深沢 正雪

(ふかさわ・まさゆき)

1965年11月22日、静岡県沼津市生まれ。92年にブラジル初渡航し、邦字紙パウリスタ新聞で研修記者。95年にいったん帰国し、群馬県大泉町でブラジル人と共に工場労働を体験、その知見をまとめたものが99年の潮ノンフィクション賞を受賞、『パラレル・ワールド』(潮出版)として出版。99年から再渡伯。01年からニッケイ新聞に勤務、04年から編集長。

(2009年1月 更新)

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ブラジル水泳界の英雄・岡本哲夫:日伯交流から生まれた奇跡

第6回 移民の子が国家的な貢献

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岡本の快挙を祝って地元マリリアでは1952年9月28日に「河童祭り」と称する祝勝会が開かれ、牛3頭を焼いて1千人を招く盛大なシュラスコ会が開催された。それを報じた『パウリスタ新聞』1952年10月2日付によれば、父専太郎が「泳ぎ始めはわしの観海流(日本古来の遠泳法の一つ)を仕込んだもので…」などと始終、上機嫌だったという。

映画『競泳選手』には、1960年のローマ五輪の100メートル自由形で銅を取ったマヌエル・ドス・サントスの貴重な証言もある。

《とにかく哲夫は我々のアイドルだった。彼の真似をすることこそ、僕らが必死にしたこと。日本人らしい勤勉さなど、彼は全てにおいて僕らの模範だった。普通のブラジル人選手の2倍以上泳いでいた。だから、僕は子供にも「テツオの様になれ!」と教え込んだ》と語っている。

哲夫の真似をしたおかげで、ブラジル水泳界には二つ目のメダルがもたらされた訳だ。

岡本はその後、米国テキサスA&M大学(Texas Agricultural Mechanical College)に留学して地質学を修めたが、競泳からは遠ざかって行った。帰伯後はサンパウロ市で就職し、「味の素や米国企業などの会社勤めなどもしたが、76年に同じくサンパウロ市で、地下水開発・ボーリング会社を設立し、今も大サンパウロ圏を中心に活動している」(同『ニッケイ新聞』)とある。

岡本は生涯独身を貫いた。「当時はメダルを獲得しても、コマーシャルに出ることもなく、今と違ってお金にならなかった。逆にスポーツマンは仕事もしないバガブンド(放蕩者)と思われていた。しかし水泳のおかげでいろいろな国にもいけたし、一時は英雄にもなったし、いい夢を見させてもらいました。今でも水に関連した仕事をしており、まあ結婚しなかった私には、水が女房みたいなものですね」(同『ニッケイ新聞』)と屈託なく笑った。

「岡本以前」、五輪メダルはたった4つしかなかった。ブラジル五輪初参加の1920年アントワープ(ベルギー)でブラジルは金1、銀1、銅1の計三つが最初。24年パリはゼロ、32年ロスもゼロ、36年ベルリンもゼロ、戦後初の48年ロンドンでようやく銅1。その後がヘルシンキの金1、銅2だった。

つまり岡本のは、ブラジルとしては通算五つ目といっていい貴重なメダルだ。しかも競泳で初、移民の子が達成した国家的な貢献だった。

「岡本以後」を見てみても、彼の業績は突出している。水泳界で二つ目のメダルは1960年ローマのマヌエル・ドス・サントスの100メートル自由形の銅、三つ目は1980年モスクワでの銅だ。これ以降、90年代に4つ、2000年以降に5つという時代に入る。今回のリオ五輪では、やはり日系の沖本ポリアナが遠泳で銅をとったが、水泳関連ではそれだけ。岡本のメダルが、いかに時代に先駆けていたかが分かる。

リオ五輪を含めて、ブラジルは五輪競泳で14のメダル(金1、銀4、銅9)を獲得したが、1500メートル自由形では岡本のみ。国内では柔道、ヨット、陸上に次ぐ4番目にメダルを獲得する種目に育っているが、その一番最初が岡本だった。

だからこそ、2007年10月2日に亡くなった時、ブラジルの大手メディアはこぞって訃報を出し、競泳スポーツブラジル連合(CBDA)は死を惜しみ、「3日間の服喪」を宣言した。

