深沢 正雪

(ふかさわ・まさゆき)

1965年11月22日、静岡県沼津市生まれ。92年にブラジル初渡航し、邦字紙パウリスタ新聞で研修記者。95年にいったん帰国し、群馬県大泉町でブラジル人と共に工場労働を体験、その知見をまとめたものが99年の潮ノンフィクション賞を受賞、『パラレル・ワールド』(潮出版)として出版。99年から再渡伯。01年からニッケイ新聞に勤務、04年から編集長。

(2009年1月 更新)

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自分史に見るブラジル戦後移民と戦争の深い関係

現在世界最大200万人の日系社会を誇るブラジルも、最初は日本人移民25万人から始まった。戦後移民はそのうちの約5万人を占める。

戦後派の最大の特徴は「戦争経験者」「元満州移民や満州生れ」が多いことだ。調査がないので実数は分からないが、邦字紙記者25年の実感としてはこうだ。戦後移民の半分は数年で日本に帰国したが、残った人の4分の1から3分の1ぐらいは満州経験者ではないかと思う。

満州から本土に引揚げてしばらく生活したが、大陸で生活した経験からすると、日本の国土では何かと「狭苦しさ」「窮屈さ」「食糧難のひどさ」などから、再び外地に出たいという希望が湧き、当時数少ない移住再開国だったブラジルに大挙して渡った部分があると想像される。

だから、移民の書く自分史には戦争体験が多い。たとえば2005年に日系社会の文芸賞「コロニア文芸賞」を受賞した自分史『草原』はその代表格だ。

著者は野澤今朝之さん(けさゆき、故人)で、幼い頃を過ごした北満州での厳しい開拓の生活や家族の死、日本へ引き上げてからも続いた戦後の不幸や、コチア青年として1957年に来伯してからの様子、デカセギ時代など激動の人生が素朴な言葉で淡々と書かれている。

ニッケイ新聞にも2007年に全文転載し、好評を得た。当時の神田大民デスクは記者コラムの中で、《元陸軍の将校だったという八十二歳は、ぜひ野澤さんの所に香典を届けたい、焼香したい、と住所を問い合わせてきた。満州における悲劇からもう六十二年経ている。きけば、実兄が旧満鉄に務めていて、野澤さんの家族、親類と同じ目に遭った、他人事とは思えない、ということだった。毎日涙なしには読めない、と言い、筆者と話をしている間にも泣いた。声がつまって話が聴き取れなくなった。この人にとって、まだ満州は風化していない。野沢さんの文章を読んで感極まったのである》と読者から寄せられた感想を紹介している。


シベリア抑留者には大したことなかったアマゾン移住

1957年、アマゾン移民としてパラー州グアマ連邦移住地に家族で渡った谷口範之さん(のりゆき、広島県出身、故人)は2009年、人生の締めくくりに当って壮絶な戦中戦後の体験を記した自分史『私のシベリア抑留記』を遺した。満州出兵、シベリア抑留という戦後移民ならでは悲惨な体験を記したものだ。

終戦の半年前に第119師団歩兵連隊機関銃中隊に入隊し、満州国の北西部に渡った。伊列克得(いれくと)で陣地の築城作業中にソ連軍が侵攻し、「わずか4日間の戦闘で、連隊は半減した」という地獄を見た。

8月18日にロシア軍に抑留され、「家畜のごとく」貨物列車に一晩詰め込まれて収容所(ラーゲリ)へ。「朝点呼で起きて外に出たら、ウッと息ができない。あまりに空気が冷たくて」。食うや食わずで移動させられ、強制労働。ツルハシを地面に振り下ろすと、カンッという甲高い音と共に跳ね返された。地表は完全に凍結していた。

抑留を終え、1947年1月、長崎県佐世保に着いたとき、入隊時に58キロあった体重は40キロに減っていた。「飢餓線上をさまよい、音さえ凍る極寒と強制労働に耐え、灼けつくような望郷の思いに苛まれた抑留の日々であった」と当時の経験が綴られている。

シベリア抑留後から帰国10年後の1957年5月、妻の家族と共にパラー州のグアマ連邦移住地に入植した。入植時の受け入れ施設はまったく整備がされておらず、雨期には農地が水没するような酷い移住地で、入植者の多くが夜逃げした。だが、谷口さんは「シベリアに比べれば大したことなかったですよ」と笑い飛ばした。


