ディスカバー・ニッケイ

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アジア系アメリカ人として初のカリフォルニア州弁護士会会長になったこと(英語)

(英語)当時、カリフォルニア弁護士会の理事会に3年の任期で他メンバーと共に選出されると、3年目には会長に立候補するかどうか決めなくてはなりませんでした。理事会は21人か23人で構成されていて、会長に選出されるにはその過半数の票が必要でした。私は出馬すべきかどうか考えました。当時は理事のほとんどが白人男性で、私は落選の心配をしていて、それは面目を失いたくないという日本的な考え方なのだと私はいつも言っていました。当時、州弁護士会会長候補は、州の弁護士全員に配布される弁護士会広報誌の表紙に掲載されていました。選出されなければ、「州弁護士会長に立候補していましたよね?」と今後何十年も、生涯言われることは分かっていました。そう言われたら、「いえいえ、違いますよ」と言わなくてはならなかったでしょう。

恥をかくようなことはしたくない、という考えでした。それが変わったのは、州弁護士会の年次総会に出席した時でした。私はコジンスキー判事や当時のロサンゼルス市長のビヤライゴー氏と高座に座っていました。無言で。理事のひとりに高座についてほしいという要請があったからでした。昼食が終わるまで私は着席していました。その後、ちょうど高座から下りようとした時、キャサリン・ドイ・トッド判事が通路を歩いているのが見えました。判事はこちらに近づいてきて、こう言いました。「あなたが高座に座っているのを見て、とても誇らしく思いましたよ。日系アメリカ人女性として指導者たちと肩を並べて、それはもう本当に誇らしく思いました」。私はただ座っていただけで何もしていないし、何か話をしたわけでもないのに、キャサリン・ドイ・トッド判事ほどの重要かつ象徴的な方が誇りに思ってくださるなんて、と思いました。私はただ座っていただけなのに、と。そして私は、州弁護士会会長選に挑戦しようともしないなんて、自分はなんて臆病でカッコ悪いんだろうと思いました。私が決めたのはその時でした。立候補しなければならない、と。選挙ではできる限りの努力をし、たとえ落選しても努力が足りないからではないと思うようになりました。私は当選し、アジア系アメリカ人として初の州弁護士会会長になったことを、とても、とても誇りに思いました。


アメリカ カリフォルニア キャサリン・ドイ・トッド カリフォルニア州弁護士会 政治学 選挙

日付: 2019年7月11日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: ケイラ・タナカ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター; Japanese American Bar Association

語り手のプロフィール

2012年よりカリフォルニア州ロサンゼルス郡最高裁判事を務める。カリフォルニア州ウェストオークランドの多人種地域で育った。第二次世界大戦中、子供だった両親は共に強制収容所に収容されるが、娘が大人になるまで収容所での体験を語ることはなかった。このことはフジエ判事の法と政府に対する見方に影響を与え、弁護士を経て裁判官となる道に導いた。

弁護士として日系アメリカ人弁護士会など、さまざまなマイノリティの弁護士団体や指導プログラムに携わっている。2008年にはアジア系アメリカ人として初のカリフォルニア州弁護士会会長となった。(2019年7月)

本郷悦男

渡米の理由

太鼓奏者。南カリフォルニアで5つの太鼓グループを結成(1949-2019年)

アイコ・ヨシナガ・ハージック

1944年の大統領選挙後まで収容所を続けた政治的理由(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

ジミー・コウ・フクハラ

家族経営の種苗会社(英語)

日系二世、連合国軍占領下の日本に駐留した退役軍人(1921年生)

大友 八郎

娘が日本になじめず、再度アメリカ行きを決意

溶接業を営む新一世(1936年生)

大友 八郎

アメリカで直面した偏見

溶接業を営む新一世(1936年生)

トム・ユキ

日系人の帰還を歓迎しなかったサリナス(英語)

三世のビジネスマン(1935年生)

トム・ユキ

友好的だった戦後カリフォルニア州ロス・ガトス(英語)

三世のビジネスマン(1935年生)

ミシェル・ヤマシロ

沖縄系アメリカ人(英語)

ペルー出身の両親を持つ沖縄系アメリカ人