンの意義を語っていた。

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* 本稿は、「ニッケイ新聞」(2019年10月8日付)からの転載です。

 

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