CEOにデニス・モリグチ
1868年(明治元年)、日本人は初めて集団で海外に移住した。行先はハワイだった。あれから150年、いまではハワイやアメリカ本土で、日系アメリカ人は、4世、5世が誕生している時代となった。
1世としては比較的遅い時期にアメリカ(ワシントン州タコマ)にやってきた、森口富士松が宇和島屋をたちあげてからは90年余。長年にわたり、宇和島屋は富士松の二男であるトミオを中心に、7人の子供たちが協力して発展させてきた。
とくに、富士松亡きあと同社をけん引してきたトミオ・モリグチの功績は大きかった。ビジネスの成功のみならず、シアトルという日系移民の歴史のあるまちで、日系はじめアジア系アメリカのコミュニティーのために貢献してきた。
チャイナタウンや旧日本町のあったインターナショナル・ディストリクトを、歴史的な遺産として保全することや経済的に発展させることについて、志を同じくする地域のリーダーたちの一員として活躍してきた。
日系移民の1世が高齢化していくなかで、日本文化につつまれた高齢者ホームが必要ではないかという声があがったとき、ホームの設立に一役買い、その結果1975年に「シアトルKeiro(敬老)ナーシングホーム」がサウスシアトルで、85年にはインターナショナル・ディストリクトの一角に「シアトルKeiro(敬老)」が開所した。
また彼は、シアトルで発行される「北米報知(The North American Post)」の発行人をつとめてきた。北米報知は、1902年に創刊した「北米時事 (The North American Times)」を前身とし、戦後は北米報知として復刊された。1世の高齢化などで1970年代から新聞経営が厳しさをましていくなかで、彼は日系のコミュニティーのために新聞の存続は必要だとして、これを引き受け、今日ではフリーペーパーの「ソイソース」とともに発行を維持している。
このトミオ・モリグチは、2007年、長年にわたる宇和島屋の経営トップの座を降り、かわって妹のトモコ・マツノがCEOの座についた。その後も事業は順調に伸び、2007年に7800万ドルだった売り上げは、2016年には1億2000万ドルにも達した。
MITでMBAを取得
こうした上昇期にあって、宇和島屋として課題となっていたのが後継者の問題だったが、2世が時とともにその役割を終えつつあるなか、2017年、宇和島屋(Uwajimaya)に、次世代の新たなリーダー(CEO)が誕生した。デニス・モリグチ(Denise Moriguchi)。トミオの長女である。
デニスは、シアトルに生まれ、地元の高校を出たのちメイン州にある、ボードイン・カレッジ(Bowdoin College)に進み、その後マサチューセッツ工科大学スローン・マネジメント・スクールでMBAを取得した。
社会に出てからは、スターバックスで3ヵ月間プロダクト・マネジャーのインターンを経験したのち、大手医療会社のバイエル・ヘルスケア(Bayer HealthCare)で約6年間、ブランド・マネジャーなどの職についた。
2013年5月からUwajimayaに入り、マーケティング・ディレクターを約1年経験し、2015年7月から副社長兼CEO(最高財務責任者)となり、翌2016年3月に社長に就任、2017年2月、40歳で社長兼CEOとなった。
後継者を誰にするかは、宇和島屋の役員間で数年にわたって検討されてきた。そのために外部に委託して、次世代の親族の中からその配偶者を含めて、37人もの候補者について、評価をしてもらい検討を重ねた。デニスについては、宇和島屋に戻ってきた時点で4人にしぼりこまれた候補のひとりになっていた。
最終的に、彼女が選ばれたのは、ひとつにはMBAという資格を持っていることが評価された。また、先見性があることや戦略的な思考ができる、他者を生かすリーダーシップの使い方に優れているといった点が評価されたようだ。
さらに、彼女が人の話をよくきき、親族だけでなく従業員からも信頼されているということを評価する役員もいた。ファミリー企業のトップに立つものとして、親族、会社ともにまとめる能力が必要だということを考えると、この点は重要だった。
デニスが小さいころは、父トミオに連れられて会社にも行き、書類の山の間に座りながら父が仕事をするのを見ていたこともあったという。また、袋詰めなど店の手伝いもした。
「父はいつも私のおおきなお手本でした。個人的にも仕事の面でも。だから自分が父のあとを追うようになるのも驚くことではありません」という。
父親から教わったこととして、がまん強くなること、他人の言うことをよく聞くこと、物事を大局的に考え、従業員やコミュニティーのことをまず考えることをあげる。
社長就任が決まった時点で、「祖父、父、おじ、おばたちが築き上げてきた宇和島屋のブランドと企業力を踏まえて、会社を成長させつづけるために新しいアイデアや技術や斬新なものの見方をする次世代のリーダーたちともに仕事をするのを楽しみにしている」と、抱負を語っている。
また、みんながつくったものを誇りに思うと同時に、こういった強いブランドや健全なビジネスを引き継ぐことをとても幸運だと感じているという。
そのうえで彼女なりのビジョンを描いている。先見性や計画性を重視し、またブランド戦略を高める方針だ。また、宇和島屋をアジア系のマーケットとしてだけでなく、よりよい食材を提供する場として広くアピールすることを考えいてる。
いま、宇和島屋は、シアトルの宇和島屋ビレッジの店をはじめ4店舗を展開し、ビレッジのそばには、古いパブリックス・ホテルを改装した店舗兼住宅のビル、「パブリックス」をオープンさせるなど、事業を拡張している。こうした流れの中で、デニス・モリグチCEOが3代目を継いだことで、宇和島屋は、日系移民がつくった店をファミリーのみの経営で維持、拡大した稀有な成功例として、また新たな一歩を踏み出した。
日系というレガシー(伝統的な遺産)のもつ魅力と、より広く顧客を獲得するための普遍的な魅力をどううまく併存させていくのか、そしてどこまでビジネスを広げていくのか、資本も経営も日系の、アメリカで唯一ともいえるスーパーマーケットのチェーンとして、これからますます注目されるだろう。
(敬称略)
参考:「北米報知」、「International Examiner April 5,2017-April 18,2017」、「The Seattle Timse January 22, 2017」など。
© 2018 Ryusuke Kawai