ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1091/

原爆直後の広島から学んだ恐ろしさ

広島の街の中に入ると、もう、死体の毛布で包んでですね、道端に置いてある。で、川の中には、まだ死体がまだ浮いているんですよね。はい。それはもうXXXX。これは爆弾が落ちたのではなくて、これ広島に地震かなんかあって、あんまり平らだから地震かなんかじゃなかったのかなぁって皆言ってたんですけども。いや、それからだんだんだんだんして、いや地震じゃないって。これは何かなって。で、翌日になって初めてその原爆っていうことをね、知って。

そう、歩くの、そうですね、半日かけて広島駅の向こうまで歩きましてねぇ。え~と、駅の名前、ちょっとここに記録がありますけれども、まで歩いて。広島の駅では、今でも憶えています。あそこで夕方になったかな、初めてあそこで握り飯を食って、えーちょっと曇ってたか、雨が降ってたかなと思うんだけど、どういうわけか、どういうもんだ、何だろうって、私どもの想像もわからない。本当に言葉に表せないほどの、本当に悲しいあれでした。

ですから、原爆の恐ろしさと言うのを、つくづくと体験して、原爆は二度とするもんじゃないって、自分でも人様には言いますけども。自分でもそう本当に心の中でも体験したのは本当に・・・。

で、後になってその部隊へ帰ってですね、広島に爆弾が落ちたと言うのは8月の6日だと。私どもが、その街を通ったのは、広島を通ったのは36時間後だったのですよ。ですから、直接の被爆のあれには私はあっていませんけれども、やっぱり一応、その頃のradiation(放射線)がね出て、体の影響が、私、今、肺気症(はいきしょう)という病気で、息が直ぐ切れるのですけれど、それはやっぱり原爆の影響だろうって、先生はおっしゃるのですけれども。


原爆 広島市 広島県 日本 第二次世界大戦

日付: 2008年6月17日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: 西村 陽子

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

ヘンリー・榮一・須藤氏は、1928年2月5日一世の両親のもと、ノースダコタ州ミノットに生まれました。父親と妹が亡くなった後、母はヘンリーと弟を連れて日本へ帰国しました。当時7歳のヘンリーは、ほとんど日本語がわからなかったため、クラスメイトに溶け込もうと必死に日本語の勉強をしました。17歳の時、教員より日本軍への志願を勧められ、また、経済的理由からも大学進学は難しいという判断から、軍に志願することにしました。基礎的なトレーニングを終えて、須藤氏は、スペシャルユニットとして、34人の学生の1人に選ばれましたが、人間魚雷による自爆攻撃ユニットであることは知らされていませんでした。広島に原爆が投下された時、須藤氏はこのユニットにいたため、原爆投下の36時間後には救護兵として広島に到着していました。彼は、広島へ救護に向かった最初の兵士の1人でした。

戦後、須藤氏は合衆国へ戻りました。母親が亡くなってからは叔父と暮らし、ベルモント高校へ入学しましたが、その3カ月後、朝鮮戦争に招集されました。通訳になるためにパーマー基地で韓国語を学び、朝鮮半島の第一線で尋問員となる予定でしたが、日本を通過した際に、日本で通訳となるよう要請を受けました。

陸軍から退役した須藤氏は、ロサンゼルス・シティ・カレッジで貿易を専攻し、オタギリ社に入社し、1993年の退職まで働きました。

須藤氏は、2008年10月17日、80歳で他界しました。(2009年1月30日)

マルガリーダ・トミ・渡辺

戦時中の救済会の役割

ブラジル日系移民の母 (1900-1996)

マルガリーダ・トミ・渡辺

警察での取り調べ

ブラジル日系移民の母 (1900-1996)

ヘンリー・シミズ

真珠湾攻撃の影響の少なさ (英語)

医者。日系カナダ人リドレス基金の元会長。(1928年生)

ヘンリー・シミズ

大戦中のカナダ在住の日本人漁師らの扱い (英語)

医者。日系カナダ人リドレス基金の元会長。(1928年生)

ヘンリー・シミズ

大戦中カナダ政府の許可を持って出版した邦字新聞 (英語)

医者。日系カナダ人リドレス基金の元会長。(1928年生)

ヘンリー・シミズ

大戦中カナダ政府によってサポートされた邦字新聞 (英語)

医者。日系カナダ人リドレス基金の元会長。(1928年生)

ヘンリー・シミズ

へースティング・パーク収容所から抜け出して (英語)

医者。日系カナダ人リドレス基金の元会長。(1928年生)

ヘンリー・シミズ

カナダ政府による日本送還への圧力 (英語)

医者。日系カナダ人リドレス基金の元会長。(1928年生)

ベナンシオ・シンキ

同胞の援助と協力 (スペイン語)

日系ペルー人画家 (1932-2016年)

ベナンシオ・シンキ

日本語学校の閉鎖と日本人の強制送還 (スペイン語)

日系ペルー人画家 (1932-2016年)

ジョージ・アベ

出生地のもつ意義に気づいて (英語)

太鼓・尺八奏者(1944生)

ビル・ホソカワ

記者の責任 (英語)

ジャーナリスト (1915 - 2007年)

チエ・トミヒロ

話すことを阻んだ恥の意識 (日本語)

JACLシカゴ支部の補償委員会の委員長

ジョージ・ヨシダ

それでも、日本人 (英語)

音楽家 (1922年)

クリフォード・ウエダ

兵役志願(英語)

政治活動家 (1917 - 2004)