Sachio Negawa

Sachio Negawa is an assistant professor in the departments of Translations and Foreign Languages at the University of Brasília. An expert on Immigration History and Cultural Comparative Studies, he has lived in Brazil since 1996. He has fully dedicated himself to the study of learning institutions in Japanese and other Asian communities.

Last Updated March 2007

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海を渡った日本の教育

第15回 おわりに

約一年半の在外研究期間を日本で過ごし、久しぶりにブラジルに戻ってきた。1996年、筆者がブラジル渡航後に身を寄せた古巣であるサンパウロ人文科学研究所(通称「人文研」)で、この稿を起こしている。「ブラジル最古の日系教育機関」と言われるのはサンパウロ市の大正小学校だが、その校舎の跡地に現在のブラジル日本文化協会ビルが建ち、わが人文研は、そのビルの三階にある。

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今回は一ヶ月あまりの調査で、サンパウロ市から、州内陸部のトゥッパン、アラサツーバ、アリアンサ、プレジデンテ・プルデンテ、アルバレス・マシャード、州境を越えて北パラナのロンドリーナを周り、サンパウロに戻ってきた。ロンドリーナからサンパウロのコンゴーニアス空港までは飛行機で1時間足らず。ロンドリーナ開発の功労者氏原彦馬(うじはら・ひこま)氏が1929年にはじめてこの地域に向かった時、鉄道は州境近くのカンバラ止まりで、「目につく物は山の鳥たちと、猿の群れ位」という大森林の中をサンパウロから三日がかりでたどり着いたそうだ(沼田, 2008, p.6)。氏原氏は、英国系の北パラナ土地会社日本人部支配人となり、多くの日本人移民をこの豊穣の地に導いた(写真15-1)。

ぬかりなく
移民最初に
学校立て(沼田信一)

この句を詠んだ沼田氏は1932年に14歳で家族とともにブラジルに来た移民で、ロンドリーナ草分けの一人。この頃には日系植民地はサンパウロ州、パラナ州各地に広がり、日本語教育がもっとも盛んになりつつあった。1910年代には、子どもの教育などほとんど考えられなかった日本人移民も、数家族集ると「学校」を建てるのが当たり前になっていた(写真15-2)。

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こうした学校教育の先駆けとなった日系植民地の一つが、今回訪れたアルバレス・マシャードである。同地は1917~18年という早い時期に開発された土地だが、「学校」ができるのも早かった。同地の第一支部小学校は、1919年12月に創立されている(サンパウロ日本人学校父兄会, 1934, p.6)。学校は閉鎖されて久しいが、現在も四方を見下ろす小高い丘の上に校舎が残っている(写真15-3)。

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この丘の上で、この地域で育った三人のお年寄りのお話を聞いた。K氏(1924年生)は、「あの山の向こうに自分らはいたんだがね。山を越えて、ここまで学芸会にやってきたもんだよ」と懐かしそうに語る。往時は丘の上の校舎から、あちこちの耕地から歩いて通学してくる子どもたちが手に取るように見えたものだという。旅しながら、移民のライフヒストリーを採集していると、無数の「小さな物語」が存在するのが実感できる。

2008年のブラジル日本移民百周年前後に、日系移民に関するさまざまな出版物が発刊されたが、それらの中でも「百周年」以降の研究の出発点を示すものとして、『ブラジル日本移民-百年の軌跡-』(2010)をあげることができる。同書には、これからの「移民史研究」の流れとして、何十年史というような「大きな物語」から「小さな物語」へという方向が示されている(丸山, 2010, 75)。

筆者は、さらに無数の「小さな物語」をつむぎつつ、それらを「大きな物語」とつなげ、それら「小さな物語」から「大きな物語」を検証・再構成していく作業の必要性を感じる。その中で、日本人が地球の反対側にある南米にまでやってきて、大森林を切り開き、学校を建て、子どもたちに日本語を学ばせた意味をあらためて考えてみなければならない。そして、戦中は適性外国語として禁止され、何度もブラジル官憲の妨害を受けながらも、継承されてきた日本語・日本文化の意味が問い直されなければならない。

例えば、日本人移民の中心地であったサンパウロ市の大正小学校や聖州義塾という日系教育機関に学んだ子どもたちのことを考えてみるだけでも、多くの研究上の課題に直面する。第二次大戦後はさらに都市化が進み、日系人の多くがサンパウロ市に進出したため、同市にあった教育機関に学んだ人びとの多くが日系社会のリーダーとして活躍することとなった。彼らはいずれも二言語(バイリンガル)・二文化(バイ・カルチュラル)人として才能を発揮している(写真15-4)。

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1930年代になると、子どもたちは、午前中は公立校でポルトガル語、午後は日本学校で日本語という言語的に二重生活を送っていた。大正小学校やアリアンサ小学校などいくつかの学校では、留学生出身教員や二世教員などバイリンガル教員によって授業が行われていた。結果的に意図せざる二言語(バイリンガル)・二文化(バイ・カルチュラル)教育が行われていたことになる。こうした二言語・二文化教育の萌芽は、戦後ブラジル日本語教育・二言語(バイリンガル)教育の先行実験としての性格を持ち、応用言語学や多言語教育にさまざまな素材や課題を提供する。

ソニー本社に技術研修に行ったこともあるというエンジニアのHK氏(1936年生)は戦中世代。ポルトガル語時代の大正小学校に学びながら、巡回指導で隠れて日本を習った。

「当時、先生はね。一枚一枚ばらばらにした教科書をズボンのベルトに細工をして隠して、シネイロ(ぞうり)履いて手ぶらでやってくるんだね。警察に質問されても、いかにも散歩中ですみたいな顔して。そして、今日はどこそこ、明日はどこそこと当番を決めて、けっして一ヶ所に決めずに子どもたちの家を順々に回って、日本語を教えていく。そんな時代だったね」

戦後、日本語教育が復活した時、多くの日本人元教員、二世教員たちが移民子弟教育の復活・発展に関与した。日系寄宿舎であるだけでなく、日本語教育やしつけも担った各地の奨学舎経営やブラジルで編纂された『日本語讀本』の普及、日伯文化普及会の発足やアルモニア学生寮建設など、戦前・戦中に培われた人材が、1950年代以降、多くの子弟教育分野で活躍することになった。

