Keiko Fukuda

Keiko Fukuda: Oriunda de la prefectura de Oita, egresada de la Universidad Internacional Cristina. Trabajó para una editorial de revista informativa en Tokio. En 1992 viajó a los Estados Unidos y trabajó como jefe de edición en una revista dedicada a la comunidad japonesa durante 11 años. Es freelance desde 2003 y actualmente escribe artículos para revistas focalizándose en entrevistas a personalidades. Publicó junto a otros escritores “Nihon ni Umarete” (nacido en Japón), Editorial Hankyu Communications. Sitio web: https://angeleno.net

Última actualización Julio de 2020

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米国で日本野菜普及に取り組む米田純さん

東日本大震災が転機に

山頭火ラーメンを米国に展開するFood’s Style USA社代表の米田純さん。彼から突然の連絡をもらったのは2020年の春頃だったと記憶している。私が以前書いた、南カリフォルニアの日本野菜農園についての「ディスカバーニッケイ」の記事を読み、農園の連絡先を問い合わせてきたのだ。それを機に米田さんとはSNSで交流するようになった。そして、2021年2月、東海岸デラウエア州のスズキファームの事業を米田さんの会社が引き継ぐことになったという投稿を見て、改めて彼がアメリカで何をやろうとしているのかに興味が湧いた。そして、2月のある朝、山頭火のボストン店にいた米田さんとのzoomを通じてのインタビューが実現した。

米田さんの前職は日本のプロ野球の球団代表だ。仙台に拠点を置く楽天イーグルスの代表を2004年から8年間務めた。その最中に、あの東日本大震災が発生した。「僕の中ではあの震災が転機になったほど、大きな衝撃でした。知り合いのご親族が亡くなったりもしましたし、僕自身も被災地にボランティアに駆けつけました。僕はイーグルスのグッズを配布していたのですが、(ラーメンの)山頭火の社長はそこで被災者にラーメンを提供していました。その時に1杯のラーメンがいかに人々に元気を与えるかということを実感したのです。改めて食べることの大切さを教えていただいた気がしました」。

50歳を機に独立した米田さんは、挑戦する分野を食に決め、しかもその舞台をアメリカに定めた。「プロ野球時代から大リーグとのつながりがあって、何度もアメリカには来ていました。この国の広大さ、市場の可能性を感じていたので、山頭火のアメリカとヨーロッパの路面店の権利を取得し、最初にシアトル郊外ベルビューに店を出しました」。続いてシアトル市内、ボストン、バージニアと現在は5店舗を展開している。

ラーメンブームの勢いも借りて、山頭火のアメリカの路面店は順調に売り上げを伸ばしていたが、2020年3月、新型コロナのパンデミックの直撃を受けた。

「僕らレストラン業はイートインを前提にしたビジネスですから、ロックダウンは大打撃でした。とにかくテイクアウトとデリバリーを強化するしかないと、スマホのアプリのオンラインオーダーシステムを開発し早速導入しました。非接触で決済までできるということで、このシステムの効果を実感しました。さらに従業員が身に着けている前掛けやロゴ入りの丼などの販売をオンラインで開始しました」。

また、以前から顧客に登録してもらい、リワードなどを提供する会員システムを運営していたことも功を奏したそうだ。同システムのおかげで、山頭火のラーメンのファンである顧客と個人的につながり続けることができている。今後、ロックダウンが解除されても完全にはパンデミック前の状況には戻らないという前提で、これらの取り組みには引き続き力を入れていくと米田さんは話す。

アメリカ市場の消費力

さて、日本野菜の話だ。もともと、アメリカで日本の食文化を広める上で、米田さんはその材料である日本野菜の普及拡大も視野に入れていたと言う。

「川上にのぼって、生産者の立場としても日本食を広げていきたいと考えています。そこでパンデミックになる前から、全米の日本野菜の農園を10カ所見て回りました。その結果、事業継承という形でスズキファームとのご縁をいただくことになりました。スズキファームでは30種類ほどの野菜を栽培、敷地面積は東京ドームの約5個分、58エーカーに及びます。実は山頭火のベルビュー店の小林店長は、長野県の実家がりんご農家なんです。手を挙げた彼はすでに、スズキファームに入って常駐しています(笑)」。