競うように追悼する様は、まるで《二百米決勝のゴール迫るときオカモトを呼ぶ声湧き高まれり》(武本由夫)の歌そのもの。人生のゴールにタッチした英雄に、ブラジル国民が歓声を送ったかのようだ。

 

* 本稿は、『ニッケイ新聞』(2016年8月26日)からの転載です。

 

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ブラジル水泳界の英雄・岡本哲夫:日伯交流から生まれた奇跡

第5回 トビウオが変えた岡本の運命

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岡本の業績と人柄をまとめたドキュメンタリー映画『O nadador – A história de Tetsuo Okamoto』(以下『競泳選手』と略、2014年、26分、ポ語、ロドリゴ・グロッタ監督)で、姉の鈴枝さんは弟の性格を《とにかく控えめで、あまり社交的ではなかった。勉強よりも、ひたすらスポーツに打ち込んでいた》という。コロニアであまり知られていなかったのは、そんな性格も影響したのかも。

マリリアでの幼友達トニーニョ・ネットさんも《哲夫は頭がデカくて、身体が細かったから、タッシーニャ(小さなトロフィー(優勝杯)と綽名されていた》(同映画)という。

1950年当時、コロニアでは注目されなかった岡本。その時、日本の水泳使節団一行から、「いい成績を出したかったら、もっと練習量を増やさないとダメだ」とのアドバイスを受けた。それまでは1日に1千メートルしか練習していなかったが、毎日1万泳ぐようアドバイスされ、その言葉を忠実に守った(前出の『ニッケイ新聞』)。

『フォーリャ・デ・サンパウロ』紙2007年10月3日付の岡本の訃報記事には「当時は温水プールがないので寒さと闘い、塩素で目を真っ赤にしながら、毎日1万メートルのノルマをこなした。狂信的といえるほどだった」と書かれている。でもそれが彼の人生を変えた。

日本オリンピック委員会サイトにある「Japanese Oliympian Spirits」連載の古橋編を見ると、現役時代には「練習量も1日2万メートルは珍しくありませんでした」とあるので、岡本の2倍は泳いでいた。凄まじい特訓の成果が、世界新記録を生んでいた訳だ。

岡本の特訓の成果はすぐに表れ、翌年からぐんぐんと頭角を現していった。1951年2月末から3月初旬にアルゼンチンのブエノスアイレスで開かれた汎アメリカン大会(Jogos Pan-Americanos)の400メートルと1500メートル自由形で優勝したのだ。

岡本は汎アメリカン大会で初めて優勝したブラジル人となった。おりしもブラジルは初の自国開催サッカーW杯(1950年6~7月)の決勝戦でウルグアイに惜敗した。そのショックから半年、まだ立ち直っていなかった。そんな時、南北アメリカ大陸で1位となった岡本は、そのトラウマを癒す役割を担った。

マリリア市は祝日を宣言して、岡本をオープンカーに乗せて町を凱旋パレードさせると、市民は熱狂した。ところが、そのパレードの最中、岡本の自宅には泥棒が入り、金品を盗まれるという当地らしいオマケのエピソードまで。

喜んだマリリアの日系社会では、自動車を1台、岡本にお祝いで上げようとしたが、彼は断った。「五輪選手はアマチュアでなければならない。賞品と間違われる可能性のあるものを貰うと、アマチュアの資格を失う」と考えたからだ。

現在のようにプロ選手が参加する時代とは大きく違っていた。

南半球のハンデ乗り越え

1952年6~7月は寒い冬だった。練習していたマリリアのプールがあまりに冷たく、練習を諦めることもあったほど。理想的な五輪準備にはならず、一時は「ただ参加できればいい」と諦めようかと迷うほどだったようだ。

ちなみに、2016年のリオ五輪は、近代オリンピックとしては第31回目で南米初。それ以前に南半球で開催したのは、2000年のシドニー大会のみ。このように五輪はほぼ北半球の大会なので7~8月に開催される。「夏の五輪」であっても南半球では真冬であり、現在のように温水プールが普及していなかった当時、このハンデは大きかった。