満州から戻ると故郷の村民の半分が戦死

ブラジル沖縄県人会長や沖縄文化センター理事長を歴任してきた戦後移民・山城勇さんは、2017年、自分史『回顧録―おしどり米寿を迎えて』を出版した。

1928年に糸満市米須で生まれた山城さんは、43年に満蒙開拓青少年義勇軍に入隊し満州へ渡った。終戦後は大連で2年間の避難生活を経験した後に引き揚げ、58年に第4次沖縄産業開発青年隊としてブラジルに渡った。

山城さんは16歳の時に満州で終戦を迎えた。玉音放送の直後、義勇軍の《上官たち数人が、部隊で飼われていた豚を、軍刀で片っ端から切り殺していく姿を目の当たりにした。良く見ると、豚は首半分切りの頭を引きずりながら、血を吹き、広場を駆け回っている。半殺し豚があちこちでぶつかり合っていた。軍人魂の悔し紛れの仕打ちとは理解するものの、あまりにも酷い感じがした》(118頁)と生々しい描写がされている。

大連で2年近く避難生活を続け、47年にようやく引揚げ。《故郷沖縄は厳しい地上戦で家族は全滅してしまったものとばかり思いながら、長崎佐世保に引揚げた。胸中、県民玉砕で家族全滅の沖縄に帰っても仕方ないので、北海道に行先をきめて、収容所で待機していた。その時、恩師山城幸吉先生と偶然出会い、家族の生存を知らされた。急きょ方向転換し故郷米須(こめす)に帰還しました》(挨拶)。

父と弟の二人は戦死したが、他7人は九死に一生を得ており、4年ぶりに涙の再会を果たした。米須は、現在ひめゆりの塔が建つあたりから海岸までの地区で、沖縄本島最南端に位置する。地上戦の決着地であり、最も被害の多い地区だ。山城さんによれば同地区の250家族中、全滅が62家族。人口でいえば1252人中、半分以上の648人が戦没者だった。

終戦後も沖縄は米軍に占領され続け、《県民は拘束状態で軍靴に踏みにじられ、産業のない島で食糧や職業が少ない。さらに海外引き揚げ者も多く、人口の自然増は毎年2万人とあって、大きな社会問題となっていました》(挨拶)。

そんな引き揚げ者の多くが再び海外を目指した。《しかも1950年に朝鮮動乱が勃発すると占領軍は、軍事基地拡張のために強制的に農地接収を至る所で行うようになった。沖縄が再び戦乱に巻き込まれはせんか、と県民は不安におののいた。そこで平和でよりよい生活を求めて海外へ海外へとの気運が再燃しました》(同)という経緯でブラジルへ移住した。


「島は動かせないが、人は移民できる」

戦後移民・赤嶺園子さんの自分史の叩き台を読ませてもらった時、衝撃を受けた。沖縄戦の最中、血だらけになって「私はもう死ぬのですか」と父に問うシーンで始まっていたからだ。

普通の自分史なら「いつどこで生まれたか」という描写から始まり、子供時代の幼い頃の懐かしい、ほのぼのとした思い出がつづられる。ところが彼女のそれには、懐かしさを漂わせるニュナンスは一切ない。子供時代の温かい思い出など存在しないかのようだ。いきなり沖縄戦の厳しい描写から、その人生の1ページが始まる。

彼女が生まれた西原村は、沖縄本島中部の那覇市の反対側に位置し、米軍が激戦を繰り広げた場所の一つだ。その結果、家族5人が尊い犠牲となり、幼かった彼女自身も、山の中の避難所にいたにもかかわらず爆撃を受けて火傷を負った。その時の言葉が冒頭の問いかけだ。

この体験がトラウマとなり、彼女と家族の人生を決めた。移住動機を質問した時、彼女は「島は動かせないが、人は移民できるから」と答えた。そんな風に考えた人がたくさんいたから、戦後、沖縄からたくさんの移民がでたのだろう。

戦前にブラジルに渡っていた伯父が良い生活をしていると聞き、《戦争のない国ブラジルへの渡航を決意しました。以後機会あるごとに父母にブラジル行きを懇願するのですが聴許かないません》。だが結局は拝み倒して家族ごと移住した。

「万が一、また戦争に巻き込まれたら…」との恐怖感に背中をおされて、南米へ向かった形だ。沖縄に残った人たちは「少しでも戦争を遠ざけたい」から、ことある毎に基地問題を持ち出す。移民も基地問題も、裏には理屈をこえたトラウマがある。