スズキファームの日本野菜のブランドは、東海岸には浸透している。米田さんのプランは、その生産物をオンラインで消費者に向けてより広範囲に販売することだ。

「東海岸の農園なので、販売先も東側の一部の地域に限定されますが、山頭火の店がボストンやバージニアにあり、それらの店舗の顧客に向けて販売することができます。食材を広めるためにも、それらの野菜を使ったレシピも提供していきます」。

その計画の先には、おそらく事業譲渡という形で米国各地に日本野菜の農園を開設し、東海岸だけでなく、より広い地域でオンライン販売を手がけるという、壮大かつ魅力的な未来図を米田さんは描いている。

50歳で日本の大手企業での安定した職と地位を捨て、異業種に参入し、新たな挑戦をアメリカで開始して7年目、アメリカという国に今何を感じているかを聞くと米田さんは、「想像以上にアメリカという国の人々の消費の力はすごい、ということです。さすがに、GDPでは日本の4倍もある国ですから。これからもアメリカの消費のパワーは安定し続けるでしょうし、そのパワーがある限り、僕も挑戦し続けます」と答えた。

 

山頭火のウェブサイト:https://santouka-usa.com

スズキファームのウェブサイト:https://stores.nihonyasai.com

 

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シニア世代の新一世によるチャランポランの会

「何かやらなくちゃいけない」

ある時、元広告代理店の社長だった宮田慎也さんという知り合いがSNSにシニア向けの日本語媒体を投稿した。それは、彼も所属する「チャランポランの会」という、主にロサンゼルス在住のシニアの新一世たちが中心メンバーとなり立ち上げた団体の会報誌『かわら版』だった。オンライン版を覗くと、エッセイあり、川柳あり、レストランのコラムありと非常に充実した内容。すぐにこの会に興味が湧いた。そこで宮田さんにお願いして、同会の発起人である鳥居欣一さん、そして鶴亀彰さんにZoom取材の段取りをつけていただいた。

鳥居さんは会を起こした経緯について次のように説明した。「5、6年前、雲田さん(ミスター・豆腐として知られた雲田康夫さん)が僕のところに来て、『何かやらなくちゃいけない』と言ったのがきっかけです。実際のところ、僕はアメリカから日本に引き揚げるつもりでした。しょっちゅう日本には帰ってはいたんだけれど、大学時代の友達に会うと、僕が抱いていた日本のイメージとは何か違うと感じました。日本に住むシニアの人たちは異民族と言うのかな、能力も時間もあるのに、社会のために貢献したいという人が意外に少ない。僕自身は長年アメリカで健康食品の会社を経営していて、健康に関心があるので、日本で『長寿健康の会』を運営しようと、18人くらいで集まって何度かディスカッションもしたのですが、しっくりいかなかったんです。日本の人は健康を害したら医者にかかればいいという考え。しかし、僕は自分の健康は自分で守るべきだと考えます」。

会報誌発行、講演会、ビーチクリーニング

このように当初は日本でシニアのための健康の会を立ち上げる準備を進めていた鳥居さんが、日本のシニアとの考え方のズレを感じた末に、雲田さんの「何かやらなくちゃ」との呼びかけに賛同し、日本ではなく、ここアメリカのロサンゼルスでシニアの会を起こしたというわけだ。「チャンランポランの会」という名前は、「雲田さんが生真面目な人だっただけに、逆にチャランポランでいいのではないか」と逆説的な意味で命名したものだそうだ。

残念なことに雲田さんが2020年に亡くなったため、現在は鳥居さん、鶴亀さん、宮田さん、土田三郎さん、石口玲さんらを中心に定期的にミーティングを持ち、活動を継続している。活動内容については鶴亀さんが紹介してくれた。「会員同士の親睦会、以前アメリカで活躍されていたジャーナリストの北岡さんを日本から講師に招いた講演会、日本人学校の西大和学園の子どもたちとの交流会、さらに有志で海を綺麗にするためのビーチのお掃除などもやってきました。そして、年に4回、機関誌を発行しています。コロナのパンデミックになってからは、会員の方たちに情報を提供するために臨時号も出しました」。

機関誌『かわら版』は毎号1000部印刷されているほか、前述のように同会のウェブサイトからオンラインで読むこともできる。「当初、10号まで発行できれば目標達成」だと思っていたそうだが、現在7号まで発行。目標は何の問題もなく達成できそうだ。

