ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1536/

日本に移住して苦労したこと

始めに苦労したことは、やはり言葉の問題ですよね。日本に来て間もない頃は、もちろん、ポルトガル語しか話しはできなかったので、ただもちろん、あの、もちろん、日本語学校も通ってましたので、ひらがなとカタカナはある程度読み書きはできるレベルだったと思います。

ただ日本に来てすぐに公立の学校に入りましたけれども、日本は落第制はないので、ぼくの年齢で小学五年生にあたりましたので、まあ小学校に、五年生の授業もすぐに受ける形になったので、教科書を受け取っても、読めなかったところがなかなか、うーん、授業に付いていくのが難しかった記憶がありますね。その、言葉ですね。言葉の面で大変だったような気がしますね。

言葉の他にやっぱり習慣ですよね。ぼくたちの中では当たり前だと思ってたことが、日本に来たらそうじゃない。例えば、ブラジルの学校は、ガムもみんな持って行き、お菓子も持って行けば、お金も持って行きますし、自由な服装でしたし。まあ、その感覚で日本の学校に通って…始めは通ってましたので、周りの子達からは、ちょっとこの子変だねっていう感じでは、周りの子達は感じてたかもしれないですね。ただ日本に来る前と、あとまあ、来て間もなくはそういう指摘も受けるようなこともなかったので、自分の中では当たり前だと思っていたことが、もしかすると周りの子達にしたら、ちょっと嫌だったこともあったのかもしれないですね。


ブラジル 慣習 デカセギ 教育 外国人労働者 言語 在日日系人

日付: 2016年10月18日

場所: 日本、群馬県

インタビュアー: 小嶋 茂

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

1979年1月、サンパウロに生まれる。熊本出身の祖父母を持つ三世で、日系人の多いリベルダージ近くモンチ・ケメル地域で育つ。1989年、デカセギとして来ていた父に呼び寄せられ日本へ移住。以来、群馬県大泉町で暮らす。移住当初は、言葉の壁に悩んでいたが、日本語を学ぶにつれ友達も増え、今では日本語を活かしながらグラフィックデザイナーとしてブラジル人コミュニティをサポートしている。2009年に独立し、デザイン事務所経営。大泉町を紹介するフリーペーパーを発行。大泉町をブラジルタウンにする夢をもち尽力中。(2017年8月)

リチャード・コサキ

コミュニティ大学の教師として学んだこと(英語)

ハワイ出身の政治学者・教育者(1924年生)

リチャード・コサキ

教師としての報酬(英語)

ハワイ出身の政治学者・教育者(1924年生)

アート・シバヤマ

ペルーへの帰国が不可能ゆえに英語を習得(英語)

ペルー生まれの二世。第二次大戦中アメリカへ連行。(1930-2018)

アート・シバヤマ

アメリカ人二世と帰米との野球ゲーム(英語)

ペルー生まれの二世。第二次大戦中アメリカへ連行。(1930-2018)

キミ・ワカバヤシ

移住初期のカナダでの生活 (英語)

日系カナダ人一世。1931年にカナダへ夫と移住。(1912年生)

ミツオ・イトウ

日本語学校 (英語)

日系カナダ人二世。戦後日本で英国軍の通訳者。日系カナダ人コミュニティで活躍(1924年生)

シズコ・カドグチ

日本の男女別教育(英語)

日系カナダ人二世。池坊トロント支部を設立。(1920年生)

サム・ナイトウ

ポートランドの日系コミュニティの外で育った経験(英語)

二世ビジネスマン。Made in Oregonの店をオープン。(1921年生)

田中誠一

日本の音楽教育(英語)

新一世。北米和太鼓の第一人者。1968年にサンフランシスコ太鼓道場を設立。(1943年生)

アリス・スミダ

仏教寺院と地方の学校で受けた教育(英語)

アメリカ最大のグラジオラス球根農園の設立者 (1914-2018)

アルフレド・カトウ

戦後リマでの体験談(スペイン語)

ジャーナリスト(1937生)

ビル・ハシズメ

日本の教育を受けさせるようにという父の遺言(英語)

1952年まで日本からカナダへ帰国できなかった二世の日系カナダ人(1922年生)

バイロン・グレイサー

アートをサポートすることの重要性(英語)

イラストレーター、デザイナー

ロイ・ヒラバヤシ

学校と家で学んだ日本語(英語)

サンノゼ太鼓の共同設立者・支配人 (1951年生)

モニカ・小木曽

日本文化の継承-日本語学校(スペイン語)

(1969年生) アルゼンチン日系センターの前会長