ディスカバー・ニッケイ

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昭和天皇・終戦の詔書への反応 (英語)

(英語) 日本中が涙に暮れていました。天皇陛下が降伏を受け入れたと発表したのです。天皇陛下にとっても、公に語る(肉声を放送する)という・・・天皇陛下は雲の上の存在、一般の人の手には届かない存在でしたから。天皇は神であると私達は教えられました。その陛下がお言葉を発し、降伏するということに対して違和感を・・・それは恐らく私たち全員にとって、とてもやりきれない瞬間でした。彼らは当時陸軍に所属していた全員に・・・あの時は(泣く以外に)自分達の気持ちを表す方法はなかったと思います。

なぜなら・・・ ・・・思い返してみると、たとえ彼が「おい、君はアメリカ市民じゃないか」と言ったとしても、そんなに簡単なことではないのです。日本の地を守るために日本陸軍に入っている。それが主な理由なのです。敗戦を受け入れるのに、正直2、3日かかりました。その気持ちは困難・・・それを説明するのは今でも難しい。でも本当の気持ちは・・・それが本当のことでした。そんな風に育ちませんでしたから。


日本帝国陸軍 日本人

日付: 2008年6月17日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: ジャニス・タナカ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

ヘンリー・榮一・須藤氏は、1928年2月5日一世の両親のもと、ノースダコタ州ミノットに生まれました。父親と妹が亡くなった後、母はヘンリーと弟を連れて日本へ帰国しました。当時7歳のヘンリーは、ほとんど日本語がわからなかったため、クラスメイトに溶け込もうと必死に日本語の勉強をしました。17歳の時、教員より日本軍への志願を勧められ、また、経済的理由からも大学進学は難しいという判断から、軍に志願することにしました。基礎的なトレーニングを終えて、須藤氏は、スペシャルユニットとして、34人の学生の1人に選ばれましたが、人間魚雷による自爆攻撃ユニットであることは知らされていませんでした。広島に原爆が投下された時、須藤氏はこのユニットにいたため、原爆投下の36時間後には救護兵として広島に到着していました。彼は、広島へ救護に向かった最初の兵士の1人でした。

戦後、須藤氏は合衆国へ戻りました。母親が亡くなってからは叔父と暮らし、ベルモント高校へ入学しましたが、その3カ月後、朝鮮戦争に招集されました。通訳になるためにパーマー基地で韓国語を学び、朝鮮半島の第一線で尋問員となる予定でしたが、日本を通過した際に、日本で通訳となるよう要請を受けました。

陸軍から退役した須藤氏は、ロサンゼルス・シティ・カレッジで貿易を専攻し、オタギリ社に入社し、1993年の退職まで働きました。

須藤氏は、2008年10月17日、80歳で他界しました。(2009年1月30日)

フランチェスカ・ユカリ・ビラー

両家族への適応(英語)

ユダヤ系日系アメリカ人ジャーナリスト

ジミー・ムラカミ

日本で英語を教える(英語)

(1933-2014) 日系アメリカ人アニメーター

A. ウォーレス・タシマ

人種差別に遭うアジア系アメリカ人弁護士(英語)

連邦控訴裁判所での職に任命された初の日系アメリカ人(1934年生)

A. ウォーレス・タシマ

「個人の法律事務所には決して就職できなかった」(英語)

連邦控訴裁判所での職に任命された初の日系アメリカ人(1934年生)

エーシー・コオロギ

野茂が後続の日本選手に与えた影響(英語)

ロサンゼルス・ドジャース元アジア部門部長

キャロウェイ・久松 照美

子どもと日本語

横浜出身の戦争花嫁(1937年生)

パウロ・イサム・ヒラノ

アイデンティティの変化

(1979年生)群馬県大泉町在住の日系ブラジル人三世。デザイン事務所経営。

パウロ・イサム・ヒラノ

ニッケイという言葉について

(1979年生)群馬県大泉町在住の日系ブラジル人三世。デザイン事務所経営。

パウロ・イサム・ヒラノ

日本人へ帰化することについて

(1979年生)群馬県大泉町在住の日系ブラジル人三世。デザイン事務所経営。

二宮 正人

家の中で日本語を話すことを強要した父

サンパウロ大学法学部博士教授、弁護士、翻訳家(1948年生)

二宮 正人

戦時中に厳しく規制された外国語教育

サンパウロ大学法学部博士教授、弁護士、翻訳家(1948年生)

二宮 正人

子供の日本語教育について

サンパウロ大学法学部博士教授、弁護士、翻訳家(1948年生)

二宮 正人

日本人のアイデンティティを持ったブラジル人

サンパウロ大学法学部博士教授、弁護士、翻訳家(1948年生)