深沢 正雪

(ふかさわ・まさゆき)

1965年11月22日、静岡県沼津市生まれ。92年にブラジル初渡航し、邦字紙パウリスタ新聞で研修記者。95年にいったん帰国し、群馬県大泉町でブラジル人と共に工場労働を体験、その知見をまとめたものが99年の潮ノンフィクション賞を受賞、『パラレル・ワールド』(潮出版)として出版。99年から再渡伯。01年からニッケイ新聞に勤務、04年から編集長。

(2009年1月 更新)

community ja

明治の重鎮がブラジルに抱いた稲作の夢(桂、レジストロ、セッチ・バーラス3植民地)

一枚の金属板が変えた日本移民の運命

サッカーW杯がブラジルで開催された6~7月の間に1万人近い日本人観戦者が訪れた。その中のほぼ誰も足を運んでいないが、明治期の歴史が好きな日本人なら見逃せない重要な場所がある。

[inline:colonia1.jpg]

サンパウロ市から南西に202キロにあるイグアッペ市立歴史博物館(Museu Municipal de Iguape)だ。まるで古い民家の様なその建物の2階にさりげなく、ある金属板が展示されている。

イタリア統合50周年記念してトリノで1911年に開催された第1回国際産業展覧会で、この地方の「イグアッペ米」がブラジルを代表して出品され、「世界優良の米生産者」として国際顕彰を受けた時のプレートだ。浮き彫りでイタリア語(Diploma d'Onore, Torino MCMXI)が刻まれている。

とはいえ、目線が届きやすい高さではなく、床スレスレの低い壁面に設置されているから、床に寝転がらないとまともに撮影できない。しかも、乱暴な手書きで簡単な説明が書かれているだけであることから、地元のブラジル人にとってすらも半ば忘れられたかのような存在であることが分かる。

なぜこの金属板が「明治期の歴史好きの日本人」に見逃せないのか。実はこの国際表彰があったからこそ、1913年にブラジル初の日本人移住地「桂植民地」が稲作を目的として、この町の上流に作られたからだ。

[inline:colonia2_3.jpg]

こんな辺鄙な場所にどうして?

想像してみてほしい。日本からはるばる40~50日間の船旅をしてサントス港に着く。初期の日本移民の大半が入ったサンパウロ州のコーヒー大農場は、サンパウロ市から鉄道で一~二晩あれば最寄り駅まで着いた。ところが州南部海岸地帯にあるイグアッペという場所は、桂植民地が創立した当時は、サンパウロ市から鉄道2線と蒸気船2隻を乗り継いで、4日がかりでしかいけない僻地だった。

[inline:colonia4.jpg]

もしくは移民が上陸したサントス港まで再び戻り、そこから月に一度程度の船を待ってイグアッペ港まで行き、蒸気船でリベイラ河を上流にさかのぼって、ようやく桂植民地に着いた。だから当時の文献を見ると「どうせサントスから船に乗っていくならアルゼンチンの方がいい」と外国と比較する指摘があるほど遠い場所と思われていた。

そんな僻地に「東京シンジケート」(青柳郁太郎代表)は「イグアッペ植民地」と総称される3移住地(桂、レジストロ、セッチ・バーラス)を計画した。初の植民地造成計画の中でも、〝試し〟的にわずか30家族ていどで作られたのが「桂」で、昨年10月に盛大にこの3地域の入植100周年を祝った。

桂植民地の名前は当時の政界の重鎮、日露戦争(1904~5年)時の桂太郎首相を顕彰して付けられた。実際に桂首相が後ろ盾となり、当時の高橋是清日銀総裁、〝日本の資本主義の父〟渋谷栄一ら錚々たる明治の政財界の要人が、労力と私費を惜しまず推し進めたのがこの植民プロジェクトだった。

明治期の錚々たる重鎮が後ろ盾に

明治の錚々たる重鎮たちは、まるで大きな世界地図に虫ピンを刺すように、地球上の最も遠くて不便な地点に理想郷を探し、「日本人村」を作ろうとした。日本人と稲作の歴史は深く、外国に渡ってすらも日本移民が米にこだわったのは、当時の祖国の食糧事情と関係する。外国で米を作って祖国に供給することを「日本人としての使命」と考え、移住した者たちがいたからだ。