でも岡本はあきらめなかった。映画『競泳選手』には、興味深い証言がたくさん出てくる。たとえば、同じヘルシンキ五輪の競泳選手団の一人、イロ・ダ・フォンセッカさんは、こんな証言をする。

直前の合宿はリオのグアナバラのプールだった。《そこで一緒に練習した。〃一緒に〃といっても、実はちょっと違うんだ。我々は毎800~1千メートル泳いだ。彼はそれが終わるの待って、一人で黙々と泳ぎ始めるんだ。何をやっているんだろうとコッソリのぞいてみたら、なんと休みなしに4千~5千メートルも一気に泳いでいたので、奴はキチガイだと思った。しかも1日2回だ。なんでも日本の水泳団直伝の練習法だとか》と呆れたような表情で思い出す。

サンパウロ州と違い、リオは冬でも暖かい。それまでの遅れを取り戻すかのように懸命に泳いだ。

ヘルシンキでは、生まれて初めて温水プール(約27度)を体験し、「こりゃ素晴らしい」と感激した。『パウリスタ新聞』1952年8月13日付には、母ツヨカは現地の息子から「毎日練習に励んでおり、千五百では最後まで頑張るから」との手紙をもらったと書かれている。その言葉のとおり、最後まで踏ん張った成果が夢の銅メダルだった。

同紙には姉のコメントも掲載されている。「哲夫の三位入賞はちょっと意外だったの。せいぜい五位か六位に入れば良い方と思っていたのが三位でしょう。それが水上で初めてのブラジル国旗なのでヤーラ倶楽部の皆さんを始め、哲夫の友達や知人、とくにブラジル人の方々から心よりの喜びの言葉を戴いたので、私までボーッとしちゃったの」とあり、家族も驚くような大健闘であったことが分かる。

興味深いことに、3位を報じた『パウリスタ新聞』1952年8月3日付は、多くの伯字紙がしたような大きな扱いではなく、控えめな3段記事だった。

ちなみにパ紙のその日のトップは「マカコ事件」。まさに勝ち負け問題の余韻がまた色濃く残っていた時代だったことが伺われる。カタは移民史映画製作の裏話。こちらもやはり勝ち負け絡みだ。

1位の紺野フォードは1933年にハワイ州で生まれ、ホノルルのマッキンリーハイスクール、オハイオ州立大学でも競泳選手として活躍した。1952年のヘルシンキでは金メダル二つと銀一つの計三つ、次のメルボルン五輪(56年)でも銀一つを獲得した米国競泳界のヒーローだ。

つい2年前の1950年にブラジル中を沸かせた来伯団の一人、橋爪と争って表彰台に立った岡本の胸中には、さぞや感慨深いものがあったに違いない。

ところが、肝心の「フジヤマの飛魚」本人、古橋廣之進は南米遠征中にアメーバ赤痢に罹患し発症していたことが響き、ヘルシンキ本番では400メートル自由形8位に終わった。

2011年6月7日付『日刊スポーツ』電子版にはそんな古橋に関し、《世界記録を33回更新し、戦後復興のシンボルとなった国民的ヒーローは、結局五輪のメダルを1つも手にすることなく現役を退いた。50年の南米遠征でかかったアメーバ赤痢の影響もあった。45日間で20試合、サーカスのような転戦。各国の日系人から歓迎され、水泳ニッポンの「顔」は休むことも許されなかった》とある。当地からすると、少々あてこすりのニュアンスに読めなくもない。

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* 本稿は、『ニッケイ新聞』(2016年8月20日25日)からの転載です。

 

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第4回 反ヴァルガス主義的なスポーツ振興策

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戦前からの意外な繋がり

調べてみると、確かにパジーリャは戦前からスポーツ局の仕事をしていた。ヴァルガス独裁政権からサンパウロ州執政官(1938~41年)に任命されたアデマール・バーロスからの信任が厚く、パジーリャはサンパウロ市アグア・ブランカ区のベイビ・バリオニ体育複合施設、イビラプエラ体育複合施設コンスタンチノ・ヴァス・ギマランエスなどの建設を開始していた。