今、人文研のある三階からは、かつて大正小学校の校庭だったという文化協会の駐車場を見ることができる。この研究所は、日系知識人たちを啓蒙し、「日本人の移住先国であるブラジルの社会と文化を把握し、そのなかにおける日系社会の位置を確認し、そこから新しい生活と行動の理念を築き上げようという」学術的な問題を議論しあう「土曜会」が淵源である(サンパウロ人文科学研究所)。その土曜会に集った人士たち、河合武夫、半田知雄、宮尾進らは、いずれもこのシリーズで紹介した日系教育機関に学んだ移民の子たちであった。

1934年から8年間を大正小学校で学んだYAさん(1927年生)は、「大正小学校時代は、私の人生でいちばん楽しかった時期でした」と流暢な日本語で語る(写真15-5)。繰り返すが、30年代は、戦前日本語教育の黄金時代であった。その頃の校長は、はるばる信州諏訪からやってきた両角貫一氏であった。一刻者で「こわい先生」だったという両角校長も、職員室の窓から見える子どもたちの姿に目を細めていたのであろうか。

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歴史はめぐる。陳腐な言い方だが… 資料が山と積まれた人文研の一室で頬づえをつきながら、筆者は、日本人街のあったコンデ・デ・サルゼーダス通りから、また市電の通っていたコンセリェイロ・フルタード通りから、ガルヴォン・ブエノ通りを、サン・ジョアキンの坂道を、三々五々歩いて通学してくる子どもたちの姿を想像してみるのである。 

* * *

【付記】本シリーズを執筆するのに、多くの方々にお世話になった。資料収集のための調査では、国際日本文化研究センター、国際交流基金、早稲田大学移民・エスニック文化研究所、同志社大学人文科学研究所の研究費を利用させていただいた。また、快く在学研究に送り出してくれたブラジリア大学外国語・翻訳学部の同僚諸氏、サンパウロでの足場として利用させていただいたサンパウロ人文科学研究所、ブラジル日本移民史料館の皆さん、ロンドリーナの生き字引沼田信一氏ほか数え切れない多くの方々にご協力いただいた。いちいちお名前をあげることはできないが、この場を借りて感謝の気持ちを伝えたい。

* * *

参考文献

沼田信一(2008)『信ちゃん昔話・北パラナ国際植民地開拓五大物語(一)』

丸山浩明編著(2010)『ブラジル日本移民-百年の軌跡-』明石書店

サンパウロ日本人学校父兄会(1934)『サンパウロ日本人學校父兄會々報』第2号

サンパウロ人文科学研究所「土曜会からサンパウロ人文科学研究所、そして現在へ」
http://www.cenb.org.br/cenb/index.php/articles/display/27 (2011年8月1日アクセス)

 

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海を渡った日本の教育

番外編1-フィリピン・ダバオ

「ミンダナオの山の中でね、いきなりその人にばったり出会って、「私はアイノコです」なんて日本語で言うんだもん。びっくりしちゃったよ」
 
フィリピン・ダバオ在住の日本人実業家のYA氏は、Aさんという一人のフィリピン日系人との突然の出会いをそう語る。当時はジャーナリストで、ミンダナオ島山岳部に出没する新人民軍(NPA)などゲリラの活動を追っていた。YA氏は、その時はじめてフィリピン日系人なるものの存在を知ったという。

ダバオは、ミンダナオ島にあるフィリピン共和国第三の都市。フィリピン南部の政治・経済の中心であり、周辺のリゾート地へ向かう観光基地でもある。20世紀のはじめ、太田恭三郎に率いられた日本人移民労働者たちがここに入り、アバカ(マニラ麻)栽培を発展させた。太平洋戦争直前の1940年には、在留日本人は約2万人。外南洋最大の日系社会を形成し、13の日系小学校が存在していたとされる(天野, 1990, p.64; 小島,1999, p.181)。ダバオ日本人移民とその子どもたちの大戦をはさんだ想像を絶する苦難の物語は、多くのドキュメンタリーに描かれている1。戦後日本に引き揚げた移民たちのナマの証言は、『金武町史』や『宜野座村誌』など沖縄県の市町村史に採録されており、そちらを参照されたい。

今年2011年2月、筆者はダバオを訪れた。今回は、「海を渡った日本の教育」番外編として、ブラジルとパラレルに進行したフィリピン日系教育史のほんの一コマを、筆者が接触し得たダバオ日系の人びとの体験を通じて紹介したい。

ダバオの麻栽培に従事した移民たちは、まず何年もの過酷な労働を体験しなければならなかった(天野, 1990, pp.32-38)。やがて、それを耐え忍んだ者たちは土地を獲得し、家庭を築いていった。ある程度の経済的余裕ができると、子どもに「日本人」としての教育を施すことを考えるのは、ブラジルもフィリピンも同じである。ここでも「移民たちは教育熱心」であった。太田たちの入植の約20年後、1924年には、ダバオ市内にダバオ日本人尋常小学校、郊外にミンタル日本人尋常小学校が開校している。

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「移民たちは教育熱心だった。日本教育を受けさせたい、中学校や女学校にも進学させたいと強く願っていたようだ。私が通っていたフィリピンのミンタル小学校は、一、二年と三、四年の複式の二学級だった。金武の人もいたしヤマトンチューもいた。現地の女先生が一年から英語も教えていた」(金武町史編纂委員会, 1996, p.112)これはミンタル小学校に学んだ一移民子弟の証言である。

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ダバオでの一日、現地日本商工会議所のYA氏、S氏の案内で、ダバオ市内から車で約1時間のロス・アミーゴスの養老施設へMY氏を訪ねた。氏は足が不自由で車椅子生活だが、生年月日を訊ねると、「昭和7年2月29日生まれ」とはっきりとした日本語で話した(写真番外1-2)。父は沖縄本部村出身、母は現地のバゴボ族だった。

「父はしつけに厳しかった。朝早く起きると、「お早うございマース」って、おじぎしてゆっくりと頭をあげる。学校に行く時は「行ってきまーす」と言う。それで父は「行け」って言うんだね。兄弟でもフィリピンの言葉でしゃべっていると、「日本語で話せ」って言ってぶんなぐられた。悪いことをすると、二階から放り投げられた。お母さんも時々なぐられていた」

「バギオの家から学校まで6キロぐらい。歩いて通った。近所の子、大きい子といっしょになって通った。雨の日は、ジャガイモの葉を傘の替わりにして通った。アバカの葉を切ると怒られるからね。靴ははかずに裸足。何回も石に当って爪が離れて痛かったよ」

