根川 幸男

(ねがわ・さちお)

ブラジリア大学外国語・翻訳学部助教授。1996年からブラジル在住。専攻分野は移民史・比較文化研究。最近は、ブラジルの日系・アジア系教育機関の形成史に関心をもっています。

(2007年3月 更新)

community en ja pt

ブラジルの日本人街

第1回 コンデ界隈-ブラジル最初の日本人街(1)-そのはじまり

サンパウロは坂の街である。セントロと呼ばれるダウンタウンを歩き回ってみると、その坂の多さに辟易する。なぜこんな坂の多いところに街をつくったのかと、思わずつぶやきたくなる。 ジョゼ・デ・アンシェタ神父をはじめとする13名のイエズス会士たちが、ピラチニンガの丘に聖パウロを守護聖人とする教化村を創設したのは1554 年の1月25日であった(FAUSTO, 1994, p.93)。丘(坂)の上に村をつくったのは、敵対するインディオたちの襲撃を恐れてのことである。以後、サンパウロは、この丘の上につくられた村を中心 に、坂を上ったり下りたりして発展していくこととなった。この村の位置は現在、パティオ・ド・コレジオと呼ばれ、サンパウロ第一の史跡である。このパティ オから、歩いてすぐのセー広場に入り、カテドラルの傍らをすり抜け、裁判所前のジョアン・メンデス広場を横切ってコンセリェイロ・フルタード通りに出てす ぐ、左側に急な坂道が現われる。コンデ・デ・サルゼーダス通りである(地図1・地図2参照)。ブラジル最初の日本人街は、この急坂の途中に誕生することに なる*。   この通りはサルゼーダス伯爵の名が冠せられているように、通りを入ってすぐ右側にかつての伯爵邸が存在しており、この丘陵に伯爵のシャカラ(荘園) が広がっていたという。この邸宅は、かつてここに集住した日本人移民たちが「…

続きを読む

community en ja pt

ブラジルの日本人街

はじめに

サンパウロ東洋街-その混沌の中に身を沈めているとき、めまいとともに何度も同じ疑問が頭をもたげたことがある。「なぜ日本人は海を渡り、地球の反対側のこんなところにまで自分たちの街をつくったのだろう?」 私は平素、ブラジルの大学で「日本語」や「日本文化」などの科目を担当している。ブラジル人学生たちとのやりとりで、彼らの理解の中にしばしば、日本人は閉鎖的だというステレオタイプ的なイメージを発見する。いや、日本人みずからも、「日本人はどうも閉鎖的で、おとなしすぎる」というような言説を振りまいているような気がする。そんな意見に対して、「いやそんなことはない。日本人が閉鎖的なら、こんな世界の果てまで来るはずがないじゃないか」という移民一世の反論を聞くこともある。 実際、倭寇や山田長政が活躍したというアユタヤ王国の例を引くまでもなく、日本列島に住む人びとは、中世から近世にかけてタイやベトナム、ルソンな ど東アジアの各地に日本人町と呼ばれる海外拠点を築いてきた。江戸時代の鎖国期をのぞいて、いやその鎖国期でさえ、私たちの先祖は海を渡って各地の人びと と交流してきたのである。 近代になると、この列島の人びとはさらにこの傾向を強めた。グローバルで急速に発展した交通のネットワークを通じて、新大陸をふくめた世界のあちこ ちに進出していくことになった。私たちの先祖が新大陸と交渉を持ったのはそう古いことではない…

続きを読む

この筆者が寄稿しているシリーズ