どうやって会員や読者を増やしたのかと聞くと、リトル東京タワー、日系パイオニアセンター、サクラガーデン、南加庭園業連盟といったシニアが多い場所への配布から始め、やがて口コミで郵送してほしいとの問い合わせを受けるようになったという回答だった。会費も購読費も無料だが、送られた寄付金は印刷費と郵送費に当てている。運営メンバーは全員がボランティアだ。事務局や会報誌の編集、ウェブサイトの運営にはシニア世代ではない北村亜矢さんと佐伯和代さんがボランティアとして活躍している。

 
「人の役に立つ喜び」

 鳥居さんが「自分の健康は自分で守るべきだ」と言うように、仕事でも趣味でもボランティアでも、シニアになっても打ち込めることがあれば、健康な心身を維持する大きな要因になるに違いない。また、鶴亀さんが言った次の言葉が私の胸に深く響いた。「人々の役に立つことこそ大きな喜びです」。その言葉で私の記憶が一気によみがえった。25年ほど前、ある取材で知り合った鶴亀さんは当時、トーランスのYMCAで長年、資金集めのボランティアに従事していると話してくれた。そして、「自分のビジネスに携わる一方で、ボランティアする時間も作り出す。人の役に立つことが喜びであるだけでなく、自分を受け入れてくれて、生かしてくれている社会に還元するという意味で、ボランティアの意義は大きい」というような話をしてくれた。人の役に立つという意味では、情報やイベントの場を提供するチャランポランの会は、シニアたちにこの上もなく役に立っているはずだ。

さらに今後はシニアの会員対象にスマートフォンの勉強会も開催していくとのことだ。「スマホさえ扱えるようになれば、色々な動画を見ることができ、zoomのミーティングにも参加できます。私たちの目的はシニアが明るく元気に前向きに暮らすことを支援することです。コロナの影響もあり、スマホが扱えないシニアにとっての世間は狭く限られています。そこで勇気を出していただいて、学んでやり始めれば実際は大したことではないということを実感していただきたいです」と鶴亀さんは話している。

鳥居さんは在米歴58年目、鶴亀さんは55年目を迎える。彼らは私にとってもアメリカ生活の大先輩だ。今後もアメリカで暮らすシニアのために末長く活躍されることを願っている。

 

チャランポランの会ウェブサイト:http://charanporanusa.com

 

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紆余曲折の末、リージョナル航空の機長になった藤田尚弥さん

30歳を前に家族連れで航空留学

「もし、あの時決断していなかったら、今でも日本の空を飛ぶ飛行機を見上げて『あの時やってたら今頃あそこにいたかもなあ…』と心の中でつぶやいていたと思います」と話すのは、アメリカのリージョナル航空会社、スカイウエストエアラインズで機長を務める藤田尚弥さんだ。シニョリティー(社歴)が人事判断の基準となるアメリカの航空会社だが、藤田さんの同社でのシニョリティーの順番は、全社に現在5262人いるパイロットの中で1451番目。現在のようなパンデミックの中にあっても「この会社にいる限りおそらく解雇の確率はほぼないですし、今でもかなりの便数を飛んでいます。パンデミックの前、他の航空会社に転職すればいいのに、と友人に言われたりもしました。しかし、そうすればシニョリティーが下がってしまい、またやり直しです」と藤田さんは話す。彼がそれだけ仕事の安定にこだわるのは、航空業界も含めて世界的な不安定期であること以前に、パイロットになりたいという夢を実行に移してから、今に至るまで紆余曲折の道のりを歩んで来たからだ。

「子どもの頃からの夢だったパイロットには医者や弁護士になるような賢い人しかなれない、と諦めていたので、大学を出て名古屋でサラリーマンをして結婚もして子どもも生まれました。しかし、ある時、飛行機の教官になるという知り合いのフィアンセの年齢が31歳だと聞いて、当時28歳だった自分は、『だったらまだ遅くないのでは』と思い始めたのです」。そうなると、航空留学が頭から離れなくなった。そして、留学経験があるオーストラリアを目的地に定め、妻を説得し、1歳になる長男と二人目をお腹に抱え、家族で海を渡った。現地のフライトスクールで学び、その学校に教官として就職する約束を取り付けたものの、1999年中頃、オーストラリアの航空業界を不況が襲い、約束は白紙となってしまった。そこで、「ITバブル」の時代を迎えていたアメリカに目を向け、一旦日本に帰国して学生ビザを取得してから、家族と共にサンディエゴに向かった。子どもは2人に増えていた。