前者は今も全伯相撲大会の会場として使われ、後者には「南米の講道館」と言われる大柔道場がある。日系スポーツとも縁の深い施設を作っていた。

ESPNサイトの「五輪のB面」特集2015年3月24日電子版によれば、体育教師などスポーツを職業とする専門家の待遇を保証する州条例を、パジーリャは作った。その仕事ぶりに注目したヴァルガスは、その法律を国全体に適用させる手筈をパジーリャに命令するが、なんと拒否した。独裁政権時代のヴァルガスに反抗する人物など、当時ほぼ居なかったはずだ。

激怒したヴァルガスは、軍人パジーリャをリオの奥地パッソ・フンドに左遷した。当時、電気も通っていない場所だった。パジーリャは知り合いだったドゥットラ軍事大臣に相談し、「大統領の命令に従えないから、不服従の罪で自分を逮捕してくれ」と申し出た。ドゥットラは1年間の無給勤務の特別処置で穏便に済ませようとしたが、パジーリャはその後、自分から陸軍を辞めた。

選手として、最後のメダルの希望は1940年に予定されていた東京五輪だった。もちろん、それは第2次大戦勃発で中止。これは皇紀2600年祭の一環として誘致され、1936年に決定していた。しかし日中戦争の勃発により、日本政府が返上した〃幻の五輪〃だった。

Padilha, quase uma lenda』(『パジーリャ、ほぼ伝説』カエターノ・カルロス・パイオリ著、1987年)の35~36頁には意外な逸話が書かれていた。パジーリャが《生涯に受けた顕彰の中でも最も刺激的なものが、日系コロニアから1941年3月20日にもらった「サムライの刀」だった》というのだ。

しかも、渡したのはコロニア陸上クラブ(Clube Stletico Colonial)名誉会長だった山本喜誉司からだという。すでにサンパウロ州スポーツ局長だったパジーリャは、山本の自宅に招待され、赴くと、コロニアの主要人物やブラジル人運動選手らがズラリと勢ぞろい。

前年の皇紀2600年(1940年)に日本で開催された体育行事に渡航するコロニア選手への助力を惜しまなかったとの理由で顕彰された。自分が行けなかった「東京」への願いを託したのかもしれない。それにしても戦後、サンパウロ市文協を創立し、初代会長になる山本貴誉司の人脈の広さには驚かされる。

このような流れの中で、岡本が泳ぎ始めたマリリアの「日本人プール」は戦時中に書類が不備で一時使用禁止にされたにも関わらず、結局は異例の許可が出されたようだ。


反ヴァルガス的な飛魚招へい

戦争中にパジーリャの選手生命はピークを越え、1947年に現役引退。同時に、ブラジル五輪委員会にスポーツ振興の手腕をかわれて委員に就任した。48年ロンドン五輪ではブラジル代表の旗手として参加。ある意味、そこからが彼の本領発揮だった。

戦後もヴァルガスとの確執は続いた。ヴァルガスは1951年1月に、今度は選挙で選ばれて大統領に返り咲いた。前任のドゥットラ大統領(PSD、1946年―51年1月)は、ヴァルガス独裁政権時代の軍事大臣であり、基本的体制はヴァルガス時代のものを引き継いでいた。PSDとPTBが「プロ・ジェツリスタ」と呼ばれる政治連合を作り、それに対抗するUDNと共に戦後2大勢力となった。

一方、アデマール・バーロスは1945年11月の大統領選挙で、UDNに所属してヴァルガスと、たもとを分かった。むしろドゥットラの対抗馬であるエドゥアルド・ゴメス候補を応援した。

ここから、反ヴァルガス陣営の重鎮としてのパジーリャの活躍が始まる。

バーロスはサンパウロ州知事に選挙で選ばれ1947年3月から51年1月まで辣腕を振るった。この時に、パジーリャは再びサンパウロ州体育局長に招へいされた。

その流れの中で、彼はあえてヴァルガスが嫌がる方法でスポーツ振興する策を考えた。戦争中に連合国の敵だった日本人選手を招へいしてブラジル選手権大会に参加させることだ。ドゥットラ政権にはヴァルガスの影響は強く、それを強引にはねのけて1950年に日本水泳団を招へいしたのだ。