地上戦を生き抜いてきたことへの感謝、「自分が今生かされているのは、ご先祖様のおかげ」という想いが、日々の行動の根底にある。

園子さんが人生の大事な判断をするとき、つねに秤の一方には「戦争」があった。「戦争」と「異国での苦労」を秤にかけたら、後者に軍配が上がった。平和に暮らせるなら、国籍や文化や言葉が異なる海外移住も厭わないというわけだ。

自分が言い出して家族をブラジルへ連れてきた責任感からか、身を粉にして家族に尽くす。どんな困難にも前向きに立ち向かい、ありとあらゆる知恵を駆使して解決してきた。日本にいたら開発できなかった隠れた自分の才能を、困難に直面することによって発揮し、ブラジルでの人生を切り開いてきた。

終戦から76年が経ったが、沖縄県には今も日本全国の米軍基地の7割が集中している。この事実からは「緊張感のある状況」は変わっていないことが分かる。もしも北朝鮮が核ミサイルを発射したら、中国の人民解放軍が攻めてきたら、真っ先に狙われるのは沖縄であり、いつの日か、再び戦場になる可能性は否定できない。

だから、彼等にとって戦争のないブラジルで末裔を増やすことは重要なのだ。沖縄県人は、いざという時の布石をすでに打っている。

父が亡くなった時、連絡が取れなかった弟が出棺直前に突然帰宅したなど、家族が見えない糸でつながれている実話が自分史には描かれる。「土地を移ることで言葉や文化が変わっても、たいした問題ではない。家族の絆さえ変わらなければ」。そんな確信が行間からにじみでている。とにかく子孫を残す。それがご先祖様から命を受け継いだウチナーンチュの宿願だ。

* * * * *

沖縄であれ、日本本土であれ、個人の力ではどうしようもない故郷が持つ属性を、国民の方が「国境を超える」というプロセスを踏むことによって、自分の人生においてプラスに作用するように向けることが「移住」の本質なのだと、ブラジルの戦後移民を見ていてしみじみ痛感する。

 

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16世紀に南米へ来た日本人奴隷とユダヤ教徒 - その2

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亜国日本人青年の所有者も新キリスト教徒

振り返って、コラム子の連載《日本人奴隷の謎を追って》で主題にした、1596年にアルゼンチンで奴隷売買された日本人青年の所有者も「新キリスト教徒」だった可能性が高い。

この件を最初に詳しく書いたアルゼンチン移民の大城徹三氏は著書『コルドバ』で、「さてフランシスコ・ハポンという日本青年は、当時日本との貿易が頻繁に行われていた南蛮人(ポルトガル人)によって連れられてきたことが濃厚に示されている。また正式なスペインの航路を通らず、ブエノス・アイレス港に入ってきたと推測できる。ということはスペイン国法に照らし、奴隷に処せられる条件になかった」(15頁)と書いている。

大城氏が〝奴隷商人〟と表現するポルトガル人商人の名は「ディエゴ・ロッペス・デ・リスボア」(Diego Lópes de Lisboa)。調べてみると、ディエゴはかなりの有名人だった。

スペインでは1478年に異端審問が開始され、1492年にはユダヤ教徒が追放されるにいたった。それに続いてポルトガルでも1497年に強制改宗令、1536年に異端審問が始まり、新キリスト教徒が急増することになる。

『ポルトガル史』(アルベール―アラン・ブールドン、白水社、1979年、59~60頁)には《教皇庁の黙認の意図にもかかわらず、国家の宗教裁判所が一五三六年につくられ、密告制度や秘密裁判や焚刑の恐怖によって絶対的な力をふるうに至った。(中略)宗教裁判所の所業はひとが想像するほど血なまぐさいものではなかったが、それでも一四五四人の犠牲者(二世紀間に記録された二万四五二二件の裁判について)の数は秘密、密告、暴力などのように、個人の自由を犯し、文芸や科学を沈滞させた当時の世情を考えると少なすぎる感じがする》とある。

つまり、イベリア半島でユダヤ迫害が強まる時期に大航海時代が始まっていた。ヨーロッパで宗教的な圧迫が強まる中、新キリスト教徒の一定部分は率先して、監視の少ない新大陸へ移って行った。そんなポルトガル移民商人の一人が、ディエゴ・ロッペス・デ・リスボアだった。


