Masayuki Fukasawa

Nacido el 22 de enero de 1965 en la ciudad de Numazu, Prefectura de Shizuoka. En 1992 viaja por primera vez a Brasil y trabaja como periodista aprendiz en el diario nikkei Paulista Shimbun. En 1995 regresa a Japón y trabaja en algunas fábricas junto a los nikkei brasileños en la ciudad de Oizumi, Pref. de Gunma. Esa experiencia y sus impresiones lo publica en la obra “Parareru world (Mundo paralelo)”, Editorial Ushio, donde obtiene el premio de No Ficción de USHIO en 1999. Nuevamente, en dicho año retorna al Brasil. Y desde el 2001 trabaja en el diario Nikkey Shimbun, de Sao Paulo, y desde 2004 es Jefe Editor.

Última actualización en enero de 2009 

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ハワイ日本移民史とブラジルの繋がり - その2

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元年者の前から現地に住んでいた日本人も

『ハワイ移民史』を見てオヤッと興味深く思ったのは、明治元年(1868年)にハワイに渡った最初の日本人移民〝元年者〟がホノルルに着いたとき、すでに日本人が3人現地で暮らしていたという記述だ。

元年者150人の一人、牧野富三郎が無事にホノルル港に到着したことを告げる手紙が12頁に転載されており、《酔っ払いや乱暴を働く人間もおらず、平穏で幸せを感じている。到着した時には日本人が3人いた。神奈川県出身の仙太郎が残り、通訳や相談にも乗ってくれて「地獄で仏」に会ったようだ》と書き送っている。

笠戸丸移民の2年前に、〝実験台〟として渡伯した鈴木南樹(鈴木貞次郎)の体験談を書いた『伯国日本移民の草分』(1932年)には、彼がペトロポリスの公使館を最初に訪ねた時に、すでに現地在住日本人として出入りしていた二人が「伯国に於ける日本人の元祖」として紹介されている。

一人はやはりハワイ移民の転住者の「秋葉じいさん」だ。《ハワイから英国船に乗ってサントスに上陸し、転々として遂にペトロポリスに来た。つい先頃迄公使館の料理人をして居たのであるが、その頃は頭の上にお菓子箱を載せて、チャルメラのような音をたてる笛を吹きながら、大道を売って歩いて居た》(PDF版、16頁)。これが1906年の話だ。

さらに《秋葉さんははっきりと自分の歳も知らないし、伯国に何年居るかも知って居らない》とあるから、本当に〝国際的な仙人〟のような存在だった。

もう一人が「軽業師の万治さん」で、《軽業師竹沢万次の謎を追う=サーカスに見る日伯交流史=第1回=明治3年頃に上陸、全伯公演?》で連載にして紹介した「竹沢万次」だ。

きっとハワイの3人にも興味深い物語が埋もれているに違いない。


古谷重綱(ふるやしげつな)ゆかりの「上陸拒否事件」

加えて「上陸拒否事件」(93頁)にも目を引かれた。《移民会社は契約移民の枠に外れた人たちや、移民の希望者に携帯金の50ドルを貸し渡し〝自由移民〟にみせかけて送り出す抜け道を考え、積極的に移民を募集した。貸し付け金は上陸後に回収するという「見せ金」という方法》であり、それがハワイ政府から《携帯金の出処が不明朗、不合理である》として1100人余りを入国拒否した事件だ。

これに対して日本政府は1897年4月、外務省の秋山雅之助参事官を軍艦浪速でホノルルに派遣、ハワイ王国政府に強い姿勢を示した。《浪速には東京から毎日・国民・中央・時事・万朝の各新聞記者を同行させメディアも動員した》(93頁)とある。

ちなみにこの時の「国民新聞」の記者が古谷重綱で、戦前のブラジル同胞社会では外交官としてよく知られていた。だが外交官になる以前は、徳富蘇峰が経営する「国民新聞」の記者だった。

『在伯日本人先駆者傳』(433頁、パウリスタ新聞社、1955年)によれば、1896年、ハワイで日本移民上陸拒否事件が起きた時、古谷は特派記者として軍艦浪速で現地入り。その後、社主徳富蘇峰を説得して、ミシガン大学法科で勉強し、卒業後、国民新聞に復帰。

1902年に外交官試験に合格して、海外勤務を経て1921年には外務省通商局長に。1926年にアルゼンチン、パラグアイ、ウルグアイをかねる全権大使に。帰国後、栄転を断って1929年にブラジルに移住した。古谷の息子綱正は新聞人の血を引き、日本で毎日新聞論説委員になった。