サンディエゴのフライトスクールを修了後はその学校で最低賃金で働いた。「2001年の5月に労働ビザを取得しました。ただ、福利厚生がないまま、3歳と4歳の子どもを抱えて、アパート代と食費を払うのがやっという苦しい生活が続きました」。一方で、藤田さんの本命は別のところにあった。ロサンゼルス郊外のベーカーズフィールドの全日空のパイロットを養成するための訓練施設の教官として就職することだった。しかし、後少しで必要な飛行時間に達するタイミングでセプテンバー11が起こったために、全日空の訓練施設は採用を停止してしまう。

パイロット養成の教官として就職、まさかの全員解雇でエアラインへ

同施設がようやく採用を再開したのは2年後、2003年11月になっていた。書類審査、面接、実技テストに心理テストから構成される採用試験を受けた藤田さんは無事に合格。「全日空と言ってもアメリカの施設ですから、採用される人材はその多くがアメリカ人です」と藤田さんが言うように、60人ほどの教官の中で日本人は7、8人だったと振り返る。2004年1月、全日空の訓練施設の教官として晴れて勤務開始。グリーンカードも取得した。その頃には子どもたちも高校生になり、ベーカーズフィールドで自宅を購入、藤田さんは「エアラインのパイロットになりたかったが、ここで教官として全うしよう」と覚悟を決めていた。しかし、想定外の出来事が起こった。

「2013年の終わりに、その施設が翌年の3月で閉鎖されると言い渡されたのです。つまり、全員解雇です」。それまでの藤田さんの「教官として勤め上げよう」という覚悟は見事に打ち砕かれた。しかし、落ち込んでいる暇はない。「転職の申請書を40件以上出しました。しかし、どこにも引っかかりませんでした。ピストンエンジンの飛行機の飛行時間ばかり多くてジェット機の経験がないのがネックでした。こうなったら、教員免許を生かして、日本に引き揚げて教師をするしかないかもしれないとまで追い詰められました。

しかし、最後の最後に、3分の1以下にまで減ってしまう収入減ではありましたが、リージョナルのエアラインに採用されました。そこで1年だけ頑張って次にステップアップするからと妻の理解を得て入社したのです。実はその会社に今も勤務しています」。同じ会社で働き続けることでシニョリティーがアップし、入社2年半余りで機長にも昇格した。給与も訓練施設時代のレベルまで上がった。スカイウェスト航空を選んだのはアメリカで最大のリージョナル航空と言うこともあるが、一番の理由は48年の会社の歴史の中でどんな状況においてもパイロットを一切一時帰休や解雇をしたことがない、安定した会社だからだそうだ。

「息子たちは2人とも大学を卒業しました。アメリカで転職先がなければ日本に引き揚げることも考えていましたが、もし帰国していても、彼らは日本語学校に行っていなかったのでインターナショナルスクールに転入するしかないかなって思いましたが、そのような費用を払うお金はとてもないのでどうしようか考えていました」。子どもたちに日本語学校に行かせなかったのは、あえて日本人コミュニティーを避けていたからだとも。「サンディエゴでは、子どもだけでなく妻にも日本人同士の交流が必要かもしれないと、子どもたちを毎週土曜日の午前中にある日本語補習校に通わせ始めました。しかし、そこで感じたのは、日本を出てからも日本的な、皆と一緒でないといけないというような価値観でした。生活レベルがあまりにも違う生活を送っていた私たちは正直合わせることもできなく参ってしまい、日本語学校はすぐにやめてしまったのです」。

グローバルな視点から日本を見る

藤田さんは現在51歳。日本を出てから22年が経過した。このままアメリカの空を飛び続けるのだろうか。「数年前から妻が日本の生活が老後はいい、と言うようになりました。これまで僕の夢のために随分辛い思いをさせてきたので、今度は日本に帰って彼女に好きなことをさせてあげたい。そして僕自身は日本でも何かしら航空関係の仕事に携われたないいなと思っています。飛ぶ仕事があるに越したことないですが、日本では年齢的にも資格的にもなかなか難しいだろうと思うので、例えば、飛行機仲間が集まるバーを開くというアイデアも妻と話していて、そうなったら空港がある調布とか大阪の八尾が場所としてはいいんじゃないか、と」。

