根川 幸男

(ねがわ・さちお)

ブラジリア大学外国語・翻訳学部助教授。1996年からブラジル在住。専攻分野は移民史・比較文化研究。最近は、ブラジルの日系・アジア系教育機関の形成史に関心をもっています。

(2007年3月 更新)

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海を渡った日本の教育

第1回 はじめに

私たち人間の生活において、教育はもっとも基本的な営みの一つである。教育する/教育されるという行為は、衣食住とともに、人間生活に深く結びつい ていると言える。それゆえ、地域や集団によって、ことばや文化を異にするように、教育にもまたさまざまな様式・地域性が生み出されてきた。 教育が人間生活の基本的な営みであるかぎり、教育は人間の移動とともに旅をする。グローバル化とローカル化が同時進行する世界において、人間の活動 は一国・一地域で完結するのではなく、さまざまな国や地域をまたぐ越境的な営みとなる。教育もまたそういった越境性を持つ人間の営みであり、その主体の文 化的特性が顕著に現われる活動の一つである。ここでは、それぞれの集団・地域の教育のシステムや様式、それを支える文化的特性などを「教育文化」と呼ぼ う。 日本人の近代的な海外移民は明治維新とともにはじまる。北海道、台湾、朝鮮、満州、南洋といった旧日本帝国の版図やハワイ、北米、中南米、オセアニ アなどに移民がひろがっていくとともに、日本的な教育文化もまた、それらの国・地域に越境、拡大していった。それらの地で、日本的な教育文化は、時には受 容され、時には摩擦を起こし、変容し、多様化していった。 日本的教育文化の越境についての研究では、近年さまざまな成果が上がっているが、ハワイ、北米、旧植民地を対象としたものが多く、中南米地域を対象 としたも…

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ブラジルの日本人街

第15回 (最終回) — 日本人街の現在と明日

サンパウロに行けば、「日本」に会える。サンパウロから約1000キロも離れた内陸ブラジリアの若者たちには、そんな共通認識がある。その「サンパウロ」は、ばくぜんと東洋街を指しているようだ。 今年2008年5月22、23日に行われた日本人カブキ・ロック・アーチスト雅(Miyabi)のコンサートには、筆者の教え子たちもブラジリアか ら駆けつけた。会場は東洋街エリアの中心の一つ、日本文化協会の大講堂だったが、チケットは1200席全席が二週間前に完売したという。文化協会前では、 コンサートの三日前から席取りのための長い列が見られたほどの大人気だった。地方から東洋街にやってきた雅のファンたちは、コンサートに熱狂した後の興奮 を持続させながら、東洋街で日本酒を試し、スシやサシミを味わい、「日本情緒」にひたったそうだ。彼らにとって、東洋街は想像の「日本」を具現するテーマ パークである。 コンデや東洋街などリベルダーデ地区の日本人街は、長らくブラジルの日本人・日系人が郷愁にひたる場であった。戦前は農村の日系青年がコンデ街のポ ロン(半地下式部屋)でうどんを食べて故郷を思い、また戦後はシネ・ニテロイで月遅れの邦画を観てガルヴォン・ブエノ通りを闊歩し銀ブラ気分にひたる1。言ってみれば、日本人の、日本人による、日本人のための場所であった。それが今、日系コミュニティのソトへ向かった、あるいはソトから入っ…