外交官上がりで移民した古谷は、ジュキア線セドロでバナナ園を経営した。1936年から38年まで教育普及会の会長を務めたが、終戦直後に負け組の幹部として勝ち組強硬派に真っ先に襲撃された。元ジャーナリストらしく情報収集に熱心で、戦中も北米邦字紙を購読していた。当時蜂谷商会に務めていた藤田芳郎に、コロニアに正しい情報を広めることの重要性を説き、藤田は薦めに従って1949年に太陽堂書店を創業した。リベルダーデ日本広場に現在も続く、あの太陽堂書店だ。


悪徳移民会社追い出しや最初の日本酒製造

ハワイ初の日本人小学校開校は1896年。日伯修好通商条約の翌年だ。ブラジル初の移民船土佐丸は1897年8月に東洋移民会社から出るはずだったが、「コーヒー暴落」を理由にドタキャンされた。

実際に1908年にブラジル移民が始まる直前、1900~1907年の間だけでハワイには7万1千人の日本人が渡航していた。3年間の農地労働の束縛が解けた後、多くがより報酬の良い本土に移った。特にカリフォルニア州だ。

116頁によれば、1904年だけでハワイから本土への転航者は1万1132人を数えたという。本土に比べて移住条件が緩かったハワイが踏み台になった形だ。その中で、ハワイでの二世出生数は1901年に一千人の大台を超えて1134人、1903年にはピークの3437人を記録した。ブラジル日系社会にとっては大先輩だ。

どこの国にも移民を食い物にする会社は現れるようだ。《京濱銀行や移民会社が移民を食い物にする現状、これらの会社の肩を持つ斉藤幹総領事に対する非難がホノルルの日本人識者からわき起こった。1905(明治38)年5月7日、志保沢忠三郎らが中心となり革新同志会を結成、決起大会には約1400人が参加した》(130頁)という出来事もあった。それから1年も経たずして京濱銀行・移民会社はハワイからいなくなったというから、すごい影響力だ。

ちなみに1908年には仁保島村出身の住田多二郎が日本酒の製造に成功した。《日本酒が海外で製造されたのは、ハワイが最初である》(142頁)との歴史もある。《日本から杜氏を呼び寄せ、四季のないハワイで〝日本の冬〟を再現して試行錯誤、想像を越える多額の投資に悩みながらもわずか1年で製品化に成功》とある。

外地で何十年ぶりに飲む日本酒には、郷愁という〝隠し味〟が利いており、格別な味がしたに違いない。

* * * * *

日本国内でも外国人住民が激増してきた昨今、「かつて日本人はどこへどう移住したのか」に興味を覚える日本の人もいるかもしれない。

ハワイ移民史料館仁保島村サイトの館長挨拶には、《今、わが国では日系ブラジル人の里帰りを始めとする諸外国からの就労者や居住者も多くなり、急速な国際化への対応が大きな課題となっております。かつてハワイ移民は、日本人排斥運動・日本語学校への圧迫・太平洋戦争など大きな難問に直面しました。これらを見事に乗り越えたハワイ移民の歴史とその叡智は、多くの国籍を持つ人たちとの共生が目前となった現在の日本に、様々な形の示唆を与えてくれます》とあった。

移民史は外国の歴史ではなく、日本の近代史として認識されるようになり、教科書などにもしっかりと記述されるようになってほしい。

 

*本稿は、『ニッケイ新聞』(2021年6月29日)からの転載です。

 

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ハワイ日本移民史とブラジルの繋がり - その1

突然、日本の友人から『ハワイ日本人移民史 1868~1952』(ハワイ移民史料館仁保島村 館長 川崎壽、2020年刊、3800円、以下『ハワイ移民史』と略)が郵送されてきた。

日伯間の郵便業務は昨年4月から停止されていると思ったから、ビックリした。一部は業務を再開しているようだ。とはいえ2月にSAL便で出して6月末着、4カ月間だから通常の2倍ぐらいかかっている。

「ハワイ移民史料館仁保島村」という存在自体、初めて知った。広島県広島市南区仁保にある私設資料館だ。入場料は無料だが、メールなどで事前連絡が必要とある。

送ってくれた友人の手紙には《この本には館長の移民に対する溢れんばかりの情熱が凝縮されています》とあるが、その通りだ。A4判、全247頁には図版が満載されており、舌を巻いた。

館長の本業は建築業らしいが、忙しい本業の傍らコツコツと長い時間をかけて移民資料を集め、自分でこの資料館を建て、その収蔵品を織り込みながらこの移民史を編纂したようだ。

川崎館長が書いた序文には、ハワイとの関わりが紹介されている。姉がハワイの戦前移民だった関係で、真珠湾攻撃後、カリフォルニア州にあった最も反米的だった移民が集められた強制収容所に家族まるごと送り込まれたようだ。