異端審問で焼き殺されたディエゴの父親

ディエゴの息子ファン・ロドリゲス・デ・レオン・ピネロ(1590―1644)はリマのサンマルコス大学で神学を勉強し、ユダヤ系出自で司祭になった人物として有名だ。彼の経歴を見ると、父方の祖父(つまりディエゴの父)ファン・ロペス・デ・モレイラは1604年に異端審問でその出自を問題にされ、リスボンにおいて公衆の面前で焼き殺された。

つまり、アルゼンチンで日本人フランシスコ・ハポンを所有していたディエゴ。その父親は、異端審問で焼き殺された隠れユダヤ教徒だった。

さらにチリ大学ユダヤ研究センターの研究冊子『La Palabra Israelita VIERNES 7 DE ENERO DE 2005』(訳=イスラエルの言葉、2005年1月7日号)12頁には、ディエゴ自身もユダヤ教的なふるまいをしているとの疑いが常々持たれていたと書かれている。そのため、ディエゴは自ら神学を勉強し、1628年には神父の資格をとり、新キリスト教徒との疑惑を晴らすことに務めていたとある。

チリ大学の『Los «Portugueses» en el Nuevo Mundo(新世界の〝ポルトガル人〟たち)』(Cuaderno Judaico nO 23) にも、このような家族の記述がある。

《ポルトガル人〝新キリスト教徒〟のディエコ・ロペスは、ユダヤ教徒として焼き殺された父の二の舞を避けるために、家族でスペインに逃げたが、ちょうどイベリア半島の二王国統一のタイミングだった。異端審問から逃げるための様にみえるが、ディエゴ・ロペスはインドに向けて出発し、初めはブラジルを通り、後にその先のラ・プラタまで行き、そのブエノス・アイレスで1594年に居を定めた。翌年コルドバに転居し、そこで数年を過ごした。1604年に家族をブエノス・アイレスに呼び寄せ、マドリッドの王家からの信用状を手にした「血の純化」信者証明書により、1603年にブエノス・アイレスでの異端審問も無事に通過することができた》

ユダヤ教徒だと疑われるだけで身の危険を感じる時代だった。フランシスコ・ハポンが神父に売られた年は、ディエゴがコルドバにきた翌年だ。


それならブラジルにも?

フランシスコ・ハポンは新キリスト教徒のポルトガル人商人の手により、アルゼンチンまで連れてこられた。この商人は、アルゼンチンの前にブラジルにも住んでいた。アルゼンチンに他にも同じような日本人がいた可能性が高いし、同じような動機やルートで、ブラジルにきていた日本人青年もいても不思議はない。むしろ「いた」と考える方が合理的ではないか。 

16世紀後半、ブラジルのバイーアやペルナンブッコでは、サトウキビ栽培と砂糖工場が大規模に経営されるようになり、大資本をもった貴族や金持ちがやってきていた。その中には、ポルトガルやスペインから迫害を免れた「新キリスト教徒」が大勢混じっていたことはよく知られている。彼らの使用人の中に、もしかしたら日本人奴隷がいたかもしれない。

あるブラジル人歴史家に相談したら『Serafim Leite -Historia de Companhia de Jesuita no Brasil』を紹介された。ポルトガル人イエズス会士の歴史家セラフィン・レイチ神父(1890―1969)の著作で、1538年から1563年の間に、ブラジルのイエズス会神父と本国のイエズス会の間でやり取りされた書簡集および、そこからひもといたブラジルにおけるイエズス会の歴史を書いた大作だ。

一部しかのぞいていないが、興味深い内容があった。イエズス会士が1549年に来る以前から、ブラジルには植民者が持ち込んだ黒人奴隷が働いており、「一人の黒人奴隷は、インディオ4人分の働きをすると住民は考えている」「1528年以前だけで4500人の黒人奴隷が運び込まれていた」「アフリカ人奴隷が不足したとき東洋系人種、インド人、モロッコ人をリスボンに送った」(第1巻333ページ)などとも書かれている。東洋系の奴隷がブラジルにもいた可能性は捨てきれない。

更に、初期のブラジル植民地には布教師と少数の植民者しかいなかったことから「女性がたりない。孤児をもっと送ってほしい」などの要請が書かれていた部分もあり、リスボンから日本人奴隷の孤児が送られた可能性もないとはいえない。

「1600年前後にブラジルにも、日本人奴隷が連れてこられていた可能性」を調べる研究者に出てきてほしい。

 

