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ハワイ出身の政治学者・教育者(1924年生)
(英語)カピオラニ・コミュニティ大学には料理人用の、1年制の小さなプログラムがありました。当時そのプログラムを運営していたのはシロー・マツモトでした。「シローズ・サイミン」のシローです。彼は今ハワイで「サイミンの王様」として有名です。
あるとき私の同僚がやって来て「各プラグラムの卒業率を見て下さい。シローのプログラムの卒業率が低いのです。沢山の生徒が卒業する前に中退しています」と言うのです。そこで私はシローのところに行ってその記録を見せて「シロー、いったい何があったんだ?」と聞くと、シローは「ああ、これがどうかしたの?」と言うので、私は「君のところの生徒は卒業できていないじゃないか」と言いました。彼は私を見て「私の仕事は生徒を卒業させることなのですか?それとも役に立つ仕事を彼らに見つけてあげることなのですか?私は彼らが良いシェフや料理人になって、その分野で良い仕事につくために訓練しているのだと思っていましたが」と言い、そして「だからロイヤルハワイアンホテルが私に『いま副料理長のアシスタントを探しているのだけど、誰かいない?』と電話をしてきた時、一番優秀な生徒を送り込むことができるのです」と言うのです。ですから卒業しないというのは(良い仕事についたということなので)、いいことだったのかもしれませんね(笑)。
シローは「彼らは十分な訓練を受けた。だから私が彼らを送り込むことが出来た。結局私達はそのために彼らを訓練しているのではないのですか?私達は彼らが有利な仕事につけるよう訓練して、そこに素晴らしいチャンスがめぐってくるのです」と言いました。私は「そうか!」と言いました。シローは私に大事なことを教えてくれました。卒業率でなく結果が大事なのだと。私たちが(コミュニティ大学で)やろうとしていることは何だったのか?この様に私はコミュニティ大学の教員からは色々なことを学びました。
日付: 2004年3月18日
場所: 米国、カリフォルニア州
インタビュアー: ミシェル・マキ
提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター
リチャード・ヒロミチ・コサキ博士(1924年9月14日に生まれ)は、ハワイ州ホノルルで育ち教育を受け、人生の大部分をハワイで過ごしています。第二次大戦中は、陸軍情報部(MIS)に所属し指導教官として務めたほか、アメリカ占領下の日本で通訳として従事しました。1948年ハワイ大学の学部課程を卒業、その後、ミネソタ大学で修士号と博士号を取得しました
博士課程終了後、ハワイ大学で教鞭をとるために再びハワイへ戻った彼は、コミュニティ大学の副学長、西オアフ単科大学学長、学術事務局の副局長、ハワイ大学マノア校学長代理、東海大学ホノルル校学長など勤めました。また、イースト・ウェストセンターの設立やハワイ大学のコミュニティ大学システムの確立にも貢献しました。彼の最も好きな教育哲学は「話してください、私は忘れてしまいます。教えてください、私は覚えます。やらせてください、私は学びます。」です。
コサキ博士はミルドレッド(旧姓:ドイ)と結婚し、1962年に一人息子ランドルを授かりました。(2004年3月19日)
日本の男女別教育(英語)
日系カナダ人二世。池坊トロント支部を設立。(1920年生)
ポートランドの日系コミュニティの外で育った経験(英語)
二世ビジネスマン。Made in Oregonの店をオープン。(1921年生)
仏教寺院と地方の学校で受けた教育(英語)
アメリカ最大のグラジオラス球根農園の設立者 (1914-2018)
日本語学校の閉鎖と日本人の強制送還 (スペイン語)
日系ペルー人画家 (1932-2016年)
戦後リマでの体験談(スペイン語)
ジャーナリスト(1937生)
学校と家で学んだ日本語(英語)
サンノゼ太鼓の共同設立者・支配人 (1951年生)
コレマツ裁判が現代社会に与えた影響 (英語)
弁護士 (1946年生)
スペイン語の学習(スペイン語)
『らぷらた報知』ジャーナリスト (1925-2014年)
日本語学校 (英語)
プロアメリカンフットボール選手。(1971年生)
アメリカ社会への同化 (英語)
音楽家 (1922年)
日本語学校(英語)
政治活動家 (1917 - 2004)
日本での学校生活
日本帝国軍とアメリカ軍両方へ従軍(1928-2008)
英語を覚える (英語)
花屋 (1916-2016年)
無我夢中で頑張った戦後
弁護士から開発業者へ(英語)
ハワイのビジネスマン、開発者