Junko Yoshida

Born and raised in Tokyo, Junko Yoshida studied law at Hosei University and moved to America. After graduating from California State University, Chico, with a degree from the Department of Communication Arts & Science, she started working at the Rafu Shimpo. As an editor, she has been reporting and writing about culture, art, and entertainment within the Nikkei society in Southern California, Japan-U.S. relations, as well as political news in Los Angeles, California. 

Updated April 2018

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The 150th Anniversary of Wakamatsu Colony, the First Japanese American Settlement on the North American Frontier

Part 2: Okei's California Home

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The story of the first Japanese woman to be buried in American soil emerges from history’s shadows.

The Wakamatsu Colony had collapsed and the pioneering dreams of the Japanese immigrants were shattered. The once-hopeful colonists dispersed, some deciding to return to Japan, while others chose to stay in California.

A neighboring farming family named Veerkamp purchased the site of the colony in Gold Hill, and hired some members of the former settlement to stay on for work.

The Veerkamps retained Matsunosuke Sakurai, a former Aizu samurai. Also staying on was a woman named Okei, who had …

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The 150th Anniversary of Wakamatsu Colony, the First Japanese American Settlement on the North American Frontier

Part 1: Pioneers Who Brought Their Hopes and Dreams

This year marks the 150th anniversary of the first Japanese American settlement on the North American frontier

If not for the relatively fresh flowers and metal cordon surrounding it, a small gravestone on a quiet hill in the California town of Gold Hill might go largely unnoticed. It is the final resting place of a girl, a member of first group of Japanese colonists to settle in North America – and the first Japanese woman to be buried in American soil.

Her name is Okei.

It was 150 years ago that the first Japanese settlers arrived on the American mainland, …

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「YES」か「NO」 それぞれの決断:祖父の体験語り継ぐ孫たち ー 第2部

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プロジェクト通して伝えるツチダさん

日系史の研究活動をしているダイアナ・エミコ・ツチダさんは、強制収容所に入所していた日系人から話を聞き、彼らの経験や当時の生活などを伝えるプロジェクト「鉄柵」を進めている。第1部で紹介した日系人画家ロブ・サトウさんの祖父とは逆に、ツチダさんの祖父は戦時中、アメリカに忠誠を誓わず、忠誠登録の質問に「NO」と答えたひとり。正反対の祖父を持つ2人に、それぞれの思い、そして家族の物語を聞く第2回。今回はツチダさんの祖父タモツさんの話をお届けする。


「NO―」、忠誠誓わなかった祖父

ツチダさんは3年前にプロジェクト「鉄柵」を始動させた。同プロジェクトは、幼い頃、強制収容所に収容された経験を持つツチダさんの父ミツキさん(81)の話を聞くことから始まった。「父が強制収容所で大変困難な時代を過ごしていたと聞いていました。なぜなら祖父タモツが米政府の忠誠登録の質問に『NO、NO』と答え、一家は不忠誠者とみなされていたからです」

父ミツキさんが5歳の時の1941年12月7日、真珠湾攻撃が勃発。日系人は「敵性外国人」とみなされ、43年に強制収容所に送られた。そして当時の米政府に「アメリカ軍に志願する意志があるか」「アメリカに忠誠を近い、日本国天皇への忠誠を破棄するか」といった質問をされたのだった。この2つの質問に「No、No」と答えた日系人は、不忠誠者の隔離センターであるカリフォルニア州のツールレイク強制収容所に収容された。ツチダさんの祖父タモツさんもそのひとりだった。「一家はツールレイク強制収容所に収容されたため、幼かった父は良い思い出がないと話していました」

プロジェクト名となっている「鉄柵」は、ツールレイク強制収容所で短期間発行され、詩や俳句、随筆などを紹介していた日本語雑誌「鉄柵」からきている。

父ミツキさんの話を聞くにつれ、ツチダさんは当時の日系人がどんな思いで強制収容所での日々を過ごしていたのか興味を持つようになった。次第に父の友人にもインタビューをするようになり、いつしかプロジェクトに発展していった。

コミュニティー内で分断も

当初一家はサンフランシスコに住んでいたが、第二次世界大戦が始まるとサンタアニタ競馬場に設けられた収容所に行き、その後ユタ州にあるトパーズ戦時転住所に、そして祖父タモツさんが忠誠登録の質問に「NO、NO」と答えた後、ツールレイクに収容された。