* 本稿は、『ニッケイ新聞』(2020年10月20日)からの転載です。

 

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16世紀に南米へ来た日本人奴隷とユダヤ教徒 - その1

BBCブラジルにセンセーショナルな記事が踊った。

いわく《400年前にポルトガル人によって世界に売られた日本人奴隷の歴史》(9月12日付、アナ・パウラ・ラモス記者)というポルトガル語の記事だ。東京外国語大学のルシオ・デ・ソウザ特任准教授と東京大学史料編纂所の岡美穂子准教授に取材したもの。

冒頭には《1585年、誘拐された8歳の日本人少年は、ポルトガル人商人ルイ・ペレスに奴隷として売られた。豊後国(現在の大分県大分市周辺)で生まれたこの少年は、ペレスが最初に手に入れた5人のアジア系奴隷の一人で、「ガスパル・フェルナンデス」として知られた》とある。

さらに《研究者らによれば、この少年は日本人によって誘拐された。当時、日本人が誘拐してポルトガル人に売る行為は一般的だった。ガルパルは、ペレス家と共に過ごして家事奉公した。彼はポルトガル語とスペイン語を覚え、家族と共にフィリピンのマニラへ連れて行かれ、ペレスはそこで、禁止されていたユダヤ教を密かに信仰していた罪で罰せられた。この商人はメキシコまで連れて行かれ異端審問にかけられ、アカプルコに到着する二日前に亡くなった》と書かれている。

ソウザ准教授はBBC記者に対し「メキシコで1カ月調査し、奴隷たちの史料と毎日数時間向き合い、ようやくその記録が手に入った。これはただ単なる史料ではなく、搾取され、忘れ去られた一人の本物の人生と向き合っているのだと、私には分かっていた」と見つけたときの気持ちを語っている。

16世紀に伯国へ日本人奴隷が来た可能性は?

読者の中には2009年4月の本紙連載《日本人奴隷の謎を追って=400年前に南米上陸か?!》を覚えている人も多いだろう。コラム子が昨年、日本で出版した『移民と日本人』(無明舎出版)にも大幅に加筆訂正したものを再掲載した。

1596年、アルゼンチンのコルドバで、日本人青年フランシスコ・ハポンが奴隷としてディエゴ・ロペスからミゲル・ヘローニモ・デ・ポーラス神父に800ペソで売られたことに関し、日本人青年が「自分は奴隷ではない」との裁判を起こした書類が見つかったとの件だ。

コラム子は同連載を書いた時から「ポルトガル本国に連れてこられた日本人奴隷の一部が、その後にブラジルまで来ていたのでは」「アルゼンチンのフランシスコ・ハポンのような日本人が、ポルトガル商人によってブラジルまで運ばれていたのでは」という可能性を提起している。

でも、BBC記事の本文には《肉体労働者を必要としていたブラジルで、ポルトガル人による植民が同じ世紀の初めから行われていたが、アジア系奴隷は主に家庭内労働に従事させられていた。リスボンにおいて、たくさんの家族は、所有する日本人奴隷を「舶来品」として見せびらかしていた》とある。

つまり、ルシオ准教授が「ブラジルは農場労働者として黒人奴隷を入れ、ポルトガルには家庭内労働の奴隷として日本人を入れた」から、ブラジルに日本人奴隷が来た可能性はないと考えているのかもしれない。

BBC記事で紹介されている「リスボン在住日本人として最古の記録」は、1573年に日本人女性奴隷ジャシンタ・デ・サー・ブランダオが、日本人男性奴隷ギリェルメ・ブランダオとコンセイソン教会で結婚したという書類だそう。

ソウザ准教授らは2017年に『大航海時代の日本人奴隷』(中公叢書)を出版しており、そこに詳しく研究成果が記されている。とても珍しく貴重な本だ。

日本人奴隷に関することは、噂話や断片的なエピソードばかりが先行し、なかなか本格的な研究が見られなかった。〝日本史のダークサイド〟的な印象が強いテーマなので、なかなか正統派の研究者が取っつきにくい部分があったのかもしれない。でも、日本在住のポルトガル人研究者がその難しいテーマに真っ正面から取り組んでくれたのは、本当に有り難いことだ。この研究は実に貴重だ。


新キリスト教徒と大航海時代

『大航海時代の日本人奴隷』では、ソウザ准教授の緻密な調査により、3人の日本人奴隷がメキシコに渡っていた史料が、ポルトガル人に対する異端審問の記録の中に見つかったことが書かれている。日本人奴隷の所有者たるポルトガル人商人には、このような隠れユダヤ教徒がかなり含まれていたようだ。

