ディスカバー・ニッケイ

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へースティング・パーク収容所から抜け出して (英語)

(英語)ヘースティングス・パーク収容所で思い出すことがあるんです。収容所の周りをフェンスが囲んでいて、その外に出ることは許可されてはいなかったのですが、実際はフェンスを飛び越えれば外へ出ることができたんです。それはとても簡単で、大きいジェットコースターみたいなものがフェンスのすぐ近くまできていて、それを登ってほんの8フィート程のフェンスを飛び越えればよかったんです。ちょっと行って、フェンスを飛び越えれば外に出れたんですね。難しかったのは、中に戻ってくることでした。周囲にたくさん人が居る頃合いを見計らい、雑踏にまぎれて密かに収容所に戻るんです。若者の多くは抜け出してバンクーバーで1日過ごし、そしてまた収容所へ戻ってました。外に出ても行く場所なんかないですからね。外へ出るまではいいんですよ。でもその後どこに行けるというのでしょう?見た目にもマイノリティーだとすぐわかるので、どこか公園に泊まろうにもすぐ捕まってしまうでしょうし、結局収容所に戻ることになるんです。抜け出して行った人が戻ってこなかった、というケースもあったかもしれませんが、でも彼らはどこへ行けたでしょう?それが難題なんです。


ブリティッシュコロンビア州 カナダ ヘイスティングス・パーク仮収容所 投獄 監禁 一時拘置所 バンクーバー (B.C.) 第二次世界大戦 第二次世界大戦下の収容所

日付: 2006年7月25・26日

場所: 米国、ワシントン州

インタビュアー: トム・イケダ

提供: Denshō: The Japanese American Legacy Project.

語り手のプロフィール

ヘンリー・シミズ氏は、1928年ブリティッシュ・コロンビア州プリンス・ルパートで生まれました。第二次大戦中シミズ氏は、ニュー・デンバーに強制収容され、終戦後、現在の居住地であるエドモントンへ移り住みました。医学部を卒業したシミズ氏は、整形外科医となり、その後、医療関係の数々の要職を務めました。また、1989年から2002年には、日系カナダ人リドレス基金の会長を務めました。画家でもあるシミズ氏は、強制収容所の体験を題材にした数多くの作品を手掛け、それらの作品は、様々な場所で展示されています。シミズ氏のコミュニティへの貢献は高い評価を受け、1999年全カナダ日系人協会より表彰を受けました。また、2004年には、アルバータ大学の卒業生に贈られる賞を受賞し、同年、カナダ勲章を受勲しました。(2006年7月6日)

ジョージ・カツミ・ユザワ

戦中のニューヨーク市での最初の印象(英語)

戦後ニューヨーク市に移住した二世の花屋。日系アメリカ人の公民権運動で活躍。(1915-2011年)

ジョージ・カツミ・ユザワ

真珠湾攻撃後の近所の同情(英語)

戦後ニューヨーク市に移住した二世の花屋。日系アメリカ人の公民権運動で活躍。(1915-2011年)

エリック・ナカムラ

父からではなく歴史の本を通して学んだ収容所(英語)

『ジャイアント・ロボット』の創設者・出版社社長

エリック・ナカムラ

マンザナー収容所でのスケボー体験(英語)

『ジャイアント・ロボット』の創設者・出版社社長

マイク・シノダ

日系人収容所に対する家族の見識(英語)

ミュージシャン、プロデューサー、アーティスト(1977年生)

マサオ・コダニ

強制収容所での思い出(英語)

ロサンゼルスの洗心仏教寺の開教使・緊那羅(きんなら)太鼓の共同創始者。

ジーン・ワカツキ・ヒューストン

収容所での最初の印象 (英語)

作家(1934年生)

ジーン・ワカツキ・ヒューストン

子供の視点で見る収容所の非日系人(英語)

作家(1934年生)

ジーン・ワカツキ・ヒューストン

恥ずかしくて話せなかった収容所の体験 (英語)

作家(1934年生)

ジーン・ワカツキ・ヒューストン

甥との対話から生まれた小説 (英語)

作家(1934年生)

ジーン・ワカツキ・ヒューストン

後に続く世代のために残す家族の記録 (英語)

作家(1934年生)

ジーン・ワカツキ・ヒューストン

収容所の話ではなく人間ドラマ(英語)

作家(1934年生)

藤間勘須磨

戦中は隣人にホテルビジネスを預け収容所へ (英語)

日本舞踊・歌舞伎役者 (1918-2023)

藤間勘須磨

日本とアメリカでの教え方の違い(英語)

日本舞踊・歌舞伎役者 (1918-2023)

アイコ・ヨシナガ・ハージック

別々に収容された家族(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)