いわく《私の義兄(従兄)は極めて反米的であるとしてハワイで逮捕され、アメリカ本土のツールレイク収容所に抑留されました。妻(長姉)と子供4人の家族全員が同行しました。戦後解放されると、驚くことに広島県呉市に置かれた英連邦占領軍司令部の通訳兼運転手として、姉は士官クラスの食堂の賄い方としての職を得て帰国して来ました。住宅が見つかるまで数カ月の間、我が家に滞在していました。生まれて初めて長姉との対面、そしてこれが私と〝ハワイ〟との出会いの始まりでした》(2頁)とある。

同史料館サイトの館長あいさつには、さらに深い関係が記されていた。

《私の父は、ハワイ島のヒロのプランテーションでサトウキビ列車の機関手として働いた経験を持ちます。兄1人・姉4人はハワイボーン、ハワイに永住しています。もちろん全員アメリカ人です。私は横浜生まれ、同じ兄弟でも生まれながらにして国籍を異にしています。

太平洋戦争の最中は敵と味方に分かれました。父の弟妹は5人もハワイに移民、全員が渡航以来定住し、それぞれの家庭を築いています。これらの家族は3・4・5世の時代を迎え、今やその人数は在日本の我が家系を遥かにしのいでいます》との自己紹介が書かれている。

つまり、日本の血筋を継ぐために館長は本家に残され、それ以外はハワイに移住したような家系に見える。家族ぐるみの深い繋がりが今もあるから、これだけの作業が根気よくできるのだと納得した。

米国の排日運動を受けブラジルに転住する流れ

『海外移住統計』(JICA、平成6年10月版)によれば、戦前に世界へ出た日本移民の数を県別に調べると、広島県が断トツ1位だ。約9万7千人にもなり、全移住者の約15%を占めている。ハワイから始まり、世界に散らばっている。2位が沖縄県、3位が熊本県と続く。

ブラジルに限ってみると、戦前戦後合わせて一番多いのは熊本県の2万3575人、2位は沖縄県で2万449人、3位が福岡県の1万9509人、4位が北海道、5位に広島県が来る。

そして何より、米国日本人移民は、ブラジル日本人移民にとって「兄貴分」だ。明治時代にはアメリカ行きが全盛となったが、日露戦争(1904~5年)に日本が勝利したことで、欧米に危機感が生まれて黄禍論となり、日本移民排斥が強まった。1905(明治38)年にカリフォルニア州議会が排日法案を提出して1913(大正2)年に成立するという黄禍論の高まりをみて、北米に見切りを付けた者が南米に活路を求めた。

つまり、米国が門戸を閉じなければ、ブラジルが世界最大の日系社会を持つ国にはならなかった。

例えば、日本力行会は元々米国への送り出しが中心業務だったし、ブラジルには縁が深い永田稠2代会長も元米国移民だ。

だからブラジルへの初期移民の多くは、米国からの転住者だった。1915年に初入植したモツーカの東京植民地、アリアンサ移住地の初期も米国転住者が多かった。

だいたい我々邦字紙の創世記を先導したのは北米からの転住者だった。

ブラジル初の邦字紙である週刊『南米』を創立した星名謙一郎は、ハワイで日本語新聞経営に携わった経験を持っていた。1887年、東京英和大学(現青山学院)卒業後、中国上海へ。移植民に興味を持つようになり、1891年までに契約労働者としてハワイに渡った。甘藷農園ではたらき、労働条件改善のためにストライキを先導したりしている。キリスト教の伝道でも活躍し、1895年からホノルルに出て、税関の通訳をしながら日本語新聞『日本週報』の刊行に関わっていたという。

このハワイ初の邦字紙『日本週報』は1882年創刊。その写真は『ハワイ移民史』74頁に出ていたが、星名の姿は無かった。星名が『南米』を創刊するのは1916年だから、36年後。ハワイの歴史は古い。

その詳しい経緯が『移民の快傑・星名謙一郎の生涯 ハワイ・テキサス・ブラジル』(飯田耕二郎著、不二出版、2017年)で描かれている。

〝邦字紙創立請負人〟のように3紙の創立に関わる輪湖俊午郎、『ブラジル時報』創立者の黒石清作、『ノロエステ民報』の梶本北民、移民向け教養雑誌の最初『塾友』を創刊した小林美登利らも、北米での苦い経験から、できるかぎり伯国政府を刺激するような批判をさけ、移民の側が適応すべく自粛するような内にこもる論調をつくり、批判するなら移民会社や日本政府という基調を全体的に形成していった。

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*本稿は、『ニッケイ新聞』(2021年6月29日)からの転載です。

 

