ディスカバー・ニッケイ

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強制収容所の話がキャリアに影響(英語)

(英語)大人になるまで収容所の話を聞いたことはありませんでした。1950年代や60年代、強制収容は恥ずべきことでした。しかし興味深いことに、強制収容の体験のある二世たちは、教会で“トパーズ”という貼り出しを背景にそれほどひどい体験ではなかったと印象付けるような寸劇などを子供たちに披露していました。自分たちは元気だったし、友達と一緒で問題なかった、と。私の両親が、どれほどひどい体験だったかを打ち明け、話してくれたのは本当にずいぶん後になってからでした。

まだほんの子供だった頃は収容所の話を聞いたことはありませんでしたが、成長し、特にアジア系アメリカ人の啓蒙運動が始まると、収容所体験の話が聞けるようになりました。そしてそれは、私にとってとても素晴らしいことでした。若い女性として、私の両親が否応なしに退去を命じられ、持参できる荷物はダッフルバッグ1つだと言われ、行き先は砂漠の真ん中のへんぴな場所だと告げられたことについて考えたことは、私の人生観や政府や法に対する見方にある種の影響を与えました。そしてこのことは、判事として、日系アメリカ人判事として、日系の人々に二度とこのようなことが起こらないこと、他の誰の身にも起きてはならないことを意味しました。(目元を拭いながら)涙を拭かないと。


感情 政府 第二次世界大戦 第二次世界大戦下の収容所

日付: 2019年7月11日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: ケイラ・タナカ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター; Japanese American Bar Association

語り手のプロフィール

2012年よりカリフォルニア州ロサンゼルス郡最高裁判事を務める。カリフォルニア州ウェストオークランドの多人種地域で育った。第二次世界大戦中、子供だった両親は共に強制収容所に収容されるが、娘が大人になるまで収容所での体験を語ることはなかった。このことはフジエ判事の法と政府に対する見方に影響を与え、弁護士を経て裁判官となる道に導いた。

弁護士として日系アメリカ人弁護士会など、さまざまなマイノリティの弁護士団体や指導プログラムに携わっている。2008年にはアジア系アメリカ人として初のカリフォルニア州弁護士会会長となった。(2019年7月)

フランク・ヤマサキ

ほこりだらけのミニドカ収容所の記憶(英語)

ワシントン州出身の二世。戦時中徴兵拒否。(1923年生)

マリオン・ツタカワ・カネモト

真珠湾攻撃後のFBIによる家宅捜索(英語)

日系アメリカ人二世。第二次大戦中に自主的に日本へ移住。(1927年生)

マリオン・ツタカワ・カネモト

子供の時にみた父の逮捕(英語)

日系アメリカ人二世。第二次大戦中に自主的に日本へ移住。(1927年生)

マリオン・ツタカワ・カネモト

戦時中に参加した日本での兵役訓練(英語)

日系アメリカ人二世。第二次大戦中に自主的に日本へ移住。(1927年生)

マリオン・ツタカワ・カネモト

先生から聞いた反アメリカプロパガンダ(英語)

日系アメリカ人二世。第二次大戦中に自主的に日本へ移住。(1927年生)

マリオン・ツタカワ・カネモト

第2次大戦中の日本での苦難(英語)

日系アメリカ人二世。第二次大戦中に自主的に日本へ移住。(1927年生)

藤間勘須磨

戦中は隣人にホテルビジネスを預け収容所へ (英語)

日本舞踊・歌舞伎役者 (1918-2023)

フレッド・ササキ

第二次大戦中の排日感情(英語)

カナダの一世ビジネスマン(1918年生)

児玉良一

戦時中に取り上げられた運転手としての仕事

笠戸丸移民

パット・アダチ

スロカン日系カナダ人収容所での家族生活(英語)

第2次大戦中の収容経験あり。日系カナダ人コミュニティのアクティブメンバー(1920年生)

アイコ・ヨシナガ・ハージック

政治権力の欠如が収容所の一因(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

シズコ・カドグチ

東へ移住か渡日かの選択(英語)

日系カナダ人二世。池坊トロント支部を設立。(1920年生)

アイコ・ヨシナガ・ハージック

囚人のように思えた収容所生活(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

アイコ・ヨシナガ・ハージック

制度化されたシステムの悪影響(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

アイコ・ヨシナガ・ハージック

日系人収容者の取り扱いに対する懸念を表す公文書(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)