米の自給率は明治中頃から100%を割り始め、日清戦争(1893~94年)の直後、1897(明治30)年に一転して米輸入国になった。食糧政策の転機期だった。米不足の原因は人口増と、雑穀を食べていた国民の生活様式が豊かになって米を食べるようになり、消費量が増加したことだった。

ロシアや中国との勢力争い、大陸進出に武力は不可欠であり、軍の食糧確保は何にもまして優先された。黒船によって〃太平の眠り〃から無理やり起こされ、世界経済に組み込まれた明治政府にとって、米の確保は単なる食糧政策ではなく国防上の大問題でもあり、政治的な生命線であった。

1908年、そのような国家的視野の問題を論じた勉強会の内容を青柳郁太郎(1859―1943、千葉県)の名前の「意見書」として、大浦農商務大臣が根回しをして桂総理大臣宛てに提出した。そこから「東京シンジケート」が始まっているから、前述のような明治期の錚々たるメンバーが後ろ盾になった。

青柳のように時の首相に「意見書」を提出した移民事業関係者は珍しい。一見、華やかな業績の割に、経歴に不明な部分があり、実は謎が多い人物だ。

北米からブラジルへ

「近代デジタルライブラリー」サイトを探すと、青柳は1894(明治27)年10月に『秘魯事情』という本まで出版し、最初はペルー移住事業を進めていたことが分かった。ペルー行きのきっかけをその本の冒頭で触れている。北米に遊学中、1887(明治20)年頃にたまたま、カリフォルニア大学付属の図書館において在外米国領事の報告書を見て、南米大陸の有望さに気付いたとある。米国領事の報告書との出会いが彼の人生を変えた。でもペルー移民事業、つづくフィリピンでもうまくいかず、最終的にたどり着いたのがブラジルだった。

日本移民が明治期、最初に向かったのは主に北米やハワイ、アジア・オセアニア地方だった。だがセオドア・ルーズベルト米国大統領(1901―09年)の時代に、日露戦争で日本が勝ったことに米国市民が脅威を感じて黄禍論が盛り上がり、日本政府が移民を自主規制する「日米紳士協定」が1908年2月に締結され、締め付けが厳しくなっていった。

その流れを受けて北米からの転住者が相次いだ。その一人は1917年8月、北米から鳴り物入りでブラジルへ渡った西原清東(1861―1939、高知県)だ。板垣退助の立志学舎で学んで1898(明治31)年に史上最年少国会議員、1899年に同志社社長となった輝かしい経歴を捨てて1903年に渡米していた。テキサスで大農場を開いて〝ライス・キング〟と呼ばれたが、そこを息子に任せて渡伯したという。

でも14年間、ブラジル各地で試したがうまくいかず、結局は1932年に米国に戻り、そこで39年に亡くなったという。

北米での日本移民排斥機運が強まりの中、人口増加にあえいでいた日本政府は捌け口を求めてブラジル移住を本格化させた。

デカセギ労働者から永住者へ

[inline:colonia7.jpg]

一般的に、1908年の第1回ブラジル移民船「笠戸丸」と、〝移民の祖〟水野龍(1859―1951、高知県)がブラジル移民に関する文章には、枕詞のように繰り返される。

でも水野が連れて来た「移民=デカセギ労働者」は、「お金を貯めて日本に帰国する」ことを当初の目的としており、青柳のように「植民=永住希望者」を集めた移住地を作った訳ではなかった。現在の150万日系社会は永住者の子孫が作った流れであり、広い意味で「桂植民地」の系譜の延長線上にある。結果的に、「デカセギ的移民」と「永住志向の植民」の両者が応分に役割を果たす中で、ブラジル移民史は作られている。

「ジポヴーラ(桂植民地の現地名)にずっと住んでいたかった」。そこで生まれ育った中村忠雄(当時85、二世)=レジストロ在住=は2013年3月12日に取材した際、残念そうに繰り返した。彼と清美夫人(二世)が最後まで同地に住んでいた日系人だった。2007年に病気治療のために、近隣で最大の町レジストロへ転居した。それをもって桂植民地は完全に消滅した。

[inline:colonia5.jpg]