ユダヤ教徒は、一般的に「新キリスト教徒」(cristãos novos)と呼ばれている。スペインやポルトガルのあるイベリア半島は、8世紀にアフリカから襲来したイスラム勢力に征服され、キリスト教国家が再征服する運動「レコンキスタ」を続け、15世紀にようやく取り戻した経緯がある。

だから「古くからのキリスト教徒」(ポ語cristãos velhos)と区別するために、レコンキスタの後にカトリックに改宗したユダヤ人やムーア人(アフリカ北西部のイスラム教徒)のことを「新キリスト教徒」と呼ぶようになった。単に「コンベルソ(改宗者)」と呼ばれることもある。

このユダヤ人の中には改宗したふりをした「隠れユダヤ教徒」が多くおり、その疑いがかけられた者が「異端審問」にかけられた。

ウィキペディア「新キリスト教徒」項(10月17日参照)には《新キリスト教徒は、改宗後に洗礼名を名乗り、ヘブライ語やアラビア語の氏名を捨てた。ポルトガル王国やスペイン王国の庇護を受けた交易商人や宣教師には、少なからぬ新キリスト教徒(ないしは新キリスト教徒と目されている人々)が含まれている。彼らは大航海時代に活躍しており、スペインとポルトガルによる海外植民の尖兵だった者もいれば、先住民に対する植民者や侵略軍の非人道的な扱いを告発したラス・カサスのような者もいた。日本に南蛮文化をもたらした人たちもそこに含まれている》と書かれている。

つまり、ポルトガルやスペイン本国で暮らしづらくなった「隠れユダヤ教徒」らが大航海時代に船に乗って商人となって活躍していた。

続く >> 

 

* 本稿は、『ニッケイ新聞』(2020年10月20日)からの転載です。

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ブラジル水泳界の英雄・岡本哲夫:日伯交流から生まれた奇跡

第6回 移民の子が国家的な貢献

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岡本の快挙を祝って地元マリリアでは1952年9月28日に「河童祭り」と称する祝勝会が開かれ、牛3頭を焼いて1千人を招く盛大なシュラスコ会が開催された。それを報じた『パウリスタ新聞』1952年10月2日付によれば、父専太郎が「泳ぎ始めはわしの観海流(日本古来の遠泳法の一つ)を仕込んだもので…」などと始終、上機嫌だったという。

映画『競泳選手』には、1960年のローマ五輪の100メートル自由形で銅を取ったマヌエル・ドス・サントスの貴重な証言もある。

《とにかく哲夫は我々のアイドルだった。彼の真似をすることこそ、僕らが必死にしたこと。日本人らしい勤勉さなど、彼は全てにおいて僕らの模範だった。普通のブラジル人選手の2倍以上泳いでいた。だから、僕は子供にも「テツオの様になれ!」と教え込んだ》と語っている。

哲夫の真似をしたおかげで、ブラジル水泳界には二つ目のメダルがもたらされた訳だ。

岡本はその後、米国テキサスA&M大学(Texas Agricultural Mechanical College)に留学して地質学を修めたが、競泳からは遠ざかって行った。帰伯後はサンパウロ市で就職し、「味の素や米国企業などの会社勤めなどもしたが、76年に同じくサンパウロ市で、地下水開発・ボーリング会社を設立し、今も大サンパウロ圏を中心に活動している」(同『ニッケイ新聞』)とある。

岡本は生涯独身を貫いた。「当時はメダルを獲得しても、コマーシャルに出ることもなく、今と違ってお金にならなかった。逆にスポーツマンは仕事もしないバガブンド(放蕩者)と思われていた。しかし水泳のおかげでいろいろな国にもいけたし、一時は英雄にもなったし、いい夢を見させてもらいました。今でも水に関連した仕事をしており、まあ結婚しなかった私には、水が女房みたいなものですね」(同『ニッケイ新聞』)と屈託なく笑った。

「岡本以前」、五輪メダルはたった4つしかなかった。ブラジル五輪初参加の1920年アントワープ(ベルギー)でブラジルは金1、銀1、銅1の計三つが最初。24年パリはゼロ、32年ロスもゼロ、36年ベルリンもゼロ、戦後初の48年ロンドンでようやく銅1。その後がヘルシンキの金1、銅2だった。