ESPNサイトの「五輪のB面」特集15年3月24日電子版によれば、《ヴァルガスとの確執は続く。シルビオ(パジーリャのこと)サンパウロ州スポーツ局長はサンパウロ州で模範競技を見せるよう、世界最速だった「トビウオ」を招へいした。彼らは日本のチームであり、大戦の結果を受け、世界と外交関係がなく、一般的には招へい禁止と思われていた。ヴァルガスはそのアイデアを辞めさせたかった。でもパジーリャは「これは州の問題であって、連邦とは関係がない。彼らは政治的な使節団ではなく、競技者たちだ」と蹴った。一行が到着した後も、大統領は日章旗と国歌斉唱を禁じるように要請したが、シルビオは日本人たちへの顕彰としてのイベントであるから当然だと、さらに一蹴した。彼らの訪問先の一つマリリアで、岡本哲夫が彼らのやり方を学び、この競技のブラジル五輪界の最初のメダリストになった》と書かれている。

つまり、反ヴァルガス主義的なスポーツ振興策として、日本水泳選手団はサンパウロ州政府のお金で招へいされ、敢えて日本移民がたくさん集まる目の前で日章旗を掲げ、君が代を歌わせた。

戦前戦中にヴァルガス独裁政権に敵性国民として迫害された日本移民にとって、夢の様な光景だった。そこには、こんな政治的背景があった。

パジーリャは1947年からブラジル五輪委員会のメンバーとなり、奇しくも1964年東京五輪の時からブラジル五輪委員会の委員長になり、以来、88年ソウル五輪まで7大会のブラジル代表団を率いた超大物になった。

ヴァルガスの影響の強い政権下、そんな反骨精神のある人物でなければ、資金を負担して日本の水泳団を招へいするなど、ありえないことだった。

でもその想いが通じて、52年ヘルシンキでは岡本がついに表彰台に上がった。これは護憲革命で連邦政府軍に踏みにじられたサンパウロ州民の復讐でもあったのかもしれない。岡本の快挙を一番喜んだのは、きっとパジーリャだろう。

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* 本稿は、『ニッケイ新聞』(2016年8月18日19日)からの転載です。

 

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第3回 影の功労者、パジーリャ局長

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パカエンブーのプールに日章旗掲揚を許可したサンパウロ州体育局長は、戦争中に日本人プールの使用を特別に許可した時と同じ「パジーリャ氏」だった。

『パウリスタ新聞』1950年3月28日付には、パジーリャ局長のコメントが掲載され、《この大会に外国選手が参加するということはかつてなかった。この例を破ったこと、そのものに我々は非常な悦びを感じている。我々が持つ日本及び日本人への深い友情の表れがこうした例外を作られたと言っても良く、スポーツを通じての友情を永久に続けていきたい》と記されている。

つい5年前までは敵性国民として扱われ、公の場での日本語使用禁止、3人以上の集会もダメだった。日本移民を嫌う官憲も多かった時代に、並みいるブラジル人選手を抜いて南米新記録を続々と樹立したその水泳団一行を、不思議なことにパジーリャ局長は快く受け入れた。

パ紙創刊当時の記者で、水泳使節団来伯時には『日伯毎日新聞』記者として一行に同行取材した水野昌之さん(92、愛知県)は、「パジーリャ局長はコロニアに理解のある人だった。だから掲揚が許可された。戦前からスポーツ洋品店をやっていた日本移民と仲良くしていたと聞いている。勝ち負けを超えて、私も含めてその場にいた皆が日の丸掲揚に心から感動した」と昨日のことのように思い出す。

歴史の要所要所に現れるこのような親日ブラジル人は、忘れてはいけない存在だろう。とはいえ、終戦から5年も経ち、日本から水泳選手団が来ても、祖国の敗戦を信じられない人々はコロニアにまだ大勢いた。