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自分史に見るブラジル戦後移民と戦争の深い関係

現在世界最大200万人の日系社会を誇るブラジルも、最初は日本人移民25万人から始まった。戦後移民はそのうちの約5万人を占める。

戦後派の最大の特徴は「戦争経験者」「元満州移民や満州生れ」が多いことだ。調査がないので実数は分からないが、邦字紙記者25年の実感としてはこうだ。戦後移民の半分は数年で日本に帰国したが、残った人の4分の1から3分の1ぐらいは満州経験者ではないかと思う。

満州から本土に引揚げてしばらく生活したが、大陸で生活した経験からすると、日本の国土では何かと「狭苦しさ」「窮屈さ」「食糧難のひどさ」などから、再び外地に出たいという希望が湧き、当時数少ない移住再開国だったブラジルに大挙して渡った部分があると想像される。

だから、移民の書く自分史には戦争体験が多い。たとえば2005年に日系社会の文芸賞「コロニア文芸賞」を受賞した自分史『草原』はその代表格だ。

著者は野澤今朝之さん(けさゆき、故人)で、幼い頃を過ごした北満州での厳しい開拓の生活や家族の死、日本へ引き上げてからも続いた戦後の不幸や、コチア青年として1957年に来伯してからの様子、デカセギ時代など激動の人生が素朴な言葉で淡々と書かれている。

ニッケイ新聞にも2007年に全文転載し、好評を得た。当時の神田大民デスクは記者コラムの中で、《元陸軍の将校だったという八十二歳は、ぜひ野澤さんの所に香典を届けたい、焼香したい、と住所を問い合わせてきた。満州における悲劇からもう六十二年経ている。きけば、実兄が旧満鉄に務めていて、野澤さんの家族、親類と同じ目に遭った、他人事とは思えない、ということだった。毎日涙なしには読めない、と言い、筆者と話をしている間にも泣いた。声がつまって話が聴き取れなくなった。この人にとって、まだ満州は風化していない。野沢さんの文章を読んで感極まったのである》と読者から寄せられた感想を紹介している。


シベリア抑留者には大したことなかったアマゾン移住

1957年、アマゾン移民としてパラー州グアマ連邦移住地に家族で渡った谷口範之さん(のりゆき、広島県出身、故人)は2009年、人生の締めくくりに当って壮絶な戦中戦後の体験を記した自分史『私のシベリア抑留記』を遺した。満州出兵、シベリア抑留という戦後移民ならでは悲惨な体験を記したものだ。

終戦の半年前に第119師団歩兵連隊機関銃中隊に入隊し、満州国の北西部に渡った。伊列克得(いれくと)で陣地の築城作業中にソ連軍が侵攻し、「わずか4日間の戦闘で、連隊は半減した」という地獄を見た。

8月18日にロシア軍に抑留され、「家畜のごとく」貨物列車に一晩詰め込まれて収容所(ラーゲリ)へ。「朝点呼で起きて外に出たら、ウッと息ができない。あまりに空気が冷たくて」。食うや食わずで移動させられ、強制労働。ツルハシを地面に振り下ろすと、カンッという甲高い音と共に跳ね返された。地表は完全に凍結していた。

抑留を終え、1947年1月、長崎県佐世保に着いたとき、入隊時に58キロあった体重は40キロに減っていた。「飢餓線上をさまよい、音さえ凍る極寒と強制労働に耐え、灼けつくような望郷の思いに苛まれた抑留の日々であった」と当時の経験が綴られている。

シベリア抑留後から帰国10年後の1957年5月、妻の家族と共にパラー州のグアマ連邦移住地に入植した。入植時の受け入れ施設はまったく整備がされておらず、雨期には農地が水没するような酷い移住地で、入植者の多くが夜逃げした。だが、谷口さんは「シベリアに比べれば大したことなかったですよ」と笑い飛ばした。


満州から戻ると故郷の村民の半分が戦死

ブラジル沖縄県人会長や沖縄文化センター理事長を歴任してきた戦後移民・山城勇さんは、2017年、自分史『回顧録―おしどり米寿を迎えて』を出版した。

1928年に糸満市米須で生まれた山城さんは、43年に満蒙開拓青少年義勇軍に入隊し満州へ渡った。終戦後は大連で2年間の避難生活を経験した後に引き揚げ、58年に第4次沖縄産業開発青年隊としてブラジルに渡った。

山城さんは16歳の時に満州で終戦を迎えた。玉音放送の直後、義勇軍の《上官たち数人が、部隊で飼われていた豚を、軍刀で片っ端から切り殺していく姿を目の当たりにした。良く見ると、豚は首半分切りの頭を引きずりながら、血を吹き、広場を駆け回っている。半殺し豚があちこちでぶつかり合っていた。軍人魂の悔し紛れの仕打ちとは理解するものの、あまりにも酷い感じがした》(118頁)と生々しい描写がされている。