それでもまだ日本に引き揚げることを最終的に決断したわけではないと話す。「今の仕事が大好きなんです。ロサンゼルス空港から120マイル離れた自宅から、6時スタートの勤務に間に合わせるために、朝の2時に起きて真っ暗な3時頃に家を出ます。それでも少しも嫌だと思ったことはありません。また、今日も空を飛んで、あの素晴らしい景色を目にすることができるのだと思うだけでワクワクするからです」。

最後に「藤田さんは何人ですか?」という問いをぶつけた。「空を飛ぶ機会を求めてアメリカに来たわけでアメリカ人になりたいというわけではありません。でもアメリカで生活して日本を外から眺めたことで日本のことがよく分かるようになりました。敢えて言うなら、グローバルな視点から日本を見られる日本人、でしょうか」。藤田さんは丁寧に言葉を選びながらそう答えた。

 

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Kizuna 2020: Nikkei Kindness and Solidarity During the COVID-19 Pandemic

二転三転する営業規制下での取り組み — ヴィーガンレスランのオーナー、中尾昭さん

「以前と同じことをやるだけ」

オレンジ・カウンティーのハンティントンビーチ。フリーウェイからはかなり離れた、目立たないショッピングモールの、これまた奥まった片隅にヴィーガンレストランVegiLicious(ヴェジリシャス)はある。カレーやラーメン、神戸焼肉丼といった日本的な料理もメニューに並ぶ同店のオーナーシェフが中尾昭さんだ。ヴィーガンメニューの店なので、当然ながらすべての食材が植物由来で、しかもオーガニック。そのヘルシーでしかも中尾さん自らが愛情を込めて作る料理の数々が評判を呼び、恵まれない立地条件ながら、グルメ系ソーシャルメディアでは長らく五つ星を獲得し続けている。

しかし、2020年3月、オレンジ・カウンティーも新型コロナウイルスによるロックダウンに突入、レストランは、テイクアウトとデリバリーのみという苦しい規制を科せられた。ところがFacebookを見る限り、VegiLiciousは中尾さんと接客を担当する妻の亜津子さんとで、毎日変わらずに営業しているようだった。営業面での規制が科せられた中、前年度の売上を超えた月まであったと書いてあった。その秘密は一体どこにあるのだろうか。12月中旬に私は過去に2度取材させてもらったことがある中尾さんに電話で話を聞く機会をいただいた。ちなみにその時期、南カリフォルニアは2度目の厳しいロックダウンに突入した直後で、営業は再びテイクアウトとデリバリーだけに制限されていた。まず、中尾さんにサバイブするために何か新しいこと、特別なことを3月以降に始めたのかを聞くと彼は「まったく以前と同じことをやっているだけです」と答えた。

「お客様に幸せになっていただくための料理を、全メニュー、毎日作ってお出ししてきました。3月以降、レストランの中には一時休業したり、時間を短縮したり、またはメニューを絞ったりするところもありました。でも、うちは通常のメニュー、通常の営業時間で以前と同じように店を開け続けています。また、ソーシャルメディアでの発信も毎日続けています。さらに、5000名の顧客のメールアドレスにもニュースレターを配信しています。店で食事していただいたお客様にはアンケートをお願いしていているのですが、メールアドレスをご記入してくださるお客様が多いので、そのアドレスでリストを作成しています。ニュースレターを作成することには確かに時間を取られるのですが、我々のような小さな店では変わらずに営業していることをお知らせすることは不可欠なので、力を入れてやっています」。
 

常連からの「開けてくれてありがとう」

そうした「いつもと変わらぬ取り組み」が功を奏したのか、2020年の3月で6割も落ちた売上が、5月に3割減まで持ち直し、7月にはほぼ通常に戻った。さらに、8月はコロナ以前に設定した売上目標を達成し、9月から11月までは前年の売上を超えた。