1950年3月28日付『パウリスタ新聞』によれば、マリリア市に本部があった全伯青年連盟は、古橋ら一行が来たことで、敗戦が明らかになることを恐れ、《大会当日、右連盟会員で入場した者には断乎として除名処分にする。といった態度を取ったり、競技当日に弁論大会を企画するなど、極力会員が水上選手たちに接する機会をさけることに務めたと言われ、同地一般に憤りを買っている》とある。

さらに同50年11月、マリシア市警察は、勝ち組を騙して帰国費用を巻き上げる詐欺団「国民前衛隊」一味50人を逮捕した。その指導者・山岸宏伯は「5・15事件の山岸中尉」を名乗るなど、純朴な勝ち組農民をだます詐欺だった。同市は特に、そんな勝ち負け抗争の余韻が強い場所だった。

でも一行の来伯がきっかけとなり、スポーツを通した日系社会の融和は少しずつ進んでいった。

水野さんは、「1カ月余り同行しましたが、あの当時、岡本のことはまったく意識になかった。フジヤマの飛魚一行のことだけ」と振り返る。

さらに「当時はコロニアに水泳選手なんていなかったから受け入れる人もいない。急きょ、柔道の大河内さんが旗を振ってテニスの人らと急ごしらえの受け入れ態勢を作った。だいたい当時はみんな貧乏だったから、プールのあるようなスポーツクラブに子供を入れられる人はほとんどいなかった」と時代背景を説明した。例えば当時、サンパウロ市の有名スポーツクラブは白人エリート階級が集う場であり、日本移民を受け入れるところはほとんどなかった。


ヴァルガスに抵抗した反骨の人

それにしても「パジーリャ局長」とは一体何者なのか? 当時のパウリスタ新聞を見ても「パジーリャ局長」としか書いていない。日本移民が敵性国民としてさげすまれていた戦時中から特別に日本人プールに使用許可を出し、勝ち負け抗争の余韻が強い終戦5年目に日章旗掲揚に許可を出すほど、日本移民に肩入れした。そのくせに「パジーリャ氏」としか出てこない謎の人物だ。

調べてみると、驚くほどの大物が浮かび上がってきた。ブラジルスポーツ界きっての反骨の士「シルビオ・デ・マガリャンエス・パジーリャ(Sylvio de Magalhaes Padillha)」だ。1909年6月にリオ州ニテロイ市で生まれ、2002年8月にサンパウロ市で死んだ。陸軍学校を卒業し、職業軍人として陸上選手になった。戦前の陸上代表選手(主に400メートル障害物走)で、19322年ロス五輪、36年ベルリン五輪に出場したが、メダルはない。

ESPNサイトの「五輪のB面」特集15年3月24日電子版によれば、彼とヴァルガス大統領との確執は深い。

1932年ロス五輪は、ブラジル代表選手団にとって最悪の態勢だったからだ。ヴァルガスが軍部を率いてクーデターを起こして政権を握ったのが1930年11月3日。憲法を停止したヴァルガスにサンパウロ州勢が反旗を翻して立ち上がった護憲革命が1932年7月9日~10月2日。

ロス五輪(1932年7月30日~8月14日)はまさに護憲革命の真っ最中だった。パジーリャはリオで生まれ、フルミネンセ・クラブからロス五輪に送りだされたが、政府は資金難から選手団に交通費すら出せず、船に現物のコーヒー豆を支給し、選手自らに売らせて参加費に当てさせた。そんな状態では戦えないと多くの選手が途中であきらめた。

その翌年33年、選手として一番脂ののった24歳の時、パジーリャはサンパウロ市のクルベ・エスペリアに移籍し、以後、パウリスタ(サンパウロ州人)になる。つまり、反ヴァルガス急先鋒のサンパウロ州を拠点とする。

中でも36年大会での武勇伝は半ば伝説化している。メダルにこそ手が届かなかったが、ブラジル人初、陸上選手として決勝に進出した記録を残したときの逸話だ。

準決勝の直前、準備体操の時に、欧州最速と言われたハンガリー代表ジョゼフ・コヴァクス選手は「俺は欧州王者だ。もう俺は決勝進出も同然だが、サル(macacos)の国から来たヤツとも走ってやる」と言ったという。

