ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1535/

デカセギに来ていた父に呼び寄せられ日本へ移住

ぼくが来たのは、1989年9月か10月頃だったと思います。これは仕事…父親の仕事のために日本に来ました。当時は、デカセギ労働者として日本に来ていました。

まず初めに、ぼくの父親が親戚と一緒に日本に来て、当時は、2、3年で戻るつもりではいたと思います。そんなに日本に長く滞在する予定はなく、ですので、まあ、少ない荷物で、最低限の荷物だけで日本に来て、父親だけデカセギに一度来て、ある程度お金が稼げたらそのまま日本に…あ、またブラジルに戻るつもりでいましたので、家族で初めは、ま、全員は来なかったですね。父親と親戚何人かだけ先に来て、しばらく日本に住んでみたら、ま、すごく日本は住みやすいところなので、みんなで来ちゃいなよ。ていう、誘いもあって、それからぼくと母親と兄弟、その他に親戚も何人か一緒に来ました。


ブラジル デカセギ 外国人労働者 日本 在日日系人

日付: 2016年10月18日

場所: 日本、群馬県

インタビュアー: 小嶋 茂

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

1979年1月、サンパウロに生まれる。熊本出身の祖父母を持つ三世で、日系人の多いリベルダージ近くモンチ・ケメル地域で育つ。1989年、デカセギとして来ていた父に呼び寄せられ日本へ移住。以来、群馬県大泉町で暮らす。移住当初は、言葉の壁に悩んでいたが、日本語を学ぶにつれ友達も増え、今では日本語を活かしながらグラフィックデザイナーとしてブラジル人コミュニティをサポートしている。2009年に独立し、デザイン事務所経営。大泉町を紹介するフリーペーパーを発行。大泉町をブラジルタウンにする夢をもち尽力中。(2017年8月)

児玉良一

日本人初の運転手

笠戸丸移民

児玉良一

戦時中に取り上げられた運転手としての仕事

笠戸丸移民

二木秀人

先輩に触発されブラジル移民を決意

一世教育者(1911年生)

二木秀人

ブラジルでの日本語教育

一世教育者(1911年生)

二木秀人

ブラジルでの50数年間を振り返って思うこと

一世教育者(1911年生)

ドリス・モロミサト

日系人のペルー社会への融合 (スペイン語)

詩人、沖縄系ペルー人 (1962年生)

ヘンリー・須藤

日本での学校生活

日本帝国軍とアメリカ軍両方へ従軍(1928-2008)

ヘンリー・須藤

アイデンティティ

日本帝国軍とアメリカ軍両方へ従軍(1928-2008)

天野美代子

天野芳太郎の日本でのビジネス

天野博物館館長 (1929年生)

田岡 功

パラグアイからのデカセギ者の現状

パラグアイ駐日大使(1943年生)

田岡 功

日本の若者に対して感じること

パラグアイ駐日大使(1943年生)

マサカツ・ハイメ・アシミネ・オオシロ

日本に対するイメージ:期待と現実(スペイン語)

ボリビア元駐日大使 (1958-2014年)

恩智 敏子 エレナ

日本語を知る重要性を更に認識(スペイン語)

在日日系ペルー人

恩智 敏子 エレナ

デカセギ者としての移動によっておこる家庭崩壊(スペイン語)

在日日系ペルー人

堀切 エドワード・徹

子どもの頃のアメリカへのイメージ

帰米二世(1929年生)