大連で2年近く避難生活を続け、47年にようやく引揚げ。《故郷沖縄は厳しい地上戦で家族は全滅してしまったものとばかり思いながら、長崎佐世保に引揚げた。胸中、県民玉砕で家族全滅の沖縄に帰っても仕方ないので、北海道に行先をきめて、収容所で待機していた。その時、恩師山城幸吉先生と偶然出会い、家族の生存を知らされた。急きょ方向転換し故郷米須(こめす)に帰還しました》(挨拶)。

父と弟の二人は戦死したが、他7人は九死に一生を得ており、4年ぶりに涙の再会を果たした。米須は、現在ひめゆりの塔が建つあたりから海岸までの地区で、沖縄本島最南端に位置する。地上戦の決着地であり、最も被害の多い地区だ。山城さんによれば同地区の250家族中、全滅が62家族。人口でいえば1252人中、半分以上の648人が戦没者だった。

終戦後も沖縄は米軍に占領され続け、《県民は拘束状態で軍靴に踏みにじられ、産業のない島で食糧や職業が少ない。さらに海外引き揚げ者も多く、人口の自然増は毎年2万人とあって、大きな社会問題となっていました》(挨拶)。

そんな引き揚げ者の多くが再び海外を目指した。《しかも1950年に朝鮮動乱が勃発すると占領軍は、軍事基地拡張のために強制的に農地接収を至る所で行うようになった。沖縄が再び戦乱に巻き込まれはせんか、と県民は不安におののいた。そこで平和でよりよい生活を求めて海外へ海外へとの気運が再燃しました》(同)という経緯でブラジルへ移住した。


「島は動かせないが、人は移民できる」

戦後移民・赤嶺園子さんの自分史の叩き台を読ませてもらった時、衝撃を受けた。沖縄戦の最中、血だらけになって「私はもう死ぬのですか」と父に問うシーンで始まっていたからだ。

普通の自分史なら「いつどこで生まれたか」という描写から始まり、子供時代の幼い頃の懐かしい、ほのぼのとした思い出がつづられる。ところが彼女のそれには、懐かしさを漂わせるニュナンスは一切ない。子供時代の温かい思い出など存在しないかのようだ。いきなり沖縄戦の厳しい描写から、その人生の1ページが始まる。

彼女が生まれた西原村は、沖縄本島中部の那覇市の反対側に位置し、米軍が激戦を繰り広げた場所の一つだ。その結果、家族5人が尊い犠牲となり、幼かった彼女自身も、山の中の避難所にいたにもかかわらず爆撃を受けて火傷を負った。その時の言葉が冒頭の問いかけだ。

この体験がトラウマとなり、彼女と家族の人生を決めた。移住動機を質問した時、彼女は「島は動かせないが、人は移民できるから」と答えた。そんな風に考えた人がたくさんいたから、戦後、沖縄からたくさんの移民がでたのだろう。

戦前にブラジルに渡っていた伯父が良い生活をしていると聞き、《戦争のない国ブラジルへの渡航を決意しました。以後機会あるごとに父母にブラジル行きを懇願するのですが聴許かないません》。だが結局は拝み倒して家族ごと移住した。

「万が一、また戦争に巻き込まれたら…」との恐怖感に背中をおされて、南米へ向かった形だ。沖縄に残った人たちは「少しでも戦争を遠ざけたい」から、ことある毎に基地問題を持ち出す。移民も基地問題も、裏には理屈をこえたトラウマがある。

地上戦を生き抜いてきたことへの感謝、「自分が今生かされているのは、ご先祖様のおかげ」という想いが、日々の行動の根底にある。

園子さんが人生の大事な判断をするとき、つねに秤の一方には「戦争」があった。「戦争」と「異国での苦労」を秤にかけたら、後者に軍配が上がった。平和に暮らせるなら、国籍や文化や言葉が異なる海外移住も厭わないというわけだ。

自分が言い出して家族をブラジルへ連れてきた責任感からか、身を粉にして家族に尽くす。どんな困難にも前向きに立ち向かい、ありとあらゆる知恵を駆使して解決してきた。日本にいたら開発できなかった隠れた自分の才能を、困難に直面することによって発揮し、ブラジルでの人生を切り開いてきた。

終戦から76年が経ったが、沖縄県には今も日本全国の米軍基地の7割が集中している。この事実からは「緊張感のある状況」は変わっていないことが分かる。もしも北朝鮮が核ミサイルを発射したら、中国の人民解放軍が攻めてきたら、真っ先に狙われるのは沖縄であり、いつの日か、再び戦場になる可能性は否定できない。