結果コヴァクスは、奮起したパジーリャのすぐ後ろの4位で終わり、決勝進出できなかったという。そんな筋金入りの選手だ。

ブラジル代表団には32年ロス大会で67人、36年ベルリン大会で94人も派遣したが、メダルは共にゼロという惨憺たる成績。48年ロンドン大会は77人で銅メダル一つ、52年ヘルシンキ大会では108人参加で金一つ銅二つの計三つに比べると、大きな違いだ。

つまり、政権の不安定な第1期ヴァルガス政権の時代は五輪スポーツ暗黒時代だった。

そんな時、パジーリャは遊佐正憲が同じ五輪に参加して次々にメダルを獲るのを、さびしく横から見ていた。日本代表男子は、32年ロス大会の水泳全6種目中5種目で金メダルを獲得した。その時代の中心選手が遊佐であり、ベルリン大会と合わせて五輪金2、銀1という世界的に有名なスター選手だった。

時代の不運に遭遇し、自分はメダルに手が届かなかった。だが後輩選手には叶えてほしいと夢を託した。その一人が、おそらく岡本だった。

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* 本稿は、『ニッケイ新聞』(2016年8月13日16日)からの転載です。

 

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第2回 日本移民受難の時代に曙光

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1942年1月、リオで行われた米国主導の汎米外相会議で、アルゼンチンをのぞく南米10カ国が対枢軸国経済断交を決議、ブラジル政府も同29日に枢軸国と国交断絶を宣言した。

サンパウロ州保安局は「敵性国民」に対する取締令として、「自国語で書かれたものの頒布禁止」「公衆の場での自国語の使用禁止」「保安局発給の通行許可証なしの移動禁止」「保安局に予告なしの転居禁止」などの制限を日本移民に課した。

そんな時代ゆえ、「日本人プール」は竣工こそしたものの書類に不備があり、開場早々に使用禁止を言い渡された。戸崎新蔵と山崎用一は急きょ、サンパウロ市に出向いて州体育局長にお伺いを立てた。

すると《親切に手続きを教えられ、戦争中も一時閉鎖を命じられたが、これもパジリア氏からのやつてよろしいという許可証でパッサ(註=通過)した。「パジリア局長が世界の岡本哲夫を作った」ということにもなる》(『パウリスタ新聞』1952年9月18日付)。「敵性国民」だが例外的な扱いで、岡本は水泳を続け、地元のヤーラ倶楽部にも所属して磨きをかけることができた。

終戦直後、1946年3月から「勝ち負け抗争」が起き、日系社会は未曽有の混乱に陥った。

41年に日本語新聞がなくなってから、短波放送「東京ラジオ」の大本営発表だけを頼りにしていた日本移民にとって、ブラジル一般紙の報道は「米国の謀略」だと戦時中に頭から刷り込まれていた。

それゆえ終戦直後、日本の無条件降伏を信じたくない「勝ち組」と、早々に敗戦を認めた「負け組」に分かれ、日本人同志が20人以上も殺し合う危機に直面した。46年4月から7月をピークに、翌47年初めまで殺傷沙汰が続いた。

46年末から邦字紙が発行されるようになり、事態は収拾に向かったが、この後も10年近く分裂は続いた。そんな抗争の余韻が色濃く残る1948年、まだ16歳だった哲夫はウルグアイで開かれた南米大会に出場した。

「初陣の水泳会や首府の夜」(雪村)

――父専太郎は、そんな句を詠んで喜んだ。

1950年、哲夫の人生を変える出来事が起きた。戦後日伯交流の先駆けとなった水泳選手団一行が3月4日に来伯したのだ。遊佐正憲監督、村山修一(主将)、「フジマヤのトビ魚」こと古橋広之進、橋爪四郎、浜口喜博ら一行だ。

戦前の30年代の日本で競泳は「お家芸」と呼ばれ、世界一をほしいままにした。例えば32年ロスの男子全6種目中5種目で金メダルを獲得した。その時代の中心選手の一人が、一行の監督・遊佐正憲(五輪金2、銀1)だった。