「お客様には、いつも店を開けていてありがとう、とお礼を言われます。また、サンクスギビングの当日には、開業して8年目で初めて営業しました。こんな時期ですから、皆さん、家で料理する機会が多くなっていて、サンクスギビングの料理まで作るのは億劫なのではないかと思いました。それで、数人でもいいから喜んでくれる方がいたら嬉しいという気持ちで店を開けたのです。そうしたら思った以上にたくさんのお客様に来ていただけました」。中尾さんは終始明るい口調で顧客とのエピソードを話してくれた。

しかし、店内飲食が禁止になったり、屋外席が許可されたり、行政側の規制が二転三転することに振り回されて疲労感を感じることはないのだろうか、と素朴な疑問が浮かんだ。それに対して中尾さんは、「屋外飲食が許可された時期、多くの店が大きなテントを設置して、そこにテーブルと椅子を置き、さらにヒーターも置いたりするところが少なくありませんでした。でも、我々の店はそこまでしなくても、できる範囲でやっていればきっとお客様は来てくれるという確信めいたものがありました」と話す。

「今のような時期は何のためにレストランをやっているのかを改めて考える、いい機会だと思います。自分軸をしっかり持って、お客様に喜ばれる料理とサービスを提供していくのだという基本に立ち返るべきなのです。これからは心がない作り手はこの世界から退場しないといけなくなるはずです。そして、本物の商品を手掛けていかないと絶対に生き残っていくことはできません」。


アメリカで能力が開花した

中尾さんはもともと、日本では何度も全国優勝した社会人レスリングの選手だった。アメリカでは焼肉店のマネージャーを務めていたが、自身の食生活に肉より魚、魚より野菜を多く取り入れた結果、ヴィーガンな食材で一番体調が良くなることを実感。焼肉店を辞めて、自分の店を8年前に立ち上げたという経歴の持ち主だ。その時の信念は8年経っても少しも揺らぐことがなく、ますます確固としたものになっているようだ。

そして、ヴィーガンに出会い、自分の店を開けたアメリカという国が中尾さんに何をくれたのかと聞いてみた。「潜在能力を一気に開花させてくれました。日本でもお店をやっていましたが、やりたいことをやろうとしても出る杭は打たれてしまいます。アメリカでは自分の能力を発揮できる環境があります」。中尾さんのヴィーガン料理のファンとして、、この苦しい時期を乗り越え、より多くの人に中尾さんの料理を味わってほしいと願っている。最後にサンクスギビングディのようにクリスマスや元旦にも店を開けるのかを尋ねると、「いやあ、僕は日本人ですからね。元旦だけは休もうと思います」と答えた。
 

VegiLiciousウェブサイト:www.vegilicious-us.com

 

 

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Choices for Japanese People Living in America

アメリカに残る人々が日本に引き揚げない理由

子どもの存在、医療、言葉

移住したアメリカから日本に引き揚げた人々に話を聞き、さらに一度は日本に帰国したが改めてアメリカに戻ってきた人の回に続き、アメリカを終の住処と決めた人々にも彼らの決断について聞かせてもらった。

在米50年になる70代男性Tさん。アメリカで語学を勉強し、日本に戻ったら映画評論家になろうと思っていたと話す。しかし、渡米3年目、父親が亡くなった。「母親はすでに私がアメリカに渡る前に亡くなっていたので、親がいない日本にもう戻る理由はないという気持ちになりました。そこで勤め先にスポンサーをしてもらいグリーンカードを取得し、結婚をして、子どもが3人生まれました。若い頃は日本に帰りたいだとか深く考えることはなかったですね。それよりも子どもたちの教育にとって、日本がいいのか、それともアメリカがいいのかと考えたら、それはもう受験一辺倒の日本ではなく、自由なアメリカがいいという結論に至りました」。

年齢を重ねた後も、日本に帰ろうという気持ちが一度もよぎることはなかったのだろうか。「日本人がアメリカから日本に引き揚げるどうかを決める際の要因は3つあります。1つは子どもがいるかどうか。2つ目は医療や保険の問題。3つ目は言葉です。子どもに関しては、私たちの場合、子どもたち自身もアメリカでの生活を選択しました。医療の面では、私たちは65歳以上になってメディケア(政府による医療保険制度)と、サプリメンタルの保険に加入しているおかげで自己負担額を抑えることができています。医療費が高いと言っているのは、おそらく安価な日本の費用と比較しているか、もしくは薬を継続的に服用する必要がある人だと思います。薬はほとんど保険でカバーされませんから。次に言葉の問題に関しては、アメリカ生活が長くても、ドクターに細かい症状を英語で説明することは難しいです。それでも最近はほとんどの医療施設で通訳サービスを受けられるので助かっています」。