だから、彼等にとって戦争のないブラジルで末裔を増やすことは重要なのだ。沖縄県人は、いざという時の布石をすでに打っている。

父が亡くなった時、連絡が取れなかった弟が出棺直前に突然帰宅したなど、家族が見えない糸でつながれている実話が自分史には描かれる。「土地を移ることで言葉や文化が変わっても、たいした問題ではない。家族の絆さえ変わらなければ」。そんな確信が行間からにじみでている。とにかく子孫を残す。それがご先祖様から命を受け継いだウチナーンチュの宿願だ。

* * * * *

沖縄であれ、日本本土であれ、個人の力ではどうしようもない故郷が持つ属性を、国民の方が「国境を超える」というプロセスを踏むことによって、自分の人生においてプラスに作用するように向けることが「移住」の本質なのだと、ブラジルの戦後移民を見ていてしみじみ痛感する。

 

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16世紀に南米へ来た日本人奴隷とユダヤ教徒 - その2

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亜国日本人青年の所有者も新キリスト教徒

振り返って、コラム子の連載《日本人奴隷の謎を追って》で主題にした、1596年にアルゼンチンで奴隷売買された日本人青年の所有者も「新キリスト教徒」だった可能性が高い。

この件を最初に詳しく書いたアルゼンチン移民の大城徹三氏は著書『コルドバ』で、「さてフランシスコ・ハポンという日本青年は、当時日本との貿易が頻繁に行われていた南蛮人(ポルトガル人)によって連れられてきたことが濃厚に示されている。また正式なスペインの航路を通らず、ブエノス・アイレス港に入ってきたと推測できる。ということはスペイン国法に照らし、奴隷に処せられる条件になかった」(15頁)と書いている。

大城氏が〝奴隷商人〟と表現するポルトガル人商人の名は「ディエゴ・ロッペス・デ・リスボア」(Diego Lópes de Lisboa)。調べてみると、ディエゴはかなりの有名人だった。

スペインでは1478年に異端審問が開始され、1492年にはユダヤ教徒が追放されるにいたった。それに続いてポルトガルでも1497年に強制改宗令、1536年に異端審問が始まり、新キリスト教徒が急増することになる。

『ポルトガル史』(アルベール―アラン・ブールドン、白水社、1979年、59~60頁)には《教皇庁の黙認の意図にもかかわらず、国家の宗教裁判所が一五三六年につくられ、密告制度や秘密裁判や焚刑の恐怖によって絶対的な力をふるうに至った。(中略)宗教裁判所の所業はひとが想像するほど血なまぐさいものではなかったが、それでも一四五四人の犠牲者(二世紀間に記録された二万四五二二件の裁判について)の数は秘密、密告、暴力などのように、個人の自由を犯し、文芸や科学を沈滞させた当時の世情を考えると少なすぎる感じがする》とある。

つまり、イベリア半島でユダヤ迫害が強まる時期に大航海時代が始まっていた。ヨーロッパで宗教的な圧迫が強まる中、新キリスト教徒の一定部分は率先して、監視の少ない新大陸へ移って行った。そんなポルトガル移民商人の一人が、ディエゴ・ロッペス・デ・リスボアだった。


異端審問で焼き殺されたディエゴの父親

ディエゴの息子ファン・ロドリゲス・デ・レオン・ピネロ(1590―1644)はリマのサンマルコス大学で神学を勉強し、ユダヤ系出自で司祭になった人物として有名だ。彼の経歴を見ると、父方の祖父(つまりディエゴの父)ファン・ロペス・デ・モレイラは1604年に異端審問でその出自を問題にされ、リスボンにおいて公衆の面前で焼き殺された。

つまり、アルゼンチンで日本人フランシスコ・ハポンを所有していたディエゴ。その父親は、異端審問で焼き殺された隠れユダヤ教徒だった。

さらにチリ大学ユダヤ研究センターの研究冊子『La Palabra Israelita VIERNES 7 DE ENERO DE 2005』(訳=イスラエルの言葉、2005年1月7日号)12頁には、ディエゴ自身もユダヤ教的なふるまいをしているとの疑いが常々持たれていたと書かれている。そのため、ディエゴは自ら神学を勉強し、1628年には神父の資格をとり、新キリスト教徒との疑惑を晴らすことに務めていたとある。

チリ大学の『Los «Portugueses» en el Nuevo Mundo(新世界の〝ポルトガル人〟たち)』(Cuaderno Judaico nO 23) にも、このような家族の記述がある。