つまり岡本のは、ブラジルとしては通算五つ目といっていい貴重なメダルだ。しかも競泳で初、移民の子が達成した国家的な貢献だった。

「岡本以後」を見てみても、彼の業績は突出している。水泳界で二つ目のメダルは1960年ローマのマヌエル・ドス・サントスの100メートル自由形の銅、三つ目は1980年モスクワでの銅だ。これ以降、90年代に4つ、2000年以降に5つという時代に入る。今回のリオ五輪では、やはり日系の沖本ポリアナが遠泳で銅をとったが、水泳関連ではそれだけ。岡本のメダルが、いかに時代に先駆けていたかが分かる。

リオ五輪を含めて、ブラジルは五輪競泳で14のメダル(金1、銀4、銅9)を獲得したが、1500メートル自由形では岡本のみ。国内では柔道、ヨット、陸上に次ぐ4番目にメダルを獲得する種目に育っているが、その一番最初が岡本だった。

だからこそ、2007年10月2日に亡くなった時、ブラジルの大手メディアはこぞって訃報を出し、競泳スポーツブラジル連合(CBDA)は死を惜しみ、「3日間の服喪」を宣言した。

競うように追悼する様は、まるで《二百米決勝のゴール迫るときオカモトを呼ぶ声湧き高まれり》(武本由夫)の歌そのもの。人生のゴールにタッチした英雄に、ブラジル国民が歓声を送ったかのようだ。

 

* 本稿は、『ニッケイ新聞』(2016年8月26日)からの転載です。

 

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ブラジル水泳界の英雄・岡本哲夫:日伯交流から生まれた奇跡

第5回 トビウオが変えた岡本の運命

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岡本の業績と人柄をまとめたドキュメンタリー映画『O nadador – A história de Tetsuo Okamoto』(以下『競泳選手』と略、2014年、26分、ポ語、ロドリゴ・グロッタ監督)で、姉の鈴枝さんは弟の性格を《とにかく控えめで、あまり社交的ではなかった。勉強よりも、ひたすらスポーツに打ち込んでいた》という。コロニアであまり知られていなかったのは、そんな性格も影響したのかも。

マリリアでの幼友達トニーニョ・ネットさんも《哲夫は頭がデカくて、身体が細かったから、タッシーニャ(小さなトロフィー(優勝杯)と綽名されていた》(同映画)という。

1950年当時、コロニアでは注目されなかった岡本。その時、日本の水泳使節団一行から、「いい成績を出したかったら、もっと練習量を増やさないとダメだ」とのアドバイスを受けた。それまでは1日に1千メートルしか練習していなかったが、毎日1万泳ぐようアドバイスされ、その言葉を忠実に守った(前出の『ニッケイ新聞』)。

『フォーリャ・デ・サンパウロ』紙2007年10月3日付の岡本の訃報記事には「当時は温水プールがないので寒さと闘い、塩素で目を真っ赤にしながら、毎日1万メートルのノルマをこなした。狂信的といえるほどだった」と書かれている。でもそれが彼の人生を変えた。

日本オリンピック委員会サイトにある「Japanese Oliympian Spirits」連載の古橋編を見ると、現役時代には「練習量も1日2万メートルは珍しくありませんでした」とあるので、岡本の2倍は泳いでいた。凄まじい特訓の成果が、世界新記録を生んでいた訳だ。

岡本の特訓の成果はすぐに表れ、翌年からぐんぐんと頭角を現していった。1951年2月末から3月初旬にアルゼンチンのブエノスアイレスで開かれた汎アメリカン大会(Jogos Pan-Americanos)の400メートルと1500メートル自由形で優勝したのだ。

岡本は汎アメリカン大会で初めて優勝したブラジル人となった。おりしもブラジルは初の自国開催サッカーW杯(1950年6~7月)の決勝戦でウルグアイに惜敗した。そのショックから半年、まだ立ち直っていなかった。そんな時、南北アメリカ大陸で1位となった岡本は、そのトラウマを癒す役割を担った。

マリリア市は祝日を宣言して、岡本をオープンカーに乗せて町を凱旋パレードさせると、市民は熱狂した。ところが、そのパレードの最中、岡本の自宅には泥棒が入り、金品を盗まれるという当地らしいオマケのエピソードまで。

