ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1067/

人間爆弾カミカゼの訓練であるとは知らされなかった (英語)

(英語) 当時私達は、人間爆弾カミカゼになるとは知らされませんでした。私達は単に若い特別グループを編成するために訓練をすると言われました。特別グループに選抜され、高い・・・・つまり昇進に有利だったのです。卒業するとひとつ上位の階級が与えられます。そして通常は召集されて6ヶ月から1年で一階級上がるのですが、特攻訓練を受けた者は時々、6ヶ月で二階級上がりました。

まあそれはもしかすると(?)に関係しているのかもしれません。多くの人たちが言っていましたから、本当にそうかもしれません。 でもそのことが何というか、モチベーションになったと言いますか・・・本当に・・・もし「君達は人間爆弾、人間魚雷になる」と言われていれば・・・わかりませんが・・きっと違っていたでしょう。でも私達はそうとは言われていませんでした。陸軍に入隊すると訓練が始まり、毎日、毎日、訓練が行われます。彼ら(軍人)は、良い兵士になり、そして絶対この戦争に勝つ!と言い続けました。彼らが16歳17歳の人間に及ぼす影響には驚かされます。なぜだかわからないのですが・・説得力があって、訓練を受けていた全員が本当に戦争に勝つと思っていたのです。


日本帝国陸軍 神風

日付: 2008年6月17日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: ジャニス・タナカ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

ヘンリー・榮一・須藤氏は、1928年2月5日一世の両親のもと、ノースダコタ州ミノットに生まれました。父親と妹が亡くなった後、母はヘンリーと弟を連れて日本へ帰国しました。当時7歳のヘンリーは、ほとんど日本語がわからなかったため、クラスメイトに溶け込もうと必死に日本語の勉強をしました。17歳の時、教員より日本軍への志願を勧められ、また、経済的理由からも大学進学は難しいという判断から、軍に志願することにしました。基礎的なトレーニングを終えて、須藤氏は、スペシャルユニットとして、34人の学生の1人に選ばれましたが、人間魚雷による自爆攻撃ユニットであることは知らされていませんでした。広島に原爆が投下された時、須藤氏はこのユニットにいたため、原爆投下の36時間後には救護兵として広島に到着していました。彼は、広島へ救護に向かった最初の兵士の1人でした。

戦後、須藤氏は合衆国へ戻りました。母親が亡くなってからは叔父と暮らし、ベルモント高校へ入学しましたが、その3カ月後、朝鮮戦争に招集されました。通訳になるためにパーマー基地で韓国語を学び、朝鮮半島の第一線で尋問員となる予定でしたが、日本を通過した際に、日本で通訳となるよう要請を受けました。

陸軍から退役した須藤氏は、ロサンゼルス・シティ・カレッジで貿易を専攻し、オタギリ社に入社し、1993年の退職まで働きました。

須藤氏は、2008年10月17日、80歳で他界しました。(2009年1月30日)