日本人が作った3移住地のうち桂は消滅したが、次にできたレジストロは特に繁栄し、一時は〝コーヒー王国〟ブラジルに「紅茶の都」と言われる輸出用紅茶の大産地になり、6万人都市に育った。今も日本の伝統を残すべく8月の終戦記念日の頃には盆踊りと、ブラジル人公立学校生徒が主に参加する平和灯籠流し(2009年開始)を開催し、11月には1954年頃に始まった伝統の灯籠流しも行われている。

世界に伍して立ち上がろうともがいた明治の日本人が、世界とどう相対していくのか、どう自らの存在を確立していくのか――そんな迷い多き状況の中で試行錯誤した歴史が、レジストロ周辺の大地には、今もはっきりと刻み込まれている。

 

* * * * *

この話を詳しく書いた本が出版されました。詳しくは、以下のサイトまで。
http://www.nikkeyshimbun.jp/2015/150211-hitotsubunokome.html

『一粒の米もし死なずば ―ブラジル日本移民レジストロ地方入植百周年―』
深沢 正雪・著

 

続きを読む

culture ja

手塚治虫の絶筆『グリンゴ』 ・ 天才の遺作の謎解きに挑戦 ・ 舞台はブラジル日系社会

『火の鳥』『ブラック・ジャック』などの傑作を次々に発表し、存命中から〝マンガの神様〟と呼ばれていた天才漫画家・手塚治虫(1928―1989年)を知らない日本人はいない。しかし、彼の未完の絶筆『グリンゴ』がブラジル日系社会をモデルにしていたことを知る人は少ない。

[inline:Gringo.jpg]

この作品に「ブラジル」という言葉は一言も出てこない。にも関わらず、どうして「舞台がブラジル」と分かるのか謎解きをしよう。序章の第1ページ目は《これからはじまる物語は、一切が仮名になっている。もし貴方に興味がおありなら、第一の舞台である商業都市カニヴァリアが、南米の地図のどこに位置するかをお調べいただくのも結構》と敢えて隠して読者の興味を誘うような始まり方をしている。

実はサンパウロ市に住んでいる者にとって、最初のページがすべてを物語っている。一コマ目は明らかに市の中心地点「セー大聖堂」だ。二コマ目は奥が旧サンパウロ州立銀行ビル、その右手前にあるのがイタリア人建築家設計による美しいマルチネリ・ビルだ。

ともにセントロ地区にあり、日本商店が集中している東洋街から歩いて10分程度と近い。写真と絵を見比べれば、関係は歴然としている。手塚治虫は1984年に国際交流基金の招待でブラジル訪問した。その時に写真に収め、資料にしたのだろう。掲載開始は1988年だから、4年間温めた上で発表した。

主人公は江戸商事の駐在員で、カニヴァリア支社長「日本人(ひもと・ひとし)」35歳。名前が示す通り、バブル期真っ最中のモーレツ日本人商社マンをモデルにしており、治安の悪い南米でレアメタルを買い付ける特命を帯びてきており、どんどんと有望な土地を買い上げる。

[inline:brazil1.jpg]

勝ち組「東京村」

圧巻なのは第3巻目の第11章「東京村」、第12章「勝ち組」、最後の第13章「奉納大相撲前夜」と続く絶筆部分だ。ブラジル日系社会に終戦直後に実際に起きた、勝ち負け抗争から着想をえている。

内戦から脱出した日本家は、アマゾンと思しきジャングルの中のインディオ村落を通って国境付近の山越えをした後、不思議な村に遭遇する。野宿した場所で朝起きたら、いきなり「鳥居」(左下の写真)が登場するのだ。日本は《南米の辺境の地にいる日本人のコロニーでは、太平洋戦争で日本が勝ったと勘違いした連中と、敗戦と聞いた連中が、勝ち組と負け組に分裂して反目していたとか……この村は勝ち組の一つか!》と独白する。

このコマと、実在する似た景色としては、サンパウロ州にある生長の家ブラジル伝道本部のイビウナ聖地の鳥居(右下の写真)だ。ブラジルの田舎の町に忽然と立派な鳥居と神社現れる様子は、漫画の描写に似ている。同教団のブラジル信者数は日本と同じ推定200万人といわれ、大半が写真にあるようにブラジル人となっている。

[inline:Torii2.jpg]

今も続く邦字紙、日本人墓地、相撲

第12章の勝ち組「東京村」では、我々のような邦字紙をモデルにした「聖戦日報社」という新聞が登場し、今も太平洋戦争が続いており、日本が優勢であると報じ続けている。終戦直後の数年間は、日本が今も戦い続けているかのような印象の記事をのせる新聞や雑誌が確かにあった。