「祖父は正義というものに対して怒りを覚えていたといいます。祖父は日本で教育を受けた人。だからより日本に対して熱い思い入れがあったのだと思います」

米国にわたりサンフランシスコで生活していた祖父タモツさんは、職業紹介会社を経営していた。しかし戦争勃発後、当時の米政府にすべてを奪われた。「会社も大切にしていたカメラもすべてを取り上げられました。『こんなのフェアじゃない』と祖父は思ったのです。そしてそれを声にすることを恐れない人でもありました。だから彼は『NO』と言ったのです」

一方、アメリカで育った父ミツキさんにとって、日米の考え方の違いから心の中では葛藤が生じていたという。「父は学校では厳格な帰米の教師に教育されました。毎朝、生徒たちは天皇陛下がいる方角に向かってお辞儀をさせられたと聞きます。『右を見ても左を見てもアメリカなのに、なぜお辞儀をするのだろう』と幼い父は思ったと話してくれました」

ツチダさんにとって、サトウさんの祖父のように忠誠登録の質問に「YES」と答え、自身の祖父とは正反対の決断をした人々のことはどう感じているのだろう。

以前ツチダさんは、第442連隊の退役軍人を父に持つ人に話を聞いた際、「YES」と答え第442連隊に所属した人は、「NO」と答えツールレイク強制収容所に行った人と口も聞かなかったという話を聞いたことがあったという。「ひとつのコミュニティー内で発生した『YES』派と『NO』派との分断に、とても心が痛みました」とツチダさんは振り返る。

「『YES』と答え、第442連隊に所属した人は『この国のために命をかけて闘う。この国のためなら死ねる』と思い出陣していきました。サトウさんの話を聞き、そうした彼らの思いにはとても心を打たれました。一方で、自分たちを強制収容所に閉じ込めた当時の米政府のために命は捧げられない、と『NO』と言えた祖父の決断、そして勇気をとても尊敬しています。強制収容所での生活を知る人が少なくなっている今、少しでも多くの人に彼らの本当の声を知ってもらいたいのです」とツチダさんは力を込めた。

 

* 本稿は、「羅府新報」 (2018年5月9日)からの転載です。

 

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「YES」か「NO」 それぞれの決断:祖父の体験語り継ぐ孫たち ー 第1部

絵を通して伝えるロブ・サトウさん

第二次世界大戦中にヨーロッパ戦線に投入された日系人部隊「第442連隊」や、強制収容所での人々の様子を描いた日系人画家ロブ・サトウさん。サトウさんの祖父は戦時中、アメリカに忠誠を誓い、忠誠登録の質問に「YES」と答えた。一方、日系史の研究活動を行っているダイアナ・エミコ・ツチダさんの祖父は「NO」と答えたひとりだった。正反対の祖父を持つ2人に、それぞれの思い、そして家族の物語を聞いた。

 

「YES―」、米国に忠誠誓った祖父

サトウさんはロサンゼルスを拠点に活動するアーティストだ。サトウさんが描いた水彩画は、第442連隊を描いたコウジ・スティーブン・サカイさんとフィニー・キヨムラさんのグラフィック小説「442」への挿絵として描かれ、このほど、ウエスト・ロサンゼルスにあるギャラリー「Giant Robot 2 Gallery」で展示された。

1943年、「敵性外国人」として強制収容所に送られた日系人は、当時の米政府に「アメリカ軍に志願する意志があるか」「アメリカに忠誠を近い、日本国天皇への忠誠を破棄するか」といった質問をされた。この2つの質問に「YES、YES」と答えたひとりがサトウさんの祖父ロイさん(93)だ。

ロイさんは戦時中、アーカンソー州ジェローム、同州ローワーの強制収容所に収容され、第442連隊に所属。ヨーロッパ戦線に赴いた。

多くの日系2世が強制収容所で第442部隊に志願、または徴兵され、激戦地に投入された。戦地では過酷な任務を遂行し、その激闘ぶりは死傷率314%、死傷者数9486人という数字が物語っている。米国史上もっとも勲章を授与された軍部隊のひとつとして、人々からは英雄とたたえられている。