すでにブラジル代表になっていた岡本は1カ月余り、この日本選手団と共にサンパウロ市、マリリア市、パラナ州ロンドリーナ市など日系人が多く住んでいる都市で開かれた親善大会に参加し、世界最速の泳ぎに大いに感激した。

全員起立の裡に国旗は掲げられ=夜空に高く響く君が代

敗戦国だった日本は1948年開催のロンドン五輪には参加ができなかった。しかし1949年6月に日本の国際水泳連盟復帰が認められるやいなや、古橋や橋爪ら6選手は、ロサンゼルスで8月にあった全米選手権に招待参加し、400メートル自由形、800メートル自由形、1500メートル自由形で「世界新記録」を樹立した。

サンフランシスコ講和条約(1951年9月8日)締結前だったため、日本国内に米ドルがなく、日本水連幹部や在米日系人からの寄付でようやく実現できた大記録だった。当時、現地の新聞が「フジヤマの飛魚」と呼び讃えたことから、日本国民を大いに勇気づけた。

その翌年1950年にブラジルのスポーツ省の招待で南米遠征。これを機に、全ブラジル水泳選手権大会がサンパウロ市パカエンブー・プールで3月22日から4日間開催され、古橋選手は400メートル自由形で南米新記録を樹立するなど偉業を残した。この時、特別な計らいで国交断絶以来8年ぶりに日の丸が公の場所にはためき、辛い戦中を送った日本移民の心を大いに慰め、力づけた。

実際にパカエンブーのプールに大会を見に行った梅崎嘉明さん(93、奈良県)は、「大会の前には、何を大騒ぎしているんだとけっこう冷めた感じの人もいたし、私もそうだった。でも実際に日本人選手が活躍するのを見ているうちに、いつの間にか一緒に大騒ぎして、結局はすごく感激した」と思い出す。

さらに感慨深そうに、「日章旗が掲揚されたとき、すぐ隣に並んでいた岩波菊治さんが涙を流していた」と付け加えた。落ち着いたインテリの印象が強い岩波だが、さすがにこの時ばかりは、感情の高ぶりをこらえ切れなかったようだ。

「あのときは勝ち組も負け組もなく、皆がプールに集まった。ブラジルの水泳大会だから普通なら大半はブラジル人の観客。ところが、その大会だけは日本人が半分を占めた。そんな場で、古橋らはブラジル人選手に十何メートルもの差をつけて勝利を飾った。その姿をみて一緒に溜飲を下げ、日の丸掲揚を見て、みんなで涙を流した。今思えば本当に特別な日でした」としみじみ振り返った。

梅崎さんは当時27歳で、短歌結社・椰子樹の一番の若手だった。先輩諸氏と一緒に見に行き、興奮冷めやらぬ前に同人の家に寄り、「飛魚歌会」を開いた。その作品が『パウリスタ新聞』1950年4月1日付に掲載されている。

梅崎さんの言うとおり、ブラジル短歌界の指導者・岩波菊治は《メーンマストに高くひるがえる日章旗仰げばしばし沸き来る涙》との熱い想いが込められた歌を発表している。

その他、《全員起立の裡に国旗は掲げられ夜空に高く響く君が代》(大原友重)、《スタートに立つ古橋の不動体ロダンの彫刻のごと眼を見張らしむ》(吉本靑夢)などと10首あるうちの大半は祖国や日本選手の勇姿を讃えている。

でも一人だけ岡本を詠んだ、目の付け所が違う歌人がいた。《二百米決勝のゴール迫るときオカモトを呼ぶ声湧き高まれり》(武本由夫)などと生々しく雰囲気を伝える。

梅崎さんは「日本から有名選手が来るなんて、まったくなかった時代。とにかく飛魚、飛魚と大騒ぎで、まだ誰も岡本に注目していなかった。武本さんはコロニア文芸界の第一人者だった人で、僕ら準二世にも目をかけてくれた。若い世代に期待を寄せる人だったから、岡本のことを詠んだのかもしれません」と当時のことを鮮明に記憶している。

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* 本稿は、『ニッケイ新聞』(2016年8月11日12日)からの転載です。

 

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