根川 幸男

(ねがわ・さちお)

ブラジリア大学外国語・翻訳学部助教授。1996年からブラジル在住。専攻分野は移民史・比較文化研究。最近は、ブラジルの日系・アジア系教育機関の形成史に関心をもっています。

(2007年3月 更新)

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海を渡った日本の教育

第6回 女子教育(2)

前回は、戦前のブラジルにおける日系女子教育の開花について述べた(本連載第5回参照)。こうした女子教育機関の教育内容として特筆されるのは、知識・教養の教授とともに、日系女子としてのしつけ、礼儀作法の教育が重視された点であろう(写真6-1)。日伯実科女学校の創立者郷原ますえもサンパウロ女学院創立者の赤間みちへも、ブラジルで発行されたいくつかの著書があり、礼儀作法についてそれぞれ健筆をふるっている。 たとえば、筆者の手元にある郷原の著書『生活の知恵―礼法―』は、1959年に日伯実科女学校から発行された戦後のものだが、しつけ教育の傾向をよく表しているといえる。同書の「まえがき」には、まず、「本書は当国生まれの二世の方々の日常生活の手引をするために編集いたしました」とし、日系二世子女が対象であることを規定している。次に、「学校の生活」、「家庭の生活」、「社会の生活」、「およろこび及びかなしみ」、「男女交際の心得」の5項目に大別し、「あらゆる日常生活の実際に結びつけ、すぐ役立つことを主眼とし、またこれまでのような固ぐるしい礼法の形式にとらわれず、修身書の一部をもかねて編集してみました」(同「まえがき」)としている。 また、同書の内容を見ると、たとえば、親子関係について、「たらちねの親につかへてまめなるが人のまことの始めなりけり」という明治天皇御製歌を引き、「この限りなきご恩にむくいようとす…

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第5回 女子教育(1)

戦前から戦後にかけて、ブラジルの日系コミュニティには、「花嫁学校」と呼ばれる女子教育機関が存在した。それらは、移民の子女に裁縫や料理などの 技能を教授し、日本人女性らしい良妻賢母型のしつけを施す学校施設であったが、後には日本の女学校課程に準ずる高等女学部やポルトガル語部を併設し、総合 学園的な教育機関として発展したものもあった。 中でも、日伯実科女学校、サンパウロ女学院、サンタセシリア割烹学校の三つは、「三大花嫁学校」と呼ばれ、日系コミュニティ内では抜きん出たステー タスを有していた。これらの学校を卒業した女性たちは、コミュニティの指導者層の男性と結婚してその夫人となる例が多く、みずからも日系婦人組織のリー ダーシップをとる者が多かった。また、サンパウロ州内陸部の諸都市やパラナ州にまで、卒業生による学校開設が行われ、広いネットワークを形成していた。今 回は、現在もその後身機関が学校法人として存続しており、筆者の手元に比較的多くの資料が集まってもいる日伯実科女学校とサンパウロ女学院について書いて みたい。 日伯実科女学校は、1932年3月3日、アンナ・ワルドマン女史の経営する裁縫学校に郷原満寿恵が日本人部を設けたのがはじまりとされる(郷原, 1983, p.19)。そして、早くも同年5月5日には「日伯裁縫女学校」として独立し、タマンダレー通りに校舎を定めた。その後間もなくガルヴォ…

