https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/290/
公民権運動の政治活動家(1922年-2014年)
(英語) 最初の48時間以内で約3000人の一世の人たちが連行されていきました。最初連れて行かれた人たちは確か、日本人ののビジネスマン、先生、そして武術講師でしたね。その時はまだ漁師は全員が連行されたわけではありませんでした。そしてその次のグループが16歳以上の全ての漁師で、みんな連れていかれたんです。
そしてもちろん新聞の見出しには、「ジャップを追い出せ!」とかいろいろと派手に扱われていました。そんな風でしたから、私たちは日本人はみんな出て行かなければならないだろうと思っていたんです。私はウールワース社のサンペドロにあるファイブ・アンド・ダイムの店で働いていましたが、サンペドロで働くアジア人や黒人、メキシコ人はほとんど居ませんでしたから、店はいつまで私をそこで働かせてくれるのかわかりませんでした。でもファイブ・アンド・ダイムでの仕事にはいつまでも就いていられるとは思っていませんでした。
他の町に住む日本人はみんな仕事を失いつつあったと思います。ロングビーチでもロサンゼルスでもどこででもね。もちろん私たちは互いに連絡を取り合っていて、友人同士で「私たちはこれからどうなるんだろうね。」と話してました。すでに新聞には、カリフォルニアから全てのジャップの立ち退きを、と書いてあったので、私たちは遅かれ早かれカリフォルニアから立ち退きに遭うだろうということはわかっていたんです。
日付: 2003年6月16日
場所: 米国、カリフォルニア州
インタビュアー: カレン・イシズカ、アキラ・ボック
提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター
ユリ・マリー・コチヤマ氏(旧姓ナカハラ)は1922年南カリフォルニアのサンペドロで生まれました。子供のころは、素朴で、信仰心が厚く、政治とは無縁の女の子でした。しかし、1941年12月7日にハワイの真珠湾にあるアメリカ海軍基地が攻撃され、多くの日系人がアメリカ政府によって収容所や拘置所に入れられたのをきっかけに彼女の人生が変わったのです。ユリは、人種差別が行われていたアメリカ南部にあった2つの強制収容所での生活を通し、日系人とアフリカ系アメリカ人の類似点を見出しました。
戦後は、日系二世部隊に所属していたビル・コチヤマ氏と結婚し、ニューヨークに移り住みました。1960年、コチヤマ一家はアフリカ系アメリカ人地域のハーレムにある低所得者住宅に引っ越しました。このことが、ユリ・コチヤマ氏を政治の世界に引き込むことになったのです。特に1963年の米国黒人開放運動の指導者マルコムXとの出会いが彼女に与えた影響は大きく、マルコムXはその2年後に暗殺されてしまいますが、その後も黒人開放、日系アメリカ人補償運動、ベトナム反戦運動、反帝国主義運動、不当収容への反対などの政治活動家としての長い人生を送っています。コチヤマ氏は、2014年6月1日、93歳で亡くなりました。(2014年6月)
戦後の差別の経験 (英語)
花屋 (1916-2016年)
ポストン収容所での記憶(英語)
(1930年生)アメリカと日本両国で育った日本人とアメリカ人とのハーフ
ポストンへの到着(英語)
第522野戦砲兵大隊とダッハウ強制収容所(英語)
(1918-2022年)ハパ第二次大戦退役軍人、パイロット
第442連隊戦闘団のハパ仲間(英語)
第442連隊戦闘団(英語)
ユダヤ系日系アメリカ人ジャーナリスト
日本での玻満子との出会い(英語)
アメリカ陸軍情報部隊員(1916-2013)
天野氏と会う(英語)
結婚と帰国(英語)
日系アメリカ人弁護士として拒絶される(英語)
連邦控訴裁判所での職に任命された初の日系アメリカ人(1934年生)
アジア系に対するステレオタイプ(英語)
俳優、活動家(1937年生)
仕事を探していた時に感じた差別 (英語)
日系二世、第442連隊戦闘団に所属し第二次世界大戦に従軍(1919 - 2015)
イタリア人の気前のよさ(英語)
上司の招きでハーバード大学の教員に(英語)
サンフランシスコで受けた差別
横浜出身の戦争花嫁(1937年生)