何キロもの道を裸足で通う。舗装道路なんかないから、晴れた日は土埃で、雨の日はドロドロ。大きな葉を傘がわりにして、ずぶ濡れになりながら歩く。でも、みんな似たり寄ったりだから、貧しいという感覚はない。ブラジル農村の移民子弟にも見られた通学風景である。先のAさんの「アイノコ」という言葉のように、混血児童が多かったのがブラジルや米国との違いであろう。前掲の天野氏の著作では、混血は「黒ん坊」「土人」と呼ばれ、子どもたちの間でいじめがあった記述があるが、MY氏は「(混血ということで)いじめられた記憶はない」という。子どもたちの人間関係(力関係)も、大人に負けず微妙で複雑ある。

学校でよかったこと、嫌だったことは何ですかとの質問に対して、「(学校で)厳しくされたのがよかった。厳しかったから、悪坊にならなかった」とMY氏は何度も繰り返した。

別の一日、戦後日本人が収容されたトリルを訪ねた。今もトリルに住み続けるATさんは、1931年生まれの79歳。日本からやってくる慰霊団などの通訳をしていたというだけに、日本語はしっかりとしている。

「その頃、バラカタンの家に住んでいてね、山(=麻農場のこと)に学校がなかったから、ダバオ小学校の寄宿舎に入りました。父は熊本県八代郡宇土の出身。厳しい人で、いつも「学校がいちばん大事」と言っていました。だから私は、一度も学校を休まなかった。弟と妹は(通学の)途中、馬に襲われて学校に行けなかった。家に帰ったら、学校から連絡が来ていてね。お父さんが怒って、夜になっても家に入れてもらえなかった。お母さん?お母さんはとてもやさしかった。でも、お父さんの言うことは、ハイ、ハイっていつも聞いていました」

「5年生になって、家の近くのカテガン小学校に移った。毎日お母さんに会えるし、こっちの小学校の方がよかった。家から学校まで7キロぐらい。朝5時に出て、いつも(学校に着くのは)ギリギリでした。」

「お裁縫が大好きでした。でも、キレイなお気に入りの裁縫道具を机の中においておいたら、その夜戦争が始まって、日本人は(収容所に)集められた。裁縫道具はそのまま。(1942年の)1月に日本軍が上陸してやっと解放されました」

1945年4月の米軍進攻前後からの日本人とその家族たちの悲劇は、いくつもの証言に明らかにされている。ATさん一家もこの地獄のような避難行を体験、父や弟を失った。いちばん下の弟の名は「ヨシカツ」といった。「日本の軍隊が助けに来た時に生まれたから、ヨシカツ。日本が負けたときに亡くなっちゃった」と、ATさんがしんみりと語るのに、かける言葉がなかった。そんなATさんは今、自分たちが収容された町で娘さんたちと幼稚園を経営している。

カリナンの村では、Mさん一家の三姉弟にインタビューをした。3人とも日本語はほとんど忘れてしまっているようだ。言葉が通じないところは、同行のミンダナオ国際大学のI先生が英語やビサヤ語をまじえて通訳してくれる。Mさん一家が住んでいたスバスタというところにも日本人学校があったという。日本にいるという長兄のKMさんはカリナンの小学校に通ったが、長姉のTMさん、四男のSMさんはこのスバスタに小学校ができたので、そこに入ったという2。子どもは「日本人ばかり」で、ヨシダ先生という男性が一人で教えていたそうだ。

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このスバスタの小学校は、Mさん姉弟のお父さんがお金を集めて建てたのだという。末弟のYMさんの語る学校建設の顛末というのは以下のようだ。

「最初いちばん貧乏な日本人のところへ行って、いくら出せるかって聞いて、それから全員のサインをもらうんだ。あとは材木屋を呼んできて、学校を建てはじめる。そうなるとみんなお金を出さざるを得なくなるんだよ」

いかにも戦時下、開拓最前線での手作りの学校建設の情景が伝わってくる。30人ほどの子どもがいたというから、それなりの規模の学校だったことがわかる。小林(2010)によると、ダバオ地区に軍政が施行された1943年前後、日系移民子弟教育も大東亜共栄圏建設の一環として位置づけられるようになり、教育内容も変化したという(p.289-296)。この山の中の学校でも、毎月曜朝には宮城遥拝を行ない、教育勅語を奉読していたらしい。ただ、せっかくつくった学校も、TMさんが2年生の時、ゲリラがやってきたので、(怖くなって)子どもたちが通わなくなったという。

こうした話題が出た後、TMさんに、「何でもいいですから覚えていることはないですか」とさらに訊ねてみた。彼女は何度もfogot(忘れた)と困った様子だったが、突然、意を決したように、「夕焼け小焼けで日が暮れて~、山のお寺の鐘が鳴る~」と歌い始めた。音楽好きのI先生が引き取って、「お手てつないで」と続け、私もあわてて「みな帰ろ~」と唱和した。最後にYMさん、TMさんの娘さん、お孫さんもいっしょになって、「カラスもいっしょに帰りましょう~」とみんなで合唱になった。少々調子っぱずれな合唱だったが、フィリピンと日本、70年前と現在を隔てた壁が一瞬崩れ、みんなが子どもに戻って無心に歌った心あたたまる合唱となった。「この人たちは間違いなく、同じ日本人の子どもなのだ」と感じた瞬間だった(写真番外1-3)。

カリナンの里に夕闇が迫り、私たちもダバオの町に引き上げることにした(写真番外1-4)。フィリピン、ダバオ―ここにもブラジルと同じように、近代日本とパラレルな時代を生きた移民たちの歴史があった。

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注釈
1. 柴田(1979)、城田(1980)、天野(1990)、大野(1991)、丸山(2008)など。
2. このスバスタの日本人小学校というのは、先のダバオ地区の13校中には名前が見えない。城田(1980)によると、「十二校あった在外日本人小学校」が「戦時中も授業を続け、昭和十九年(1944)米軍機による空襲がひどくなったため、各校それぞれ分散授業の止むなきに至った」(p.193)とあり、いくつかの「学校」が各地で開かれていたようだ。