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第4回 小林美登利と聖州義塾

吉田松陰の松下村塾、福沢諭吉の慶応義塾、弘前の東奥義塾などの例を引くまでもなく、日本の歴史は連綿たる私塾教育の伝統を持っている。大阪大学医 学部の前身が緒方洪庵の適塾ということを考えると、官立学校もまた私塾の伝統の上に創られてきたことは否定できない。彼らこそ、日本的教育文化の一つの源 と言ってよいであろう。実際、ほぼすべてのブラジル日系教育機関も小規模な私立学校、すなわち私塾として出発した。 前回述べたように、「コロニア一の学校」として教師や設備の質を誇った大正小学校でさえも、教師一人、生徒三人、教室は一般家屋の間借りという私塾からはじまった(本連載第2回参照)。それゆえ、ブラジル日系社会では、限られた条件の中でさまざまな特徴ある学校を生み出された。小林美登利(こばやし・みどり1891-1961)の聖州義塾も、そんな特徴ある学校の一つである。 「聖州義塾設立趣意書」によると、「神は我母の胎出でし時より我を選び置き我を異邦人間の伝道者たらしめんとし給ふた」という使徒パウロの言を高ら かに引き、1922年9月7日ブラジル独立記念の日、聖州義塾は設立された。といっても、すぐに学校、教育機関として機能しはじめたわけではない。実際の 開講は約3年以上も後、一人目の入塾者カルロス堀岡の入った1925年10月からである。 創立者の小林美登利はプロテスタントの牧師・教育家だが、彼の閲歴を調べれば…

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第3回 大正小学校(2)

「大正小学校(1)」を読む>> 大正小学校をはじめ、戦前のブラジル日系教育機関の最盛期は1930年代である。コンデの坂下からサン・ジョアキン通りに移転した大正小学校は、次第に学校としての機能を充実させていった。 信濃海外協会(1922年創立)は1928年頃から長野師範学校卒業生をブラジルに留学させていた(二木, 1996, p.142)が、1933~34年には、柳沢秋雄、坂田忠夫、二木秀人の3人が現地の師範学校留学を命じられた。これは、ブラジル正規教員の資格を取ら せ、日系子弟の教育に任ずるためである(永田, 1996, p.154)。柳沢、坂田、二木の三人は、いずれも20歳を出たばかりで、1935年の両角貫一校長着任前後から大正小学校で教師を勤めた。給料は100 円(約500ミルレース)で、当時の日本の小さな学校の校長と同程度、破格の待遇であったという(パウリスタ新聞, 1975/10/02)。同校では、柳沢は陸上競技、坂田は野球、二木は校庭づくりと、各教師の指導により、課外活動も盛んになっていく。1930年代前 半、サンパウロ州内陸ゴヤンベからサンパウロ市に出、同校に学んだ二世の女性Iさんは、同校の教育について(ゴヤンベに比べて)「ベン・メリョール、ベ ン・システマチコ」(とてもよい、とてもシステマティック)だったと語った。こうして、同校は「コロニア一」と呼ばれ、ブラジル…

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第2回 大正小学校 (1)

坂の多いサンパウロの中心部に、ブラジルの日本人にとって特別な坂がある。 「おいジャポネース(日本人)、気をつけなよ。この辺りはドロボーばっかりだよ」   汗をふきふきその急坂を上り下りしていると、中年の男が声をかけて通り過ぎていった。昼間でもこの辺りは物騒である。「こんなところで日本人がウロウロしていると危ないよ」と、親切で言ってくれているのはわかるが、私はよっぽどその男の背中に、声をかけ返そうかと思った。 「この辺りは昔ジャポネース(日本人)ばかりだったんだよ…」 そう、このコンデ・デ・サルゼーダスの坂は日本人にとっては特別な坂なのだ(写真2-1)。サルゼーダス伯爵のお屋敷のあったこの通りには、100 年前に日本人が住み始めた。雨が降れば今でも通りが川となり、坂の下はすぐ水に浸かってしまう。日本人移民が住んだのはポロンと呼ばれるじめじめした半地 下の住居だった。それでも、ここに来れば、日本語で話す相手がおり、うどんが食える。坂下のグランドで野球の試合が行われることもあった。この坂道を中心 に「コンデ界隈」と呼ばれたこの付近は、ブラジルでもっとも早く日本人街として栄えたところだったのだ(地図3-1, 地図3-2参照)。 ブラジル最初の日系教育機関(「教育機関」と呼ぶには、あまりにも素朴な姿であったが)とされる大正小学校も、1…

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この筆者が寄稿しているシリーズ