《ポルトガル人〝新キリスト教徒〟のディエコ・ロペスは、ユダヤ教徒として焼き殺された父の二の舞を避けるために、家族でスペインに逃げたが、ちょうどイベリア半島の二王国統一のタイミングだった。異端審問から逃げるための様にみえるが、ディエゴ・ロペスはインドに向けて出発し、初めはブラジルを通り、後にその先のラ・プラタまで行き、そのブエノス・アイレスで1594年に居を定めた。翌年コルドバに転居し、そこで数年を過ごした。1604年に家族をブエノス・アイレスに呼び寄せ、マドリッドの王家からの信用状を手にした「血の純化」信者証明書により、1603年にブエノス・アイレスでの異端審問も無事に通過することができた》

ユダヤ教徒だと疑われるだけで身の危険を感じる時代だった。フランシスコ・ハポンが神父に売られた年は、ディエゴがコルドバにきた翌年だ。


それならブラジルにも?

フランシスコ・ハポンは新キリスト教徒のポルトガル人商人の手により、アルゼンチンまで連れてこられた。この商人は、アルゼンチンの前にブラジルにも住んでいた。アルゼンチンに他にも同じような日本人がいた可能性が高いし、同じような動機やルートで、ブラジルにきていた日本人青年もいても不思議はない。むしろ「いた」と考える方が合理的ではないか。 

16世紀後半、ブラジルのバイーアやペルナンブッコでは、サトウキビ栽培と砂糖工場が大規模に経営されるようになり、大資本をもった貴族や金持ちがやってきていた。その中には、ポルトガルやスペインから迫害を免れた「新キリスト教徒」が大勢混じっていたことはよく知られている。彼らの使用人の中に、もしかしたら日本人奴隷がいたかもしれない。

あるブラジル人歴史家に相談したら『Serafim Leite -Historia de Companhia de Jesuita no Brasil』を紹介された。ポルトガル人イエズス会士の歴史家セラフィン・レイチ神父(1890―1969)の著作で、1538年から1563年の間に、ブラジルのイエズス会神父と本国のイエズス会の間でやり取りされた書簡集および、そこからひもといたブラジルにおけるイエズス会の歴史を書いた大作だ。

一部しかのぞいていないが、興味深い内容があった。イエズス会士が1549年に来る以前から、ブラジルには植民者が持ち込んだ黒人奴隷が働いており、「一人の黒人奴隷は、インディオ4人分の働きをすると住民は考えている」「1528年以前だけで4500人の黒人奴隷が運び込まれていた」「アフリカ人奴隷が不足したとき東洋系人種、インド人、モロッコ人をリスボンに送った」(第1巻333ページ)などとも書かれている。東洋系の奴隷がブラジルにもいた可能性は捨てきれない。

更に、初期のブラジル植民地には布教師と少数の植民者しかいなかったことから「女性がたりない。孤児をもっと送ってほしい」などの要請が書かれていた部分もあり、リスボンから日本人奴隷の孤児が送られた可能性もないとはいえない。

「1600年前後にブラジルにも、日本人奴隷が連れてこられていた可能性」を調べる研究者に出てきてほしい。

 

* 本稿は、『ニッケイ新聞』(2020年10月20日)からの転載です。

 

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16世紀に南米へ来た日本人奴隷とユダヤ教徒 - その1

BBCブラジルにセンセーショナルな記事が踊った。

いわく《400年前にポルトガル人によって世界に売られた日本人奴隷の歴史》(9月12日付、アナ・パウラ・ラモス記者)というポルトガル語の記事だ。東京外国語大学のルシオ・デ・ソウザ特任准教授と東京大学史料編纂所の岡美穂子准教授に取材したもの。

冒頭には《1585年、誘拐された8歳の日本人少年は、ポルトガル人商人ルイ・ペレスに奴隷として売られた。豊後国(現在の大分県大分市周辺)で生まれたこの少年は、ペレスが最初に手に入れた5人のアジア系奴隷の一人で、「ガスパル・フェルナンデス」として知られた》とある。

さらに《研究者らによれば、この少年は日本人によって誘拐された。当時、日本人が誘拐してポルトガル人に売る行為は一般的だった。ガルパルは、ペレス家と共に過ごして家事奉公した。彼はポルトガル語とスペイン語を覚え、家族と共にフィリピンのマニラへ連れて行かれ、ペレスはそこで、禁止されていたユダヤ教を密かに信仰していた罪で罰せられた。この商人はメキシコまで連れて行かれ異端審問にかけられ、アカプルコに到着する二日前に亡くなった》と書かれている。

ソウザ准教授はBBC記者に対し「メキシコで1カ月調査し、奴隷たちの史料と毎日数時間向き合い、ようやくその記録が手に入った。これはただ単なる史料ではなく、搾取され、忘れ去られた一人の本物の人生と向き合っているのだと、私には分かっていた」と見つけたときの気持ちを語っている。

16世紀に伯国へ日本人奴隷が来た可能性は?