漫画には、峠にはお地蔵様が置かれ、日本人墓地が描かれている。実際にアルヴァレス・マッシャードや平野植民地などには、日本移民だけが埋葬されている墓地が実在する。普通の市立墓地は人種関係なくみなが埋葬されるから、ブラジルでも特殊な墓地だ。

武装した「自警団」が漫画に出てくるが、地方部の治安の悪い日本人集団地では、今も自警団組織を作っているところがある。ただし、地元警察と協議して許可のもとにやっており、漫画のように〝自治〟をしている訳ではない。

第13章「奉納大相撲前夜」にあるような相撲は今も盛んだ。今年も7月にブラジル相撲選手権大会、南米相撲選手権大会が予定されている。ただし日系子弟で相撲をやるものは減り、貧困層向けに集団行動や規律を学ばせるためのスポーツとして主に非日系に広まっており、アフリカ系、白人系、男女を問わず、競技に参加する。作品にある「相撲=日本精神」という印象はむしろ薄くなった。

[inline:Sumo2.jpg]

[inline:Sumo.jpg]

手塚は何を漫画に託したのか

[inline:GringoCover.jpg]

主人公・日本は、外国人に負けない「強い日本人」としての矜持を持つが、興味深いことに妻は白人で、日本女性以上に大和撫子という設定だ。それが『グリンゴ』(ポルトガル語で「白人」)というタイトルに関係し、ラスト部分でのひねりにつながったのではと推測される。当地日系社会では混血が進んでおり、三世以降は半分以上がすでにそうだ。

おそらく手塚が東京村に託して描こうとしたのは、評論家の大宅壮一が1954年にブラジルへ取材に来た時に残した言葉「ブラジルの日本人間には、日本の明治大正時代が、そのまま残っている。明治大正時代がみたければブラジルに観光旅行するがよい」の雰囲気だろう。

ブラジル日系社会を発想の源泉として、手塚がバブル期の日本人に問いかけたかったものは何か? 現実のブラジル日系社会は、漫画の東京村よりもはるかに社会的、文化的に統合し、混血化した。没後25周年を迎え、当地在住の日本人としては、今さらながらに気になるところだ。

 

続きを読む

media en ja es pt

W杯直前のサッカー大国ブラジルで柔道映画公開

W杯を翌月に控えた5月初旬から、ブラジル全国で柔道映画『A Grande Vitória(偉大な勝利)』(Stefano Capuzzi監督)が公開された。イタリア移民の父に捨てられ、貧しい家庭に育った不良少年が柔道に出会い、人生を切り開いていく感動の物語だ。

[inline:eiga.jpg]

5月9日にニッケイ新聞を訪れた原作者マックス・トロンビーニ(Max Trombini、45)は「人生は七転び八起だ」と何度も強調した。原作はポルトガル語著書『Aprendiz de Samurai』(侍の修行、Editora Evora出版、2011年)。

「あなたにとって柔道とは」と問うと、マックスに「生きる指針だ」と答えた。さらに「他のスポーツとの違いは何か」と畳みかけると、「例えばサッカーは金儲けの手段、貧乏家庭に生まれた男の子が社会的にのし上がる為の数少ない手段といえる。だが柔道はただ試合に勝つだけではない。武士道精神という哲学があり、生活態度や考え方も含めて鍛えられる総合的なもの。ブラジル社会に足りないものが柔道にはある。これを広めることで馬欠場先生の教えに応えたい」とのべた。

この6月12日から世界が注目するサッカーW杯が当地で開催されるが、そんな風に考えるブラジル人も少なからずいる。だからW杯直前にサッカーでなく、柔道映画が全国公開された。

ブラジル柔道は過去総計で18もの五輪メダルをとり、国全体のメダル数102個中の実に2割弱を占める。文句なしに最多メダル獲得種目で、その競技人口は50万人を数えるという。ちなみに日本語教育人口は2万人前後だから比較にならない。2016年のリオ五輪にむけて、文句なしに国民が一番成果を期待する競技といえる。

[inline:max3.jpg]