つまり、Tさんの場合、アメリカで老後を過ごすには特に大きな障害はないということだ。「ただ、家内がもし先に死んでしまったらどうなるだろうと考えることはあります。子どもたちの世話になるわけにはいかないので、日本に帰るかも? いや、その時は私の兄弟も皆いなくなっているだろうから、やはり日本に帰らないだろうな、と思います」。

続いてTさんの妻のSさんにも話を聞いた。彼女の考えはさらに明快だった。「日本への未練は一切ありません。日本に住みたいとも思わない。私は50年前にアメリカに来ました。その時に自由なアメリカの良さにすぐに魅せられました。こういう素晴らしい場所があったんだと感動しました。私は日本の地方の出身なので、子どもの頃からいつも隣近所の人に見られているという窮屈さを感じていましたから。また、母親の違う弟がいて、彼が家のことを面倒を見るという約束で渡米したので、日本に帰らなければいけないということもありませんでした。今では、ここでの暮らしが当たり前になりました。ただ、アメリカ生活で困ることと言えば、アメリカ人と同じようには英語を話せないということです。それでも文化サークルに通ってお仲間と交流したりすることで、少しは自分も輪の中に入っていると実感できます」。

夫妻は20年前にアメリカの市民権も取得した。その時に心の中で大きな区切りが付いたのだとSさんは振り返った。


望郷の念に勝るもの

次に「アメリカに残る理由」を聞かせてくれたのは25年の付き合いのある専門職の女性、Aさん。Aさんが語学留学を目的にアメリカにやってきたのは1973年。「英語を勉強したら日本に帰ろうと思っていましたが、ここでアメリカ人男性と結婚して、子どもも2人生まれました。でも、数年後、今から40年前に離婚したんです。その時、子どもたちを連れて帰国するということになりませんでした。まず、夫とは別れたけれど、近くに住む彼の家族にとても良くしてもらっていたこと、日本に子連れで帰っても、当時の日本ではきっと仕事も見つからないだろうと思ったからです。子どもたちは最初、日本語学校にも通わせましたが、シングルマザーで仕事が忙しく、彼らを土曜の朝に学校に連れて行く体力と気力が私自身になくて、結局、日本語は習得できませんでした。今になって思えば母親としての努力が足りなかったのだと反省しています」。

日本の母親が存命中は、子どもたちの手が離れたこともあり、帰国しようと思ったとも話す。「でも、私一人で母の世話をすることは難しいと躊躇してしまい、帰国に至りませんでした。母は6年前に91歳で亡くなりました。母が元気な時は一緒に旅行を楽しんだりしたのに、母が助けを必要とした時に自分本位な考えをしてしまったことが、今となっては悔やまれます。また、日本帰国の計画を同じ年代の友人に話すと、言われたのは『なぜ子どもたちが近くにいるのに日本に帰る必要があるの? 日本に帰ったら一人ぼっちになってしまうじゃない』という言葉でした。私は子どもたちと近所に住んでいて、足を怪我した時も彼らの世話になりました。友人は、そういう恵まれた環境なのに一人で帰国するのはおかしい、と」。

帰国を迷っていた時、子どもたちに話したこともあったそうだが、彼らは本気にはしていなかったようだとAさん。「息子と娘は、私にとってベストフレンドです。一緒にショッピングに行ったり、お料理をしたり、食事をしたりすることが私の一番の幸せなんです」。

前出のTさんは、アメリカ残留か日本帰国かを決める要因を3つ挙げた。メディケアの受給で医療費の心配はなく、専門職として英語も日本語同様に使い、さらに子どもたちと過ごす時間が一番の幸せと話すAさんに、日本帰国の理由は見当たらないようだ。ただ、最後に日本で恋しいものについての質問に、次のように答えた。

「古き良き日本が忘れられません。田んぼ、季節の花々、雨、よもぎ餅を作るためにヨモギの葉を摘みに行ったり、干し柿を吊るしたり、掘り立ての筍をいただいたり。こんな細かいことが懐かしくてたまりません」。それでも日本への望郷の念は、子どもたちと過ごす時間には代えられないのだ。

 

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