「祖父は戦時中、第442連隊に所属していましたが、長い間、戦地での体験を語ろうとはしませんでした。しかし1980年代に入り、僕ら孫が成長するにつれて、コミュニティーイベントや学校などで強制収容所での生活や戦争についてプレゼンテーションをするようになったのです」

第二次世界大戦を知る日系2世は高齢化しており、彼らの話を直接聞ける機会は失われつつある。小説の挿絵の企画が舞い込んできた時、祖父の体験談や自身のバックグラウンドを生かさなければ、サトウさんは思ったという。「第442連隊の姿を描く中で、祖父から直接話を聞けたのはとても貴重な体験でした」

サトウさんの水彩画には第442連隊の日系兵士たちの表情が事細かに描かれ、戦地に赴く息子や夫のために女性たちが送ったお守りの「千人針」や強制収容所で発生した暴動の様子、2010年に当時のオバマ大統領が第442連隊に「議会名誉黄金勲章」を授与する法案に署名した様子も描かれている。

祖父ロイさんは自身がアメリカ人であること、そしてたとえ家族が当時の米政府によって強制収容所に収容されても、国のために戦うことに誇りを持ち続けていたという。

サトウさんにとって、ツチダさんの祖父のように忠誠登録の質問に「NO」と答え、自身の祖父とは正反対の決断をした人々のことをどう感じているのだろうか。

「僕は(忠誠を誓わなかった)ツチダさんの祖父の判断もとても尊敬しています。『YES』と答えた人も『NO』と答えた人も、結局はどちらも正しい判断だったと思うのです。当時の日系人は忠誠登録の質問から逃れることはできなかった。当時の状況(排日運動)こそが間違っていたのです。日系史はアメリカ史の一部。これまで日系人がたどった歴史を知らなかった人にも、こうした機会に知ってもらえたらうれしいのです」とサトウさんは話した。

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* 本稿は、「羅府新報」(2018年5月8日)からの転載です。

 

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第2回 日米をめぐる家族の物語:やっと会えた実母、そして別れ

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千葉県柏市に住む島村直子さんは、伯父で画家の故・島村洋二郎の息子で、3歳の時に養子として米国にわたったいとこのテリー・ウェーバーさん(鉄さん)を30年にわたり探し続けてきた。東京の乳児院や児童相談所、アメリカ大使館のほか、テリーさんの養父母が卒業した大学にも問い合わせるなどしたが、努力も虚しく手がかりは一向に見つけられなかった。万策尽き果てたある日、テリーさんがトーレンスに住んでいることが判明。昨年3月、遂に2人は対面を果たすことができた。そしてこの出会いは家族のさらなる物語の始まりでもあった。

それはテリーさんが実の母を探すところから始まった。テリーさんの実母・君子さんは、テリーさんが生後間もない頃、夫である洋二郎の元を去っていた。以来、テリーさんは君子さんの消息を探ったことはなかった。しかし、昨年8月、テリーさんは君子さんを見つけ出し、実の親子は67年の歳月を経て、再会を果たすこととなったのだ。果たして君子さんはどこにいたのか―。

第2回では日米をめぐる母と子の物語をお届けする。【取材=吉田純子、グウェン・ムラナカ】

実母・君子さんを探して

いとこの直子さんと対面を果たしたテリーさんはその後、一大決心をする。それは実母・君子さんを探すことだった。

それまで実の親のことを調べようと思ったことはなかった。ある時、養父ジョー・ウェーバーさんが実母を探したいか尋ねてきたことがあった。しかしテリーさんは「お父さんたちが僕にとっての家族だから」と断ったという。「たとえ実母を探し出せたとしても『なぜ電話してきたの? なぜ会いに来たの』と言われてしまうのが恐かったのです」

妻のシャロンさんとともに君子さんを探し始めたテリーさんは昨年7月、全米日系人博物館(JANM)の「日系祖先の見つけ方」というセミナーに参加。そのほか先祖を何世代にもわたってさかのぼりルーツを探るインターネットサービス「アンセストリー・ドットコム」や「Beenverfield」なども活用し探し始めた。