読者の中には2009年4月の本紙連載《日本人奴隷の謎を追って=400年前に南米上陸か?!》を覚えている人も多いだろう。コラム子が昨年、日本で出版した『移民と日本人』(無明舎出版)にも大幅に加筆訂正したものを再掲載した。

1596年、アルゼンチンのコルドバで、日本人青年フランシスコ・ハポンが奴隷としてディエゴ・ロペスからミゲル・ヘローニモ・デ・ポーラス神父に800ペソで売られたことに関し、日本人青年が「自分は奴隷ではない」との裁判を起こした書類が見つかったとの件だ。

コラム子は同連載を書いた時から「ポルトガル本国に連れてこられた日本人奴隷の一部が、その後にブラジルまで来ていたのでは」「アルゼンチンのフランシスコ・ハポンのような日本人が、ポルトガル商人によってブラジルまで運ばれていたのでは」という可能性を提起している。

でも、BBC記事の本文には《肉体労働者を必要としていたブラジルで、ポルトガル人による植民が同じ世紀の初めから行われていたが、アジア系奴隷は主に家庭内労働に従事させられていた。リスボンにおいて、たくさんの家族は、所有する日本人奴隷を「舶来品」として見せびらかしていた》とある。

つまり、ルシオ准教授が「ブラジルは農場労働者として黒人奴隷を入れ、ポルトガルには家庭内労働の奴隷として日本人を入れた」から、ブラジルに日本人奴隷が来た可能性はないと考えているのかもしれない。

BBC記事で紹介されている「リスボン在住日本人として最古の記録」は、1573年に日本人女性奴隷ジャシンタ・デ・サー・ブランダオが、日本人男性奴隷ギリェルメ・ブランダオとコンセイソン教会で結婚したという書類だそう。

ソウザ准教授らは2017年に『大航海時代の日本人奴隷』(中公叢書)を出版しており、そこに詳しく研究成果が記されている。とても珍しく貴重な本だ。

日本人奴隷に関することは、噂話や断片的なエピソードばかりが先行し、なかなか本格的な研究が見られなかった。〝日本史のダークサイド〟的な印象が強いテーマなので、なかなか正統派の研究者が取っつきにくい部分があったのかもしれない。でも、日本在住のポルトガル人研究者がその難しいテーマに真っ正面から取り組んでくれたのは、本当に有り難いことだ。この研究は実に貴重だ。


新キリスト教徒と大航海時代

『大航海時代の日本人奴隷』では、ソウザ准教授の緻密な調査により、3人の日本人奴隷がメキシコに渡っていた史料が、ポルトガル人に対する異端審問の記録の中に見つかったことが書かれている。日本人奴隷の所有者たるポルトガル人商人には、このような隠れユダヤ教徒がかなり含まれていたようだ。

ユダヤ教徒は、一般的に「新キリスト教徒」(cristãos novos)と呼ばれている。スペインやポルトガルのあるイベリア半島は、8世紀にアフリカから襲来したイスラム勢力に征服され、キリスト教国家が再征服する運動「レコンキスタ」を続け、15世紀にようやく取り戻した経緯がある。

だから「古くからのキリスト教徒」(ポ語cristãos velhos)と区別するために、レコンキスタの後にカトリックに改宗したユダヤ人やムーア人(アフリカ北西部のイスラム教徒)のことを「新キリスト教徒」と呼ぶようになった。単に「コンベルソ(改宗者)」と呼ばれることもある。

このユダヤ人の中には改宗したふりをした「隠れユダヤ教徒」が多くおり、その疑いがかけられた者が「異端審問」にかけられた。

ウィキペディア「新キリスト教徒」項(10月17日参照)には《新キリスト教徒は、改宗後に洗礼名を名乗り、ヘブライ語やアラビア語の氏名を捨てた。ポルトガル王国やスペイン王国の庇護を受けた交易商人や宣教師には、少なからぬ新キリスト教徒(ないしは新キリスト教徒と目されている人々)が含まれている。彼らは大航海時代に活躍しており、スペインとポルトガルによる海外植民の尖兵だった者もいれば、先住民に対する植民者や侵略軍の非人道的な扱いを告発したラス・カサスのような者もいた。日本に南蛮文化をもたらした人たちもそこに含まれている》と書かれている。

つまり、ポルトガルやスペイン本国で暮らしづらくなった「隠れユダヤ教徒」らが大航海時代に船に乗って商人となって活躍していた。

続く >> 

 

* 本稿は、『ニッケイ新聞』(2020年10月20日)からの転載です。

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