戦前は日系社会だけの存在

柔道は戦前、ほぼ日系社会だけのものだった。最初にして、例外だったのは前田光世(コンデ・コマ、1880―1941、青森)だ。北米ニューヨークで道場を開き、メキシコ、キューバなどを転戦して1千試合を超える大勝負で勝ち、欧州、特にスペインで敬意を集めた講道館の猛者だ。最後はアマゾン河口の町ベレンで移民の世話をする傍ら、初代グレーシーに柔術をおしえ、そこからブラジリアン柔術が派生していった。

大河内辰夫も最初、1917年にニューヨークで高峰譲吉博士の研究所で薬学研究しつつ柔道を教え、24年にブラジルへ再移住した。深谷清節、谷宗兵衛、吉間大志、赤尾竜三、国井猛らと共に全伯柔剣道連盟を組織し、大戦勃発で中断されるまで、盛んに武道大会を催した。

マックスの師匠・馬欠場卯一郎(うまかけば・ういちろう、68、和歌山県)は、戦後の56年に10歳で家族に連れられて入植した。馬欠場のように、日本生まれだがブラジルで人格形成したものを「準二世」と表現する。何が二世に準じているかと言えば、ポルトガル語が二世なみに達者な人が多く、ブラジル式の思考様式も理解することだ。当地社会のエリート層とも互角に渡り合える素養を持った日本人が出やすい特殊な橋渡し世代といえる。

そんな馬欠場は戦前からの流れを汲んだ柔道をブラジルで身に着けた。

[inline:judo1.jpg]

南米武者修行で五輪メダル手にした石井

戦後、一般社会に広まっていった飛躍点はミュンヘン五輪(1972年)で、戦後移民の石井千秋(72、栃木、帰化人)が銅メダルを取ったことだった。64年の東京五輪強化選手に選ばれなかった石井は、いったんは柔道を諦め「大農場主になる」と早稲田大学の卒業式翌日、移民船に乗った。まだ22歳。ところがブラジルについてすぐ、誘われて全伯柔道大会に出場し、いきなり優勝した。

勢いに乗った石井は「夢をもう一度」と考え直し、1年半の間、南米を武者修行して回った。言葉もよく分からないまま「俺に勝ったら5千ドルやるぞ」と勝負を申込み、ボクシングやプロレス選手を相手に異種格闘技の経験を積んだ。

馬欠場にも出会い、懸命に自分の持てる技のすべてを伝えた。石井は教え子が次々に大会で好成績を上げるのに、ブラジル国籍がないばかりに自分は参加できないのを悔しく思っていた。そんな時、ブラジル柔道連盟のアウグスト・コルデイロ初代会長から帰化を口説かれた。

[inline:ishii.jpg]

当時、日系社会の柔道指導者の大半は「日本で覚えた柔道なら自分で出場しないでブラジル人に教えるべきだ」と反対した。だが石井は帰化し、見事銅メダルを獲得した。その結果、一般社会はもちろん、日系社会も手のひらを返したように大歓迎した。

石井は「あの後、日本に行った時に裏切り者扱いされたよ。大学時代、俺ぐらいの選手は日本には2、30人はいた。俺は東京五輪の悔しさをバネに8年間も南米で修業を続けたんだ」と思い出す。後にも先にも彼以外に帰化選手で五輪メダルを得た者はいないという。

その石井の一番弟子といえる馬欠場は現在、サンパウロ州地方部のバストス市で700畳の大道場を経営する。そこからシドニー五輪で銀メダルを取ったチアゴ・カミーロほか五輪代表選手約4人が生まれた。準二世だからこそ、ブラジル人を教える素養に優れ、社会に広める役割を担った。

マックスはサンパウロ州海岸部ウバツーバに生まれ、父に捨てられた貧しい家庭で育った。学校では暴力沙汰を起こす問題児で、ケンカ相手をケガさせてしまい、退学させられる直前まで行った。「柔道でもやってみたら」と薦められ、地元道場に通い「考え方を入れ替え、学校ではケンカをやめた」という。

道場の月謝を払うために、家政婦をする母親は給与のすべてをつぎ込んだ。稽古着を買う金すらもなく、パン屋から小麦粉袋をもらってきて見様見真似で母親が作った。マックスは「本物の道着そっくり。でも首が擦れて血が出た」と思い出し笑いをする。