しかしさまざまなデータベースを活用しても、どうしても君子さんの旧姓「田澤君子」に該当する名前は見つけられなかった。

もう実の母に会えることはないだろうと諦めかけていたその時、救いの手が差し伸べられる。それは直子さんだった。テリーさんを探し出すため30年にわたって日本でリサーチを続けてきた直子さんは、君子さんが現在「ローシュ君子」になっていることを突き止めていた。直子さんは君子さんの名前が変更されていることをテリーさんに伝え、手元にあった君子さんに関する資料も送った。

テリーさんとシャロンさんは早速、直子さんから教えてもらった「ローシュ君子」という名前で調べてみた。するとついに該当する人物が見つかった。住所はカリフォルニア州モントレー郡パシフィックグローブとなっていた。


不思議な偶然の連続

君子さんは洋二郎の元を去った後、米国人男性のアルヴィン・ローシュさんと出会い結婚。その後渡米し、長男アランさんと長女アラナさんが生まれた。データベースで該当した住所はアランさんが現在建設中の自宅だった。

テリーさんにはメルバさんという妹がいるが、彼女はパシフィックグローブ在住で、驚くことにアランさんが建築中の家の数ブロック先に住んでいた。さらにその住所はテリーさんが足しげく通っているゴルフコースのすぐ側でもあった。「よく行く場所の近くだったなんて。不思議な偶然の連続でした」とテリーさんは語る。

そして昨年8月、君子さんが実際に住んでいる場所がグレンデールであることも判明。君子さんの所在が分かったテリーさんは勇気をふりしぼり、手紙を書くことにした。手紙には自身が養子になったことを証明する出生証明書と、君子さんと洋二郎が写っている写真を添えた。

手紙を受け取った君子さんの長男アランさんは最初、何かのいたずらかと思ったという。「でも出生証明書はあるし、名前も日にちも話の流れも合う。写真を見ても『これってうちのおふくろだよね』ってすぐに合致したのです」。手紙にはぜひ一度会いたいとつづられていた。

それから3週間後の昨年9月、君子さんとテリーさんはついに会うことになったのだ。

君子さんはアランさん夫妻とともにグレンデールで暮らしていた。実の親子は同じロサンゼルス郡で一度も会うことなく暮らしていたのだ。「こんな近くに実の母がいたなんて。知った時は驚きしかありませんでした。もし直子と会えていなかったら、僕は一生実母と会うことはなかったでしょう」とテリーさんは話す。

「もしかしたらすれ違っていたかもしれない―」。アランさんとテリーさんは、行きつけのレストランも、よくいくゴルフグッズの店も同じだったのだ。あまりにも多い偶然に「兄弟」は驚きを隠せなかった。

日米のやりとり支えたもう1人の母

ここでテリーさんの育ての母について触れておきたい。テリーさんにはかね子さんというもう1人の育ての親がいる。ジョー・ウェーバーさんと妻のエスタさんは中野区の乳児院でテリーさんのほか日本人のアンナさんを養子として迎えた。しかし1961年に養母エスタさんが他界。その後、ジョーさんが再婚した相手が日本人の有賀かね子さんだった。

毎年テリーさんはかね子さんの住むシーサイドに年に2回ほど会いにきてくれるのだという。かね子さんからすると、テリーさんは親子というより、友達みたいな存在なのだそうだ。

かね子さんとジョーさんにはその後ジュリアさん、メルバさん、サムさんの3人の子供が生まれ、かね子さんはテリーさん、アンナさんを含め5人の子を育てあげた。かね子さんとジョーさんに子供が生まれても、テリーさんはお兄さんとしてほかの子どもたちに優しく接してくれていたという。

「育て方より生まれつきのものが大きい気がします。私には5人子どもがいますが、テリーみたいな子はいない。娘たちはみなテリーをとても尊敬しているのです」とかね子さんは話す。

こんなエピソードもある。昔クリスマスカードを作った時、家族みんなでカードに絵を描いていると、テリーさんだけ絵があまりにうまく驚いたという。画家だった父親・洋二郎譲りの絵の才能は幼い頃からテリーさんに宿っていたようだ。