参考文献
天野洋一(1990)『ダバオ国の末裔たち-フィリピン日系棄民-』風媒社
大野俊(1991)『ハポン-フィリピン日系人の長い戦後-』第三書館
金武町史編纂委員会(1996)『金武町史』第1巻(移民・証言編)金武町教育委員会
小島勝(1999)『日本人学校の研究-異文化間教育史的考察-』玉川大学出版部
小林茂子(2010)『「国民国家」日本と移民の軌跡-沖縄・フィリピン移民教育史-』学文社
柴田賢一(1979)『ダバオ戦記-南洋開拓の栄光と悲惨の歴史-』大陸書房
城田吉六(1980)『ダバオ移民の栄光と挫折-在留邦人の手記より-』長崎出版文化教会
丸山忠次(2008)『ダバオに消えた父』風媒社

【謝辞】今回のダバオ調査は、人間文化研究機構「日本関連在外資料の調査研究」の助成により可能となった。現地では、ミンダナオ国際大学の三宅一道氏、ミンダナオ日本商工会議所の天野洋一氏、住川氏、ダバオ日系人会のネルマ・サイトウさんらのご助力を得た。また、本稿執筆に当っては、多くの資料を宮城県在住の佐々木厚氏からご提供いただいた。文中紹介したインフォーマントの方々の他、多くの方々にインタビューにご協力いただいた。ここに記して厚く御礼を申し上げたい。

 

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海を渡った日本の教育

第14回 洋上小学校

戦前期から戦後期にかけて、海に囲まれた日本から外国への移民は、ほとんどすべてが海上輸送に拠っていた。移民船は海外渡航の主役であり、移民の誰もが船内生活を経験したものだった。

「洋上小学校」(船内小学校)は、移民船内で開校された小学校である。ブラジル移民は、家族移住が主であったので、主婦である女性や子どもたちが多く含まれ、航海中の賑わいや華やぎをあたえていた。洋上小学校は、小学校学齢期の子どもたちを対象とするものであり、航海日数のとりわけ長かったブラジル移民にもっとも多くの例が見られた。日本からブラジル、ブラジルから日本という、両国を往還した子どもたちの教育機会や日本的教育の連続性を考える場合、洋上小学校の存在は軽く扱うことはできない。

山田廸生氏の『船にみる日本人移民史-笠戸丸からクルーズ客船へ-』(1998)は、移民船から移民史をとらえ直した好著だが、移民船らぷらた丸の第23次航(1936)で開校された「らぷらた尋常小学校」を例に、洋上小学校について次のように紹介している。

「らぷらた丸」第二三次航では、高等科併設の「らぷらた尋常小学校」の開校式が、神戸を出て四日目に特三食堂1で行なわれている。開校式は開式の辞に始まり、『君が代』斉唱、宮城・伊勢神宮遥拝、校長訓示、教師紹介、来賓祝辞、閉式の辞と続く立派なもの。来賓には田崎・上塚の両名士、それに舟の事務長が招かれた。現職の大学学長と国会議員が祝辞を述べているのだから、洋上ではあるがなかなか豪勢な開校式だった。校長にはこの航海では輸送監督が当たっている。

学童数は高等科を含めて五○人。二学年が一組の複式学級で、授業は午前、教室は特三食堂である。学級数は四組だから、教師が四人必要なわけだが、よくしたもので、大勢の移民のなかには教員経験者がおり、子どもたちの指導を引き受けてくれた (山田, 1998, pp.182-184)。

移民船内の生活を伝える資料として、まず移民船客自身が執筆・発行していた船内新聞をあげることができる。先の山田(1998)も、船内新聞の記事を多く引用している。商船三井社史編纂室や日本郵船博物館から、いくつかの船内新聞のコピーを提供していただいた。これらの中には、移民船内で小学校の開かれた様子が生き生きと伝えられている(写真14-1)。例えば、「若狭丸小学校」、「さんとす村小学校」というように船の名前を冠し、船長や輸送監督が校長、船客の中から教師経験者を見つけて教師とし、ブラジル到着前には修了証書まで授与されていた。航海中たびたび行われた運動会でも、「一、旗取り競争 小学校児童」「九、椅子取り競争 小学女生徒」「十八、スプーンリレー 小学校児童」というように、小学生の活躍の様子が見られる(大阪商船, 1939)。

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らぷらた丸の22次航(1936年11月~1937年3月)の船内新聞「らぷらたタイムス」によると、校長は船長や輸送監督ではなく、他の乗船者から選ばれたようである。また、航海途中で、教員も交代している。やはり乗船者から選ばれた教育係は、徽章として白赤のリボンをつけることになっていた(大阪商船, 1935-1936)。らぷらた丸の25次航(1937年2月~1937年6月)では、小学校校長は輸送監督の森岡吉郎氏になっている(大阪商船, 1937)。洋上のことであり、何ごとも臨機応変の処置がとられていたようである。

ブラジル移民と他の地域への移民との違いは、その行程の長さである。神戸からサントスまでは、第1回移民の笠戸丸で52日、後述する辻小太郎の乗った備後丸で63日、1929年に就航した大阪商船の「優秀ディーゼル船」ぶえのすあいれす丸、りおでじやねろ丸で46日、1930年代末の「移民船の決定版」と呼ばれたあるぜんちな丸などの高速船でも34日の長さである。この長い航海を無事に、無聊をなぐさめ楽しみつつ、またブラジル生活の準備期間として有為に送るために、船会社も移民会社も、移民たち自身も、さまざまな工夫をしたのである。赤道祭や運動会、演芸会、仮装大会、ポルトガル語講習会、洋裁教室、青年団や婦人会の活動、そして小学校の開校など、陸地でのコミュニティ活動に準ずるものであった。笠戸丸では、すでに赤道祭が開かれ、沖縄の三線や空手踊り、新内節、相馬節、詩吟、尺八演奏、仮装行列などが演じられたことが知られる(細川, 1995, p.15)。

戦前の移民に当てられた三等船室は狭く、生活空間としても劣悪だが、時間は腐るほどあった。ただ、時間を持て余した元気な子どもたちが一日中船内を走り回るのも危険で問題がある。先生も都合よく見つかったものだと思うが、幼稚園も開かれていることから、洋上小学校は教育機関であるとともに、託児所的な意味合いが強かったという2。長い航海の間、子どもたちが楽しく安全に日を送り、親たちを安心させるために必要不可欠なものとして生れたサービスではなかったか。

1928年7月25日、移民輸送事務官として神戸出港の備後丸(日本郵船、写真14-2)に乗り込んだ辻小太郎(1903~1970)の手記『ブラジルの同胞を訪ねて』(1930)によって、乗船後の「備後村」立ち上げによる船内生活のはじまり、小学校開校までを見てみよう。