道場は週3回だが、海岸で黙々と毎日練習をし、近隣住民から「あいつは気が狂った」と評判になった。そして「馬欠場先生のところで寒稽古に参加し、住み込みをすることになり、本当の柔道を教わった」と振りかえる。18歳から4年ほど住み込みで鍛えられた。午前中に筋力増強訓練、午後は6時間も毎日練習した。「必死に五輪の代表選手を目指して猛特訓をしたが、落選した。イタリア国籍も持っていたので、そこか米国で柔道教師でもしようかと思案していた。でもサンパウロ市のスポーツクラブが雇ってくれた」。

自叙伝からドキュメンタリー、映画へ

自叙伝『Aprendiz de Samurai』を出版したところ、大学映画学科を卒業したばかりの若者が「ドキュメンタリー映画にしたい」と申し込んできた。その若き監督は、実はフェルナンド・メイレーレス(Fernando Meirelles)のプロダクションに関係していた。

その作品を気に入ったメイレーレス本人が「ブラジルに必要な映画だ。特に若者に見せるべき。僕が全面的に協力する」と申し出て、その若者が監督して映画制作が始まった、とマックスは説明する。メイレーレスはリオの有名なファベーラ(スラム街)を舞台にした映画『シダージ・デ・デウス』(2002年、邦題『シティ・オブ・ゴッド』)でアカデミー監督賞にもノミネートされたあの人物だ。

奇しくも昨年8月にリオで開催された柔道世界選手権ではラファエラ・シウヴァ選手(21)がブラジル女性柔道家初の金メダルを獲得した。彼女の出身は、まさにそのシダージ・デ・デウスだった。マックスもしかりだが、彼女も5歳の時に路上でケンカばかりしていて「格闘技でもやらせたら」とNGO団体に預けられた。

世界で最も不公平な町の一つで育った子供だった彼女は、柔道によって精神と身体を鍛えて世界一を達成した。ブラジル社会の最も弱い部分を日本のスポーツ哲学が補完し、逆に世界に誇る存在にしたという良い例だ。国籍を超えたJudoという “哲学” の勝利といえる。

[inline:max.jpg]

3年前から現在公開中の映画製作に取り掛かり、主演のカイオ・カストロはマックスの自宅に6カ月間住み込んで柔道を叩き込まれた。ブラジル講道館有段者会の関根隆範会長も「映画の中の打ち込みは本物」と太鼓判を捺す。マックスは「日本でもぜひ公開してほしい。そして誰か僕の本を翻訳出版してくれないかな」と語り、馬欠場も「柔道をテーマにした映画は、いまどき日本でも珍しい。ぜひ日本でも見てほしい」と期待している。

実は馬欠場家の稼業の養鶏場は数年前に破産した。馬欠場は「石井先生から教えられた柔道の七転び八起精神で借金を返済し、農場も道場も元通りにした」と胸を張る。その後ろ姿をみたマックスだからこそ、冒頭の言葉を繰り返す。

そんなマックスを孫弟子に持つ石井は、この3月に自分も『ブラジル柔道のパイオニア』を出版した。本人の話よりも諸先輩の歴史が中心になった貴重な柔道史だ。娘3人も黒帯、長女の娘も昨年のパンアメリカン大会で優勝を果たした。「リオ五輪ではぜひメダルを」と娘が果たせなかった夢を孫に託している。

リオの次は石井因縁の「東京五輪」だ。もし2020年に孫や弟子が金メダルをとったら、錦衣帰郷ならぬ “金位” 帰郷だ。(敬称略)

[inline:max2.jpg]

 

続きを読む

community ja

有名ブラジル人法律家の知られざる日系人との絆: イヴェス・ガンドラ・マルチンス

「今でも空手の訓練を毎日続けているよ」。そういいながら有名な法律家イヴェス・ガンドラ・マルチンスさん(79、Ives Gandra da Silva Mrtins)は4月15日、手刀の構えをして「今でも板一枚なら割れる」と言った。日本文化関係にゆかりがある人物としてはまったく知られておらず、驚くような言葉から取材は始まった。

[inline:IvesMartins_ed.jpg]

名だたるエリート校のサンパウロ州立総合大学(USP)法学部を卒業後、弁護士としての経歴を重ねながら解放者党(PL)党首も務めるなどの政治活動もし、数々の有名大学教授にも就任し、保守系論客として知られ、新聞のコラム執筆者にもなっている。〝法王の先兵〟の代名詞で知られるオプス・デイ入信をブラジルで最初に公にした筋金入りのカトリック信者でもある。