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ブラジルの日本人街

第14回 華人系・韓国系の東洋街進出

最近、サンパウロ東洋街でよく耳にするのは、「ここが日本人街だったのは昔の話。今は中国人や韓国人ばっかりになってしまった」という日系人の嘆きであ る。繁体字や簡体字の看板だけ見て歩いても、華人系商店の進出のいちじるしさがわかる(写真14-1)。実際、ブラジル日本文化協会の古びたビルの、交差 点をはさんで斜め向いに2005年に建設されたブラジル客家活動中心(地上4階・地下3階)のモダンな姿は、東洋街における華人系プレゼンスの増大を視覚 的にも象徴している観がある(写真14-2)。 筆者が髪をカットしてもらっているコンセリェイロ・フルタード通りの若い理容師さんも、広東出身の華人ニューカマーである。ポルトガル語は、挨拶程 度。日本のヘアカタログを指差して「これ」と言うと、うんうんと頷いてそれらしくカットしてくれる。シャンプーは少しポルトガル語をしゃべる義理の妹とい う女の子がやってくれる。仕事が速く、トータルで20分とかからない。値段は20レアイス(=約1200円)だから安くもないが、50~100レアイスも とるヘアサロンが多数存在するサンパウロでは高いとも言えない。あのポルトガル語でよくやっているなと思うが、見たところ客の三分の二は華人で、その他が 筆者のような日本人や非アジア系のブラジル人だ。腕がいいためか、けっこう賑わっている。 東洋街の中心ガルヴォン・ブエノ通りに比べ…

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ブラジルの日本人街

第13回 カンタレーラ街-消えた日本人街-

以前にも述べたように、サンパウロには、「日本人街」と呼ばれたいくつかのエリアがあった(本連載第5回ピニェイロス地区参 照)。戦前から戦中にかけては、「コンデ界隈」と呼ばれたエリアがもっとも規模が大きく、ついでピニェイロス地区、その次が市立中央市場(Mercado Municipal=メルカード・ムニシパル)の周辺で、通りの名を取って「カンタレーラ街」と呼ばれていた(地図5-1参照)。 カンタレーラ街には、かつてコチア産業組合など日系産業組合や個別の仲買商の販売所、各種日系商店、同仁会診療所、日系ペンソン(旅館・食堂を兼ね る下宿屋)などが集中していた。このエリアには、リベルダーデ地区やピニェイロス地区の日本人街のように核となる日系の教育機関があったわけでない。この エリアの特徴は、中央市場とそこで扱われる商品(主に野菜や生鮮食料品)にかかわる仕事に従事する日系人で賑わったことで、エスニック日系商業地区であっ たと言える。 ピニェイロス地区も現在、日本人街としての衰退がいちじるしいが、カンタレーラ街にいたっては、もはやその痕跡すらとどめていない。建物の建替えや 街路の名称変更もあり、すっかり様変わりしてしまっている。1950年代半ばにカンタレーラ街に住んでいたというI氏とともに、同エリアを歩いてみた。 地下鉄サン・ベント駅で降りて、ラデイラ・ポルト・ジェラルという急坂を下…

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ブラジルの日本人街

第12回 東洋街形成と一世リーダーたち(2) -水本毅-

「東洋街、東洋祭り、東洋市、鳥居の建立も、すずらん灯も、すべてミズモトの頭から出たんだよ…」 1973年から75年までサンパウロ市長を勤め、水本毅とともに東洋街を旗揚げしたミゲル・コラスオーノ元サンパウロ市長はそう語る。「新しいアイ デアがあると、黙っていられないらしくて夜遅くでも電話をかけてきた。おいミゲル、聴いてくれって…。そんな仲だったよ。ポルトガル語もずいぶん上手に話したよ」 東洋街のもう一人のパイオニア水本毅は、写真から見ると、角張った顔に大きなメガネをかけ、精力的で意志の強そうな表情をしている(写真 12-1)。前回紹介した田中義数(第11回へリンク)が小柄で軽快なイメージであったのに対して、水本は当時の日本人としては大柄で重厚な印象を受け る。親分肌の人物で、後輩の面倒見がよく、義侠心があり、企画力・行動力に富んでいた。このような性格から、「鉄の意志を持つ男」「コロニア庶民の旗手」 「リベルダーデの幡随院長兵衛」などと評された。 水本は、1920年、岡山県上房郡豊野村(現在の加賀郡吉備中央町)に生まれた。1929年、両親兄弟とともに渡伯。サンパウロ州内陸部のウニオンやバストスで、家族とともにコーヒーや綿づくりにたずさわった。ウニオンにいた頃、過酷なコロノ1生 活に加えて、水本は一家とともにさまざまな辛酸をなめている。自身はアメー…

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この筆者が寄稿しているシリーズ