さらにかね子さんは日本語で書かれた直子さんからの手紙も英語に訳しテリーさんに教え、日米のやりとりを陰で支えていた。


母と子、遂に再会

67年の歳月を経て昨年9月、遂にテリーさんは実の母である君子さんと再会を果たした。10月にはテリーさん一家と君子さん一家がテリーさんの自宅で集まり、家族水いらずの時を過ごした。

「まさか生きている間に会えるとは思いませんでした。(テリーのことは)誰にも話さなかったし、自分の心の中だけに納めて生きていこうと思っていました」。君子さんはそうつぶやいた。

「諦めていましたからね。死ぬ前に会うことはないと―。だから初めて会った時、立派な青年に成長してくれていて本当にうれしかった。みんな『家族が増えたよ』って喜んでくれたのです」

君子さんによると、洋二郎との出会いは学校だった。横須賀市立第三高等女学校(現逗子高校)の学生だった君子さんは同校で美術講師として働いていた洋二郎に「絵を描かせてほしい」と頼まれモデルになったのがきっかけだった。その後ふたりは交際を経て結婚。テリーさんが生まれた。

「洋二郎が亡くなったのを知ったのはだいぶ経ってからです。アメリカに来てから知りました。誰からも知らされなかったのです」と君子さん。

「あの頃は世の中何も知らない子だった―。終戦と同時に父を亡くし、私の母も大変だったと思います。今では夫のローシュや親戚も亡くなり、子ども2人と孫2人の家族だと思っていました。そしたらテリーが現れたのです。息子(アランさん)は飛び上がって、『お兄さんができた』と喜んでくれました。孫も増えみんないい人で良かった」と君子さんは話す。

10月に来米し、実の親子の再会の現場に立ち合うことができた直子さんは「テリーが君子さんと会えて本当に良かった」と涙を浮かべ喜んだ。「あなたがいてくれたからテリーと会うことができた。あなたがいなかったら会えることはなかったでしょう」。君子さんは何度も直子さんに感謝の言葉を掛けた。

「直子が僕と実母を引き合わせてくれた。もし直子があの時、書店で本を手にとらなかったら。もし僕を探そうとしてくれなかったら。僕たち親子は今この瞬間を迎えられることはなかったと思います。直子には感謝しかありません。家族の絆をあらためて感じました」とテリーさんは話す。


「お母さん、会えて良かった―。愛してるよ」

こうして実の親子は再会を果たし、その後も交流は続いた。テリーさんと君子さんは君子さんの長女アラナさんも交えてランチに出かけることもあった。

しかし幸せな時間はそう長くは続かなかった。今年2月25日、君子さんが亡くなった。87歳だった。

昨年のクリスマス、君子さんはわが子テリーさんに初めてクリスマスプレゼントを贈った。それはテリーさんの日本語名「鉄」と書かれた習字だった。アラナさんによると君子さんはただひたすら30回も書き直しながらテリーさんのために字を書いていたという。あまりに精魂込めて書いていたため墨がすぐなくなり、アラナさんは墨を買い足しに行ったほどだったという。

高齢な上、脊髄側湾症を患っていた君子さんにとって、30回も書き続けるのは容易なことではない。全身の痛みをこらえながら君子さんは真心込めたプレゼントをわが子に贈った。この習字が母から子へ、最初で最後のクリスマスプレゼントとなった―。

母の思いに応え、テリーさんも君子さんにプレゼントを用意していた。それは若かりし日の君子さんの写真をモデルにしたパステル画だった。

父・洋二郎と同じようにテリーさんも君子さんを描いた。しかし君子さんの突然の死―。テリーさんが君子さんにプレゼントを渡すことは叶わなかった。

実母の死を受け、テリーさんは母との再会をこう振り返った。

「67年の歳月の後、遂に母と会うことができ、『お母さん』と呼ぶことができて本当に幸せでした。母の口から『愛してる』と言ってもらえたことは、僕の人生の中でもっとも素晴らしい瞬間でした。結核の乳児感染から僕を守るため、乳児院に僕を預けざるを得なかった母―。戦後の動乱の中での母の苦悩を理解しています。母と再会の日を迎えられるまで、たくさんの人たちに支えられてきました。今すべての人に感謝したいです。そしてお母さん、会えてよかった。愛してるよ―」

 

* 本稿は、2018年3月15日「羅府新報」からの転載です。

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