ディスカバー・ニッケイ

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強制収容、国外追放、弁護士 (英語)

(英語)私たち一家は、最初にサンタアニタ競馬場跡地で何ヶ月も生活し、その後、次の移送先であるアーカンソー州ローワーで4年過ごしました。収容所から解放された後は、父の輸入業が廃業していたという理由で、両親は国外追放の標的となりました。当時、既に4人の子を持つ親となっていた両親は、国外退去命令に異議申し立てをするため、サンフランシスコへ行きました。幸運にも、市民権専門の弁護士が両親に代わり抗議し、国外退去命令を覆すことに成功しました。この出来事は、まだ小さい子供だった私に弁護士には戦う術があり、現状を変える力があるということを教えてくれました。


アーカンソー州 カリフォルニア州 強制収容所 ローワー強制収容所 サンタ・アニタ強制収容所 一時拘置所 アメリカ合衆国 第二次世界大戦 第二次世界大戦下の収容所

日付: 2013年7月17日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: ショーン・ハマモト

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター; Japanese American Bar Association

語り手のプロフィール

ローズ・マツイ・オチ氏は、1938年12月15日カリフォルニア州ロサンゼルス東部に生まれました。第二次世界大戦の勃発により、当時まだ幼かったオチ氏は、一家と共にサンタアニタ競馬場跡地に強制収容されました。その後、一家は、当時の日系アメリカ人強制収容所の一つであったローワーに鉄道で移送されました。強制収容所から釈放されたオチ氏の両親は、国外退去を命じられましたが、市民権専門の弁護士がこれを覆し、両親を助けました。オチ氏は、一家の辛い体験を通して不当な扱いを知り、不正を正すことを学びました。

オチ氏は、人権や社会正義のために戦うことを目指し、法律の道に進むことを決意しました。カリフォルニア大学ロサンゼルス校で学士号を取得した後、カリフォルニア州立大学ロサンゼルス校で理学修士号を取得し、ロヨラ法化大学院で法学士を取得しました。彼女は、貧困層のための弁護士、「レジー」としてU.S.C. Western Center on Law and Povertyでキャリアをスタートさせ、共同登録弁護士としてセラーノ対プリースト裁判に携わりました。この裁判は、教育の機会平等のための法改正に挑んだ画期的裁判でした。以後オチ氏は、カリフォルニア州認定弁護士、司法委員、懲戒審査官を務め、ロサンゼルス郡弁護士会のための初代AA運営委員会メンバーにもなりました。

また、近年ではツナキャニオン日系人抑留所の保存に貢献し、同抑留所は議会からの歴史遺産認定を受けました。オチ氏は2020年12月亡くなりました。 (2020年12月)

ヘンリー・シミズ

カナダ政府による日本送還への圧力 (英語)

医者。日系カナダ人リドレス基金の元会長。(1928年生)

ベナンシオ・シンキ

同胞の援助と協力 (スペイン語)

日系ペルー人画家 (1932-2016年)

ベナンシオ・シンキ

日本語学校の閉鎖と日本人の強制送還 (スペイン語)

日系ペルー人画家 (1932-2016年)

ジョージ・アベ

出生地のもつ意義に気づいて (英語)

太鼓・尺八奏者(1944生)

ビル・ホソカワ

記者の責任 (英語)

ジャーナリスト (1915 - 2007年)

チエ・トミヒロ

話すことを阻んだ恥の意識 (日本語)

JACLシカゴ支部の補償委員会の委員長

ジョージ・ヨシダ

それでも、日本人 (英語)

音楽家 (1922年)

ジョージ・ヨシダ

スウィングを愛した二世の若者達(英語)

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クリフォード・ウエダ

兵役志願(英語)

政治活動家 (1917 - 2004)

ダニエル・K・イノウエ

真珠湾攻撃の記憶 (英語)

ハワイ州上院議員 (1924-2012)

ダニエル・K・イノウエ

FBIとラジオ (英語)

ハワイ州上院議員 (1924-2012)

ダニエル・K・イノウエ

父からの言葉 (英語)

ハワイ州上院議員 (1924-2012)

フランク・エミ

国家への忠義に関する質問 (英語)

徴兵忌避者。ハート・マウンテンのフェア・プレイコミティのひとり(1916-2010)

フランク・エミ

公平委員会 (英語)

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フランク・エミ

収容所の中での意思表示 (英語)

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