自分は一同を合して一団とし、自治体を組織して備後村と称し、船席によつて八区に別け、各区を七家族とし、区長兼村会議員一名を選出するため満二十歳以上の男子には選挙権並に被選挙権を与え、自分自身村長に就任し、助手を助役とし合計十名にて村会を組織し、一同に関することは此の会議の多数決によることとした。

次で十五歳以上三十歳以下の男子にて青年団を組織し、総務部、運動部、弁論部、語学部、風紀衛生部、編集部、催物部を置き、各分担を定めて責任を負はしめ、総務部は各部長を以て組織した。

(中略)小学校は教育に経験ある人三名を教員に任じ、他に学務委員一名を置いて之が世話に当ることゝした。

(中略)一等甲板で村会が開かれて、上陸問題の議せられてゐる時、反対側の甲板では青年団総務会が開かれて碇泊中の警備の問題、服装の問題が議せられ、前甲板には幼稚園が始つて可愛い子供が鳩ポッポをやり居り、後甲板では小学校が始つて、三組の生徒が一生懸命勉強して居り、衛生組合ではトラホーム患者の治療について全力を集注してゐるといふ有様であつた3 (辻, 1930, p.4-5)。

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ちなみにこの回の備後丸では、小学生の学芸会の他、3回の運動会、討論会、撃剣大会、演芸大会、活動写真会、カルタ会が催され、ブラジル国歌の練習も行われた(同書, p.18)。

こうした洋上小学校が、いつごろからはじめられたのかは、今のところ明らかではない。1917年のしあとる丸の「葡語講習会」の写真が残っている。屋外の甲板上で、背広姿の講師を前に着物姿で腰掛けてテキストを開いているのは大人の男たちである(国立国会図書館)。小学校の例としては、1924年のしかご丸ですでに実施されていたことが同船の船内新聞「トナンタイムス」から確認できる。しかご丸には、さんとす丸級のような特三食堂がなかったはずなので、小学校はやはり甲板で開かれていたのであろう。

洋上小学校の開設は、1920年代にはじまるブラジル向け移民の国策化の動きと何らかの関係があると想像される4。1921年、内務省社会局から海外興業株式会社および移民への補助として10万円が予算化され、「教養費」として「船内学校等航海中の教材、娯楽費」7821円が計上されている(飯窪, 2003, p.43)。「船内学校」が洋上小学校を意味するのか明らかではないが、1928年(2万5400円)まで「教養費」は年々増加しており、1924年には、ブラジルまでの船賃を日本政府が全額補助することになった。こうした動きの中で、洋上小学校もはじまったのではないか。

この洋上小学校の誕生によって、移民子弟の教育は、少なくとも大正末期に入ってからは、渡航によって断絶が避けられることとなった。日本的教育の実践は、出身母村の小学校から洋上小学校を経て、ブラジルの日系教育機関まで連続していたことがうかがえる。移民船は「人間を積む貨物船」と呼ばれ、ずいぶん過酷なイメージがつきまとうが、ある時期から洋上小学校という人間らしい営みも行われていた事実は、教育史の点からも見落とすことができないであろう。

注釈

1. 1925年に就航したさんとす丸級以降の大阪商船の各船に特別三等食堂が設けられ、画期的な公共空間となった。食事時以外は、出港後のオリエンテーション、船内自治組織の会議や行事、小学校やポルトガル語講座の教室などに活用された(山田, 1998, p.111)。この特三食堂という公共空間の出現によって、ある程度天候に左右されず、船内での教育・文化活動ができるようになったと考えられる。
2. 黒田公男氏のご教示による。
3. 引用に当っては、旧漢字を新漢字に適宜あらためた。
4. 山田廸生氏のご教示による。

参考文献

飯窪秀樹(2003)「1920年代における内務省社会局の海外移民奨励策」『歴史と経済』第181号政治経済学・経済史学会

国立国会図書館「葡語講習会(シアトル丸船内)大正6年6月30日」「ブラジル移民の100年」
http://www.ndl.go.jp/brasil/data/R/008/008-001r.html(2010/11/29アクセス)

辻小太郎(1930)『ブラジルの同胞を訪ねて』日伯協会〔石川友紀監修(1999)『日系移民資料集南米編14巻』日本図書センターに再録〕

「日本郵船所有の船舶」http://homepage3.nifty.com/jpnships/company/nyk_meijikoki1.htm(2010/11/29アクセス)

細川周平(1995)『サンバの国に演歌は流れる-音楽にみる日系ブラジル移民史-』中央公論社

山田廸生(1998)『船にみる日本人移民史-笠戸丸からクルーズ客船へ-』中央公論社

船内新聞
大阪商船(1935)「船内新聞:らぷらた丸21次航」
大阪商船(1935-1936)「船内新聞:らぷらた丸22次航」
大阪商船(1937)「船内新聞:らぷらた丸25次航」
大阪商船(1939)「船内新聞:りおでじやねろ丸第22次航」*
           *以上は、商船三井社史編纂室よりご提供いただいた。 
「トナンタイムス」(1924)(しかご丸船内新聞)

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海を渡った日本の教育

第13回 御真影・教育勅語・修身

戦前ブラジルの日系移民子弟教育の理念は、臣民教育、忠君愛国的教育であったとよく言われる1。では、臣民教育、忠君愛国的教育とはいかなるものであろうか。それは、御真影をいただき、教育勅語の精神を体得する「臣民」、すなわち天皇に対する忠誠心と愛国心を持つ「真の日本人」になることであったといえよう。

サンパウロの日本移民史料館に復元されている移民の掘建て家屋内には、天皇皇后両陛下の御真影が飾られ、異国に来ていかに苦労しようとも皇室への尊崇を忘れない日本人の健気さや忠君愛国の精神が表象されている。しかし、こうした御真影がどのようにブラジルに渡り、日系移民一般に普及したのかは、実はそれほど明らかではない。今回は、御真影や教育勅語、修身教育のブラジルへの移植・普及をめぐって、こうした日系教育の内実の一端に迫りたい。