喜んだマリリアの日系社会では、自動車を1台、岡本にお祝いで上げようとしたが、彼は断った。「五輪選手はアマチュアでなければならない。賞品と間違われる可能性のあるものを貰うと、アマチュアの資格を失う」と考えたからだ。

現在のようにプロ選手が参加する時代とは大きく違っていた。

南半球のハンデ乗り越え

1952年6~7月は寒い冬だった。練習していたマリリアのプールがあまりに冷たく、練習を諦めることもあったほど。理想的な五輪準備にはならず、一時は「ただ参加できればいい」と諦めようかと迷うほどだったようだ。

ちなみに、2016年のリオ五輪は、近代オリンピックとしては第31回目で南米初。それ以前に南半球で開催したのは、2000年のシドニー大会のみ。このように五輪はほぼ北半球の大会なので7~8月に開催される。「夏の五輪」であっても南半球では真冬であり、現在のように温水プールが普及していなかった当時、このハンデは大きかった。

でも岡本はあきらめなかった。映画『競泳選手』には、興味深い証言がたくさん出てくる。たとえば、同じヘルシンキ五輪の競泳選手団の一人、イロ・ダ・フォンセッカさんは、こんな証言をする。

直前の合宿はリオのグアナバラのプールだった。《そこで一緒に練習した。〃一緒に〃といっても、実はちょっと違うんだ。我々は毎800~1千メートル泳いだ。彼はそれが終わるの待って、一人で黙々と泳ぎ始めるんだ。何をやっているんだろうとコッソリのぞいてみたら、なんと休みなしに4千~5千メートルも一気に泳いでいたので、奴はキチガイだと思った。しかも1日2回だ。なんでも日本の水泳団直伝の練習法だとか》と呆れたような表情で思い出す。

サンパウロ州と違い、リオは冬でも暖かい。それまでの遅れを取り戻すかのように懸命に泳いだ。

ヘルシンキでは、生まれて初めて温水プール(約27度)を体験し、「こりゃ素晴らしい」と感激した。『パウリスタ新聞』1952年8月13日付には、母ツヨカは現地の息子から「毎日練習に励んでおり、千五百では最後まで頑張るから」との手紙をもらったと書かれている。その言葉のとおり、最後まで踏ん張った成果が夢の銅メダルだった。

同紙には姉のコメントも掲載されている。「哲夫の三位入賞はちょっと意外だったの。せいぜい五位か六位に入れば良い方と思っていたのが三位でしょう。それが水上で初めてのブラジル国旗なのでヤーラ倶楽部の皆さんを始め、哲夫の友達や知人、とくにブラジル人の方々から心よりの喜びの言葉を戴いたので、私までボーッとしちゃったの」とあり、家族も驚くような大健闘であったことが分かる。

興味深いことに、3位を報じた『パウリスタ新聞』1952年8月3日付は、多くの伯字紙がしたような大きな扱いではなく、控えめな3段記事だった。

ちなみにパ紙のその日のトップは「マカコ事件」。まさに勝ち負け問題の余韻がまた色濃く残っていた時代だったことが伺われる。カタは移民史映画製作の裏話。こちらもやはり勝ち負け絡みだ。

1位の紺野フォードは1933年にハワイ州で生まれ、ホノルルのマッキンリーハイスクール、オハイオ州立大学でも競泳選手として活躍した。1952年のヘルシンキでは金メダル二つと銀一つの計三つ、次のメルボルン五輪(56年)でも銀一つを獲得した米国競泳界のヒーローだ。

つい2年前の1950年にブラジル中を沸かせた来伯団の一人、橋爪と争って表彰台に立った岡本の胸中には、さぞや感慨深いものがあったに違いない。

ところが、肝心の「フジヤマの飛魚」本人、古橋廣之進は南米遠征中にアメーバ赤痢に罹患し発症していたことが響き、ヘルシンキ本番では400メートル自由形8位に終わった。

2011年6月7日付『日刊スポーツ』電子版にはそんな古橋に関し、《世界記録を33回更新し、戦後復興のシンボルとなった国民的ヒーローは、結局五輪のメダルを1つも手にすることなく現役を退いた。50年の南米遠征でかかったアメーバ赤痢の影響もあった。45日間で20試合、サーカスのような転戦。各国の日系人から歓迎され、水泳ニッポンの「顔」は休むことも許されなかった》とある。当地からすると、少々あてこすりのニュアンスに読めなくもない。

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* 本稿は、『ニッケイ新聞』(2016年8月20日25日)からの転載です。

 

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