その傍ら、法律に限らず文学など140冊以上の著書を発表し、サンパウロ州文学アカデミーのメンバー、クラブ世界一にも輝いた有名なサンパウロサッカークラブ(SPFC)の元評議員会長など、多彩な経歴を並べ始めるときりがない。

日本文化との接点を問うと、大学時代の親友が日系人だったからとのこと。名を聞くと渡辺マリオ(故人)、日系社会では「日本移民の母」とも呼ばれる渡辺トミ・マルガリーダ(1900―1996、鹿児島県)の息子だった。

大戦中、枢軸国移民である日本人の集会や公の場での日本語の使用すら禁止された時代に、カトリック教会の名の元に果敢に邦人救済活動を組織した女性リーダーだ。

困難な大戦期、果敢に邦人支援を始めた聖母

1942年1月にリオで開催された米国主導の汎米外相会議において、アルゼンチンを除く南米10カ国は対枢軸国経済断交を決議し、ブラジル政府も国交断絶を宣言した。ナチス・ドイツはその直後、米国の補給路を断つために大西洋上のブラジルや米国艦船を次々に潜水艦攻撃で沈めた。その死者数は2月から8月までで1千人を越えたという。この被害を補償するためにブラジル政府は同年2月、枢軸国側移民や企業の資産凍結令を出し、日本進出企業や移民関連会社は真っ先に標的にされ、なんの罪もない邦人がスパイ容疑で次々に政治警察に拘束された受難の時代だった。

南半球のブラジルは6、7月が真冬だ。トロピカルな印象が強い当地だが、サンパウロ市は800メートルの高原にあり、10度以下になりかなり肌寒い。そんな1942年5月13日、渡辺マルガリーダはセーター80枚を買い、政治警察によって移民収容所に収監されていた邦人に差し入れた。これが「聖市カトリック日本人救済会」の最初の活動だ。在外公館は閉鎖・国外退去を命じられ、外交官は同年7月に引き上げた。

翌1943年7月、サントス沖で起きたドイツ潜水艦攻撃を受け、枢軸国側移民サントス地区強制立ち退き令が出された。24時間以内という無謀な行政命令で、泣く泣く土地や財産をたたき売り、手に持てるだけの荷物をもって列車に乗せられた。なぜか大半は日本移民だった。サンパウロ市に送られた避難民を受け入れたのも渡辺マルガリーダで、1週間の間になんと計6500人を世話したと記録にある。

『救済会の沿革とその事業』1968年、3頁)には「貧困者・疾病者及びその家族の救済、寄辺なき老人の収容・養老院への入院斡旋、孤児・私生子の収容・養育、精神病者の入院斡旋、結核患者の入院斡旋と救済、死者(無縁仏)の埋葬、失業者の就職あっせん並びに人事相談」と書かれており、ありとあらゆる福祉業務を一手に引き受けていた。

1942年から1967年11月末までの25年間に、延べ人数で6万1403人を救済した。活動が拡大する中、正式登録が必要となり、1953年3月、正式に社会福祉法人「救済会」となった。

[inline:DonaMargarida_sm.jpg]

親友マリオとその母、空手との出会い

学生時代、マルチンスさんと渡辺マリオは恋人を連れてカップル二組で週末によく遊びに行った。そんな時、マリオから母親の救済事業のことを聞かされ、「コミュニティの聖母のような人だと思っていた」という。

[inline:karate1_sm.jpg]

大学卒業後、25歳の時に「変わったスポーツをやりたい」と思い、大学の近くにアカデミーがあった空手を習うことにした。当時は普及が始まったばかりだった。

厳かな雰囲気の彼の法律事務所は、銀行や多国籍企業が軒を並べる南米金融界の中心パウリスタ大通りの近くにある。壁には、1965年5月15日、ブラジル空手アカデミーから1段を授与という免状が誇らしげに飾られている。

彼が最初に法律事務所を構えたのは、東洋人街のすぐ横ジョン・メンデス広場だった。そこには日系人が集まるサンゴンサロ教会があり、武内重雄神父が司る毎朝7時からのミサに、彼も参加していたという。教会内には渡辺マルガリーダが創立し、長年会長を務めた聖母婦人会もあった。