戦前期ブラジルの日系植民地における学校の役割は、たとえば、次のように描かれている。

植民地における天皇崇拝の中心は「日本学校」であった。戦後になって「日本語学校」という呼称が一般化したが、戦前には「ニッポンガッコウ」と呼ばれた。(中略)日本学校は日本人会によって運営され、そこには必ず「御真影」が安置され、教育勅語が備えられていた。日本学校は子弟教育の場であると同時に、日本人会の集会場であり、青年団・処女会の活動の中心であり、さらには産業組合の事務所であったりした。新年の四方拝、紀元節、入植記念祭、天長節(運動会を伴う。戦後、メーデーの休日を抱き合わせ、またはそれに横すべりして、メーデーの日に運動会を天長節の祝祭の雰囲気で継続してきている)、卒業式などに際しては、生徒だけではなく、植民地の全員が参列して、皇居遥拝(「東方遥拝」とも言って、「日本遥拝」を意味した)、御真影への最敬礼、勅語奉読、君カ代斉唱などの儀式が、大抵の行事に先行して行われた(前山, 2001, p.55)。

ここでは、30年代の日系植民地コミュニティが極度に抽象化して描かれている。したがって、「日本学校は日本人会によって運営され」ることは多かったが、「そこには必ず『御真影』が安置され、教育勅語が備えられていた」わけではない。実際には時代差とともに地域差もあるはずで、日系植民地における日本学校のすべてがこのようであったとは考えられない。「御真影」や「教育勅語」の入手も、それほど単純ではなかった。

宮内庁書陵部に「御写真録」という文書が保管されており、明治以来の御真影(天皇・皇后、皇族の肖像写真)を下賜した記録が残されている。明治末年から第二次大戦期までの「御写真録」を閲覧してみたが、ブラジルの場合、日本大使館・領事館への下賜記録はみられるものの、学校への直接下賜の例を見つけることはできなかった。

この「御写真録」で注目されるのは、大正15(1926)年8月24日に外務次官出淵勝次から宮内次官関屋貞三へ宛てた「在墨日本人会ニ於テ御写真複写拝受希望ノ件」という記事である。メキシコ各地の日本人会では、従来、「御真影」がなかったため、「民間頒布ノ粗雑ナル石版画又ハ新聞付録画等ヲ拝シ来レル処数多ノ日本人会ニハ今少シク御真影ニ近似セルモノヲ拝シ度希望ヲ有スル趣ヲ以テ今般在墨公使館ヨリ別紙写ノ通申越有之候」(「大正十五年御写真録」第7407号、)とあるように、その下賜を希望する内容となっている。ここで面白いのは、「粗雑ナル石版画又ハ新聞付録画等」が民間に出回っていて、正式な「御真影」がない場合、いわゆる複写御真影を拝していたという事実である。ブラジルの日本学校にあったとされる「御真影」は、このような複写御真影であったろうか。

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また、西川(2007)には、1945年1月の日本人農民Yの「御真影の購入」という話が紹介されている(西川, 2007, pp.156-157)。ここには、ブラジルで「御真影」が出回っていたこと。それを売る者と買う者があったことが記されている。同じく1960年の「ミネのムラ」の日語学校の教室には、天皇・皇后両陛下の御真影とともに、ブラジル大統領の写真が掲げられていたという。当時の日系コミュニティのおかれた状況を象徴するようで興味深い(同, pp.136-137)。

「御真影」が臣民教育の図像的シンボルだとすると、その精神を示すのが「教育勅語」である。先の前山モデルでは、日本学校における「天皇崇拝儀礼」では、御真影とともに教育勅語がセットになっていた。親たちの世代が、日本ですでに教育勅語の洗礼を受けていただけに、子の世代へのその影響は自然であった。この連載の第8回で紹介したYT氏のように、教育勅語を諳んじる二世は多い。筆者が知るその人たちの生まれや育った土地がそれぞれ異なることから、ブラジルにおける二世世代への普及がいかに徹底していたかが想像される。

サンパウロ州内陸のバストスは、日本人自作農育成をめざし、1920年代末に開かれた国策的植民地であったが、農事試験場や病院とともに「日本並み」の教育施設をそなえていることが魅力であった。この地の小学校長が教育勅語をきちんと奉読できなかったために、父兄から糾弾されたという話も伝わっている。その校長とは、少年時に移民し、ブラジル日本人最初の弁護士となった木下正夫である。バストスのような国策的大植民地には、日本式の臣民教育が行われていたか、少なくとも期待されていたことの証左になる。ただ、それが何年頃のどのような層のニーズを反映したものなのか、一つのエリアにおいての時代差にも注意をはらわねばなるまい。

木下が寄宿し教育を受けたサンパウロ市の聖州義塾は、キリスト教精神にもとづくリベラルな教育機関であった(第4回参照)。同塾では、御真影や教育勅語の奉読はなかったという。サンパウロ州内陸のアリアンサ移住地出身のSM氏は、1940年に長野県の父の実家に「帰国」した。氏が地元の小学校に入学して、最初に驚いたことが、教育勅語の奉読であったという。氏の学んだアリアンサ第一小学校は、大正デモクラシーの洗礼を受けたリベラルな気風で、御真影を拝したり、教育勅語を奉読する習慣を持たなかったのであった。

いくつかの地域でこうした非臣民教育的な事例が見られたにせよ、前山(2001)も指摘するように、戦前移民の4分の3が1925年以降の10年間に集中的にブラジルに来た「新移民」であった(p.54)ことを考えると、当時の日本の臣民教育的イデオロギーの影響は否定できない。戦後の勝ち組・負け組の抗争で、勝ち組組織の急速な拡大をみると、その影響の強さが尋常ではなかったことが理解できる2。ただ、戦中徐々に強化されていく枢軸国出身者に対する当局の抑圧や制限に対する反発から、遠隔地ナショナリズムに傾斜する者も多かったであろう。

こうした教育勅語の精神を体得するのが修身科の目的であり、日本では明治中期以来、小学校教育に取り入れられ定着していった。『伯剌西爾年鑑』(1933)は各地の「日本学校」についてつぎのように説明している。

各校日本語部の授業様式は概ね日本式で六年制を以てし、中には高等科以上を設けて居るものもある。学科目は国語、修身、算術、地理、理科、体操、唱歌で、教科書は日本の国定教科書に依る為め、伯国で生れた児童に説明しても諒解されぬ事が多いという(伯剌西爾時報社, 1933, p.108)。

このように、30年代前半には、すでに多くの日系教育機関で修身が教授されていた。実際に1937年に編纂されたブラジル最初の日本語教科書『日本語読本』には、修身教科書の影響が多く見られるのも事実である。

