根川 幸男

(ねがわ・さちお)

ブラジリア大学外国語・翻訳学部助教授。1996年からブラジル在住。専攻分野は移民史・比較文化研究。最近は、ブラジルの日系・アジア系教育機関の形成史に関心をもっています。

(2007年3月 更新)

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海を渡った日本の教育

第11回 北パラナ地方(2)

サンパウロ州境のカンバラからはじまった日系移民の北パラナへの入植は、同地方の開発とともに1930年代に広がりを見せ、日系教育もそれにしたがって拡大していった。ブラジル日系教育の統括機関であるサンパウロ日本人学校父兄会が1936年にブラジル日本人教育普及会改組され、会長に元外交官の古谷重綱が就任した。この普及会は、ブラジル国内に第1から第6支部を創設したが、第3支部に北パラナのカンバラ区、ロンドリーナ区、トレス・バラス区が入っている(ブラジル日本人教育普及會, 1937, p.47)。 トレス・バラスは、ロンドリーナの東隣に位置し、1932年に開発がはじまった。サンパウロ州のバストスやチエテと同じく、ブラ拓(有限責任ブラジル拓植組合=Sociedade Colonizadora do Brasil Limitada)によって、3万500ヘクタールの土地が購入され分譲された。ブラ拓は、日本人自作農育成のため、各移住地に病院、製材所、精米所、農業試験場、倉庫などのインフラを整備したが、中でも立派な学校を所有している(あるいは計画されている)ことは、移民たちにとって大きな魅力であった。その中心となる市街地は、移住地の発展を祈って朝日になぞらえ「アサヒ」と命名されたが、のちに日本語名を付すことへの考慮から、ブラジルの樹木名をとって「アサイ」としたという1。現在のアサイ市である。 このトレス…

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海を渡った日本の教育

第10回 北パラナ地方(1)

周知のように、ブラジルは世界最大の日系コミュニティを有し、その人口は約150万人とされる。日系人口はいくつかの地域に集中しているが、もっとも人口が多いのはサンパウロ州で、それに次ぐのが南隣のパラナ州である1 。同州内でも「北パラナ」と呼ばれる北西部に、日系人口が集中している。現在、ブラジルの「日本文化」プレゼンスで、もっとも熱いと言われるのが、この北パラナであり、ロンドリーナ(Londrina 人口約50万)、マリンガ(Maringá 人口約35万)という中核都市(地図1参照)を中心に、強力なインテグレーションを持った日系コミュニティが存在する(「ブラジルの日本人街」第10回 参照)。 この地方の日系人は戦後、政界、財界、アカデミズムなどさまざまな方面に進出し、その粘り強さと信用から、多くの分野でめざましい活躍をするようになっている。例えば、1954年以降22名を数える日系連邦議員中、パラナ州選出は5名とその約四分の一を占める(NEGAWA, 2008, p.305)。連邦下院議員連続30年という偉業を成し遂げ、日本ブラジル議員連盟会長を長らく務めたアントニオ上野は、同州カンバラ出身。パラナ州の州都で、ブラジルの州都の中でもっともクリーンなイメージがあるクリチバ市の元市長カシオ谷口は、任期中全国市長好感度ナンバー・ワンに輝いたこともある(現在はブラジリア連邦区環境…

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第9回 レジストロの場合

サンパウロ州レジストロは、サンパウロ市から南西に約200キロ。パラナ州の州都クリチバに向かう国道116号線の半ばに位置する。大西洋に注ぐリベイラ川が大きく湾曲する地点で、川岸から西に向かって市街地が広がっている。 ここは、ブラジルでもっとも古い日系植民地の一つが開かれた地域である。1910年代初め東京シンジケート代表青柳郁太郎(1867-1943)らがこの地域の州有地を無償提供され、総称して「イグアペ植民地」と呼ばれるレジストロ、桂、セッテ・バーラス、キロンボなどの植民地を創設した(地図1参照)。中でも、1913年にイグアペ郡ジュッポブラに、当時の首相桂太郎の名を冠した桂植民地が開かれたのが最初である。1908年の笠戸丸移民から5年後のことであり、サンパウロ市から南へ向かう鉄道(ジュキア線)はまだ通じず、この地域に到達するには、いったんサントスに出て沿岸航路をとり、川船に乗り換えてリベイラ川を遡るしか方法がなかった。 この桂植民地は、最初の在ブラジル日本人会1 である桂人会を1915年に組織し、子弟に対する教育でも先駆けをなした。1916年には、ブラジル最古の日系教育機関の一つである桂日語学校を開設している(日本移民80年史編纂委員会, 1991, pp.114-115)。『レジストロ植民地の六十年』(1978、以下『六十年』)によると、翌1917年にはブラジル学校も公認された…

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第8回 子どもと教員の生活世界(2)

サンパウロ市在住のYT氏(1933年生まれ)は、日系二世の建築家で、筆者の大切な友人の一人だ。外国語教育が禁止された時期に幼少期を送った人だが、日伯両語のバイリンガルで、氏とお話する時はいつも日本語である。そんな氏とある日、戦中期の教育の話をしていて、ふと「Yさんは教育勅語なんて習ったんですか?」と聞いてみたところ、「全部言ってみましょうか」と言って、「チンオモウフニ、ワガコウソコウソウ、クニヲハジムルコトコウエンニ、トクヲタツルコト、シンコウナリ…」とやりはじめた。今でも教育勅語を全部そらで言えるという。 筆者にとっては、二重の驚きである。一つは、氏が教育を受けた時期は日本とブラジルが国交断絶状態にあり、外国語教育が禁止されていたはずであること。もう一つは、ブラジルで生まれ育った「外国人」であるはずの氏が、父母の国の言葉とはいえ、60年もの後にまで教育勅語を暗証していることである。反動的とか、イデオロギッシュだとか、そういう陳腐な印象を越えて、不思議な感動を覚えたものた。 そんなYT氏の思い出に残る先生とは、サンパウロ郊外のモジ・ダス・クルーゼスで教えを受けたAS先生だという。 「AS先生は子どもたちに慕われていてね。奥さんもいい人だった。リベラルな考えを持った人で、自分の考えを押し付けることはなかったよ」と当時を回想する。これは「昔の人びとは皆よかった」式の回想…

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第7回 子どもと教員の生活世界(1)

バイリンガル教育の効能が喧伝される昨今、思い至るのは1930年代のブラジル日系児童・生徒たちの言語生活である。当時の多くの日系の子どもたちは、午前中はポルトガル語でブラジル正課の授業を受け、午後からは日本人学校に通う(あるいはその逆)というバイリンガル生活を送っていた。同じ校舎で、半日はポルトガル語、あとの半日は日本語という学校も少なくなかった(写真7-1)。 RY氏はサンパウロ州アリアンサ出身の日系二世。見事な日伯語のバイリンガルで、1930年代の子どもの頃に歌ったというガット童謡を紹介してくださった。ガット童謡とは、1930年代後半に有限責任ブラジル拓植組合(ブラ拓)によって組織された「ガット運動」の一環として作曲された童謡である。「ガット」とは 、ポルトガル語の「Gozar a Terra」の意で「愛土永住」を意味し、それまでの出稼ぎ的な移民方式から脱皮しようとする社会文化運動であった。RY氏が紹介してくださったガット童謡は、次のような「第二の故郷」というものである。 第二の故郷一、パパイヤママイニツレラレテ       妹ヤ弟トモロトモニ       オ夢ノオ国ヘ来マシタガ       今デハ嬉シイ故郷デス     &nb…

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この筆者が寄稿しているシリーズ