サントス強制引上げ者援護の話をすると、歴史に詳しいはずのマルチンスさんも「初耳だ」と唸った。「マリオのお母さんは日系コミュニティだけでなく、ブラジルにとっても重要な役割を果たしていたんだな。彼女の列福・列聖調査を始めるなら喜んで協力しよう」と感慨深げに何度も頷いた。

 

続きを読む

community ja

軍政開始50年と日系活動家=独裁政権と闘った若者たち -その3/3

その2を読む >>

437人が拷問死、行方不明=大事な役割担った日系活動家

「軍事クーデター50年・独裁政治の撲滅を」式典の直前には、拷問の死者や行方不明者を役者が演じ、まるで死後の世界からメッセージを送っているかのような映像が20人分ほど流され、来場者は食い入るように見入った。その最後の方には日系活動家4人分も映し出された。

[inline:golpe5.jpg]

その一人、フランシスコ・セイコ・オクマさん(ALN)は警官隊との打ち合いで73年3月15日に聖市で死亡した。彼の検死報告書にはテロリストを意味する “T” の字が書かれていた。

その役を演じた亀田エジソンさん(56、バストス出身二世)は、「オクマは11歳年上。彼が死んだ時、僕はまだ15歳だった。彼らがやらなかったら僕らがやっていた。軍政に立ち向かった彼らの勇気を誇りに感じる」と語った。「バストスも戦争中、バルガス政権により厳しい目に遭った。僕らはブラジル人として政府にただ従うのでなく、悪いものは悪いと言わなくちゃいけない」と断言した。

[inline:golpe6.jpg]

平田進下議の親族で、当時の聖市金属労組の5大指導者の一人で、3週間にわたる拷問の末に殺された「平田ルイス」役をした三浦マルコスさん(40、モジ出身三世)も「この件は日系家族の中ではタブーにされてきた。歴史を掘り起こし、民主化に貢献した若者として表立って語るべきだ」との想いをぶちまけた。

隠れキリシタンの家系でもあり、平田は最後まで信念を曲げなかったようだ。その結果、検死報告書には「逃げようとしてバスにはねられて死亡」と書かれたが、同房者の証言により拷問死が明らかにされている。

軍政の人権侵害を調査する聖州真相究明委員会のアドリアノ・ジョーゴ州議本人もここで拷問を受けた一人だ。「日系人には恥の文化があり、それが邪魔して遺族から協力が得られない。大事な役割を果たした自分達の息子や娘が、軍政からどう扱われたかをしっかりと見つめ、再び同じ悲劇が起きないように監視する役割が我々にはある」と強調し、「日系活動家に焦点を当てた公聴会を開きたい。日系の若者達にもっと感心を持って欲しい。コロニアの協力をお願いしたい」と呼びかけた。

そんな活動家を当時の日系社会は「テロリスト」と認識していた。人文研年表にも《1973年3月15日、外間盛康を含むALNのテロ・グループ3人がペニャ街で軍警と打ち合い射殺される》と枕詞のように関連事件に「テロ」と付けている。三宅さんにも尋ねたが「親や兄弟は私の活動を全く理解してくれなかった」と悲しそうな表情を浮かべた。

安部下議も「軍事政権でも、誰でも間違っていたら糺さなければいけない。どんな良いものも20年もやれば腐敗する。軍政はダムや通信設備などインフラ整備には投資したが、教育には力を入れなかったからダメになった。外資導入に編重した政策が80年代の高インフレの原因となり、それが農業界を苦しめてコチアや南伯農協の崩壊につながり、デカセギブームを起こした」と分析し、つながりを総括した。

* * * * *

軍政開始50年の式典の宣言文には《軍政21年間の間に7万人以上の市民が追跡・拘束され、少なくとも437人が死亡・行方不明にされた》とあり、この会場横のDOI―Codi建物だけで《8千人が拷問され、50人以上が殺された》と明らかにした。それらの中に少なくとも40人の日系の若者がいた。

その彼らのレジスタンス(抵抗)運動が、後の民政移管の端緒となった。冷静な目で、コロニアからもあの時代を見直す時期ではないか。

 

※ 本稿はブラジルの邦字紙『ニッケイ新聞』(2014年4月9日)から、許可を持って転載しています。

 

続きを読む