1916年に開設されたもっとも古い日系教育機関の一つであるコチア小学校では、少なくとも30年代中頃、御真影と教育勅語を備えていた。当時の校長だったAS先生によると、立派な奉安庫もあったという。戦時中の1942年には、修身のお話などは各受持ち教師が学校裏の牧場を使用するという「新教授法」の採用が記録されている(石原,1978, p.56)。先の臣民教育の影響の強さをあらためて知るとともに、日系教育者の几帳面さ、「日本勝利」後に帰国した場合の子どもたちの不適応を心配する小心さもほの見えてくるようである。

戦後の日系リーダーの中には、ブラジル社会での成功をこのような修身教育のおかげだと賞賛する人も少なくない(根川, 2008, p.79)。日系団体によっては、現在でも、元日に教育勅語を奉読したり、掲示していたりする所も存在する。ブラジル日系教育における御真影・教育勅語・修身をめぐる問題は、日本近代史の文脈においても多くの問題を投げかけており、まだまだ追究していく必要がある。

注釈:
1.たとえば、野元(1974)によると、戦前ブラジルの日系移民子弟に対する日本語教育の理念は、「日本と同様、皇民を育成することにあり、教育勅語の精神を基調とした忠君愛国的教育であった」(p.17)とされる。

2. 勝ち組組織中最大の臣道連盟は1945年7月22日に発足、「積極的勢力拡張運動により、数ヶ月を出ずして支部数は六十余に達し、家族を含む会員総数は、当時の邦人の過半数を越える十数万人の一大組織となった」(宮尾, 2003, p.110)という。

参考文献
石原辰雄編著(1978)『コチア小学校の五十年-ブラジル日系児童教育の実際』サンパウロ(私家版)

西川大二郎(2007)『ある日本人農業移民の日記が語る-ブラジルにおける日本農業移民像-』サンパウロ人文科学研究所

根川幸男(2008)「大和魂とブラジリダーデ-境界人としてのブラジル日系政治家と軍人-」『移動する境界人-「移民」という生き方』現代史料出版pp.55-87

野元菊雄(1974)「ブラジルの日本語教育」『日本語教育』24号,日本語教育学会pp.15-20

前山隆(2001)『異文化接触とアイデンティティ』お茶の水書房

宮尾進(2003)『臣道聯盟・移民空白時代と同胞社会の混乱-臣道聯盟事件を中心に-』サンパウロ人文科学研究所

伯剌西爾時報社編(1933)『伯剌西爾年鑑・下』伯剌西爾時報社

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第12回 日系実業学校

ブラジルには実にさまざまな日系教育機関が存在したが、1930年代に農業学校や商業学校などいくつかの実業学校が設立されたことが確認できる。以前紹介したものの中では、日伯実科女学校やサンパウロ裁縫女学院など(本連載第56回参照)のほかに、レジストロ補修学校(本連載第9回参照)がそれに当たる。同校は別名「農業補修学校」と呼ばれ、日本語、ブラジル地理などの一般教養とともに農業技術など実業科目があった。サンパウロ州内陸部では、1938年には、ソロカバナ鉄道沿線のプルジデンテ・プルデンテ日本人会が、従来の小学校に加えて、プルジデンテ・プルデンテ商業学校を設立している(日本移民80年史編纂委員会, 1991, p.119)。

ブラジル移民が国策化していく時期1930年代には、アマゾン地域でも日本人の入植がはじまる。1930年に上塚司によって東京で設立された国士舘高等拓植学校(1932年に神奈川県生田村に移転)は、アマゾン河中流域パリンチンスにあったアマゾニア研究所に学生を送っていた。崎山比佐衛が1918年に東京世田谷に設立した海外植民学校は、1932年に同じく中流域のマウエスに海外植民学校分校を創立した。これらはアマゾン地域の開拓実務を学ぶ実業学校として機能した。

サンパウロ市ガルヴォン・ブエノ通りにあった聖州義塾(本連載第4回参照)は剣道を正課としていたことで有名であったが、その剣道の相手チームとして、しばしば「エメボイ軍」というのが登場する。この「エメボイ軍」というのは、1931年9月にサンパウロ市近郊(現エンブー市)に創設された「エメボイ実習場」(正式名称は「サンパウロ農事実習場」、ブラジル名は “Instituto de Prática Agrícola de São Paulo”)の剣道部である。今回はこのユニークな機関について紹介してみたい。

増田秀一の労作『エメボイ実習農場史』(1981)によると、同実習場は「或る程度の知識と技能を備え、永住目的をもった青年をブラジルに送って、移民社会の中堅的、指導的人材たらしめよう」という目的から、日本政府(特に拓務省)によって設立された教育機関である(同書, p.4)。実習場設立に当っては、当時の海外興業株式会社(以下、海興)社長であった井上雅二(1876-1947)の強い意向がはたいていた。実習場長として現地で実習生たちの育成に当ったのは、井上に抜擢された松本圭一(1886-1976)である。

松本は東京帝国大学農科大学を卒業した農学士で、海老名弾正から洗礼を受けた熱心なキリスト教徒であった。大学卒業後、宮崎県児湯郡茶臼原にあった岡山孤児院農場学校の責任者として赴任、実地教育に当った。1921年にジュネーブで開かれた第3回国際労働者会議に日本代表として出席、1924年には大原農業研究所の客員研究員としてペルー、チリ、アルゼンチン、ブラジルなどを視察し、南米開発を研究した。1926年に家族や茶臼原農場学校時代の教え子ら10家族60名とともにブラジルに渡航。ブラ拓嘱託などを経て、エメボイ実習場設立とともに場長に就任している。戦後、「養鶏の松本さん」としてブラジルの養鶏指導に多大な貢献をなしたほか、果樹の品種改良で功績をあげ、1966年にはブラジル農畜産界の功労者に与えられる山本喜誉司賞を受賞している。

この実習場は、ポルトガル語やブラジル史を含む二年間の育英事業が目的の一つであり、「学校」という名が付かなくても教育機関に分類してよかろう。エメボイの町から8キロ、総面積104アルケール(約250町歩)の敷地内に、「美麗を尽せる」と形容されたレンガ造りの建物が並んでいた(写真12-1)。場内には、実習農場のほか、経済農場、養豚場、養鶏場、教室棟、指導員宿舎、寄宿舎(南廸寮)、倉庫、道場、付属小学校があり、場内発電が始まってからは洗濯機なども備えていた。前掲書に「一九三○年代の邦人社会には、エメボイ実習場以外に青年教育を施す機関がなかった。(中略)それで、向学心に燃えていた青年にとって、実習生は羨望の的であったと言えなくもない」(増田, 1981, p.93)と記されるように、堂々たる農業教育機関であった。また、1934年4月には、実習場内に私立小学校「エスコーラ・ミスタ・デ・レサッカ」が創立され、翌1935年2月には、エメボイ日本語小学校が開校しており、経営母体は異なるものの初代教師は実習農場の三期生である丸山昌彦が勤めた(増田, 1981, pp.92-93)。このことから、同実習場は複合的な教育機関であったといえる。

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実習生は基本的に、日本国内で17~20歳位までの中等学校卒業程度の青年たちが募集されたが、不況のどん底にあった当時、日本全国から多くの応募者が集まり、36名が厳選された(うち32名が渡伯)。書類選考時の中で最も重要だったのが、「入学願」と「帰国ヲ要セザル証明書」であり(増田, 1981, p.55)、この実習場が永住者を対象としていたことがわかる。松本場長の意見で、ブラジル国内からも募集されたが、第5期の別科生をのぞいて入場許可されたのはわずかに第一期2名、第二期1名であった。その他篤志作業生という制度があった。

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第1期生は1931年7月東京の海興本社に集合、井上社長の激励を受け、明治神宮参拝後に宮内省で宮内次官関屋貞三郎の訓話を聞き、外相幣原喜重郎の官邸茶話会、夜は招待晩餐会に出席するなど各地で歓迎を受けた。翌8日には東京駅で真新しい場旗(写真12-2)を受け取り夜行で神戸へ。移民収容所で検疫・予防接種・乗船準備に5日間を送った後、7月14日埠頭を埋めた群集に見送られ、はなばなしくブラジルへ向けて旅立った(増田, 1981, p.59)。ただ、このように鳴り物入りではじまった第1期に比べ、第2期以降は実習生数も減り、神戸から直接出航したりと先細りの感はいなめない。

では、実習場生たちの実生活はどうであったか。先の増田書には「五時起床。六時朝食。夕六時、十時半消燈。概して午前七時頃ヨリ学科。午后農場作業-午后五時頃迄」(p.122)と記されている。学科としては、ポルトガル語、ブラジル歴史。地理のほか、ブラジル農業一般、畜産学、遺伝学、肥料学、数学、物理学、化学、測量などが教授された。戦前期のブラジルで、日本人はよく「農業の神様」と呼ばれたが、こうした教育機関におけるたゆまぬ努力と後継者育成の結果ともいえる。農業実習を学ぶ場であるから、衣はドロで汚れていても、心は錦の気分であったろう。食住においては当時の日本の日常生活と比較して、むしろ恵まれていたといえる。

「山に囲まれた単調な雰囲気のなかで、若者たちの精力の捌け口は何んであったか。それはスポーツであり、文芸であり、音楽であり、読書であった」(増田, 1981, p.181)とされるように、同実習場では、剣道だけでなく、柔道、野球、陸上、水泳などスポーツや文芸活動がさかんであった(写真12-3)。柔道や野球ではしばしば遠征し、水泳では、「サンパウロ横断水泳大会」の写真などが残っている。日系コミュニティのスポーツ活動は、30年代にさかんになり、各地で競技会が開催されるようになる。内陸部開発と鉄道・道路など交通網の整備、何よりも資本蓄積により、ある程度の生活の余裕が生まれたのが理由であろうが、一世、二世を問わず、独身青年たちの鬱懐を無視するわけにいかない。

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戦前期の農村社会を生きた老移民に聞いた話であるが、奥地の孤立したコミュニティ内で交際の相手は限られており、性の問題は常に切実さをともなっていたという。ましてや実習場には、時々は場外者を招いてのダンスパーティーや場外実習などがあったものの、ふだんは職員の数家族をのぞいて男性ばかりの合宿所のような世界であり、性の問題は日夜彼らを苦しめたようだ。そんな彼らにとって、横溢する若いエネルギーの捌け口がスポーツに求められたことは何の不思議もない。ただ、そのようなエネルギーの方向転換には限界があり、実習場でも場長の「排斥運動」や実習生間の「鉄拳制裁」といった事件がときどき起ったようだ。

日本直来の実習生が苦労したのは、ポルトガル語であった。ポルトガル語の授業では、厳格であったという日本人の妹尾講師のほかに、会話講師としてエメボイ町の郵便局長の息子アンドロニッコ・ペレイラ・バルボーザらが招かれた。当時ブラジルの教育機関では定期的に視学官が訪問し教育実践について監察していたが、同実習場ではオルランド・ブラーガ視学官が終始有益な助言を行っていたことが知られる(増田, 1981, pp.89-90)日系教育の歴史を発掘する場合、しばしば日系人の教育熱心さや努力が強調されるが、非日系ブラジル人の関与や協力は無視できない。

このようにユニークな教育機関であったエメボイ実習場だが、海興の「財政窮乏」を理由に1936年8月をもって閉鎖されてしまう。わずか5年間の短い期間であったものの、4期にわたり171名の卒業生が送り出された。彼らの就職先・進路であるが、農業のエキスパートとして、サンパウロ州を中心に北はペルナンブコ州、南はリオ・グランデ・ド・スル州までブラジル各地へ雄飛して行った。卒業生の「就職」については、次のように伝えられている。

「就職」という点では一応“形”がついたのであるが、ブラジルからの入場者の多くは、いわゆる“郷里”に戻って家業に携わったのであり、当時の奥地邦人集団地では、猫の手も借りたい時代であったから、家族並の待遇をうけるという“カマラーダ”(筆者注:雇われ農夫)の口はいくらでもあったし、その多くは農事の余暇に日本語の先生を頼まれたのであった(増田, 1981, pp.253)。

卒業生が日系コミュニティのインテリとして、日本語教師職に就いた者が多くいたことが興味深い。卒業生の中には、先の増田秀一(作家・俳人、俳号恒河)、大河原正恭(スール・ブラジル農協アチバイヤ農事試験場長)、深谷清節(世界学生柔道選手権ブラジル代表監督)、橋本梧郎(ブラジル植物学の泰斗)、斉藤広志(社会学者)らをあげることができる。同実習場が短命ながらブラジル日系教育史の中で光彩を放っているのは、彼らのような戦後日系社会を牽引していく指導者たちを排出した点である。

参考文献

日本移民80年史編纂委員会(1991)『ブラジル日本移民八十年史』サンパウロ、移民80年祭典委員会

増田秀一(1981)『エメボイ実習農場史』エメボイ研究所

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