Junko Yoshida

Born and raised in Tokyo, Junko Yoshida studied law at Hosei University and moved to America. After graduating from California State University, Chico, with a degree from the Department of Communication Arts & Science, she started working at the Rafu Shimpo. As an editor, she has been reporting and writing about culture, art, and entertainment within the Nikkei society in Southern California, Japan-U.S. relations, as well as political news in Los Angeles, California. 

Updated April 2018

war ja

日系被爆者たちの声、心の傷跡【第1部】:自らの体験語り継ぎ、平和願う

広島と長崎、原爆犠牲者の追悼法要

小東京の高野山別院で4日、広島と長崎の原爆犠牲者の追悼法要が行われた。被爆者たちの悲惨な体験と心に焼きついた傷跡―。追悼法要には広島で実際に原子爆弾(以下、原爆)の被害にあった被爆者たちの姿があった。次の世代に自らの体験を語り継ぎ、平和を願う彼らの声を聞いた。

* * * * *

第二次世界大戦のさなかの1945年、アメリカは8月6日に広島、3日後の9日に長崎に原爆を投下した。原爆は建物だけでなく、街全体を瞬時に焼き尽くし、多くの人々の命を奪った。同年12月末までに広島で14万人、長崎で7万以上が亡くなったと推計される。

さらに人々はその後も原爆による後障害に苦しめられた。広島市によると、被爆から5、6年が経過した頃から白血病患者が増加し、55年以降は悪性腫瘍の発生率が増えはじめたという。
 

LA地区の被爆者175人、進む高齢化、平和への思い

追悼法要には米国広島・長崎原爆被爆者協会(ASA)の会員をはじめ、コミュニティーメンバーらが出席。犠牲者の冥福を祈った。その中に自らも被爆者という更科洵爾(さらしな・じゅんじ)さん(90)がいた。

オレンジ郡在住の更科さんはASAの会長でもある。更科さんによると、現在ロサンゼルス地区にいる被爆者は約175人。4年前までは300人以上いたメンバーも、高齢化に伴い多くが活動への参加が困難になってきているという。「原爆症か高齢に伴う病なのかは分からないが」と前置きしつつも、「白血病やがんを患うメンバーは多い」と語る。

ASAは日系コミュニティーだけにとどまらず、大学などでも講演活動を通して次の世代の若者に被爆体験を伝え、平和への思いを訴え続けている。更科さんは2年前の2017年に広島市を訪れ、学生を前に講演し、16、17歳の学生と意見交換をした。


更科さんの被爆体験、
「地獄を歩いているよう」

「太陽の光をみているようだった。原爆が投下された時のことは今でも鮮明に覚えている。目の前ですべてを見てきました―」

更科さんはハワイで生まれた帰米2世。父は広島県安芸高田市の寺の僧侶でハワイに移民として渡った日系1世だ。

「私が7、8歳の時、長男の兄が寺を引き継ぐため日本語を習得しなければならず、僧侶だった父はホノルルの本願寺に残り、父以外の家族は日本に行きました」。真珠湾攻撃の時、コミュニティー・リーダーだった更科さんの父はその日のうちに連邦捜査局(FBI)に連行されたという。「父は最初に連行され、4年間強制収容所で過ごし、最後に解放されたグループの1人だったと聞きます」

原爆が投下された1945年8月6日、当時16歳だった更科さんは日本語の勉強のため広島市に住んでいた。学徒動員で南観音町の旭兵器工場で働いていた時、爆心地からおよそ2マイル(約3.2キロ)のところで被爆した。爆発音はなく、光をみると同時に、爆発の力が襲ってきた。

「もし2歩早く建物の外に出ていたら、オレンジ色の光を直接浴びてしまっていた。命はなかっただろう」。建物は倒壊し、更科さんは一時気を失っていたが幸いにもけがはなかった。

広島は燃え、煙で前が見えないほどだった。たくさんのけが人や死体を目にしたという。「地獄を歩いているようだった。生きているのが不思議なくらい。死んでいるのが当たり前のような情景の中、ただ歩いていました」

翌日、通っていた中学校に行くと、プールの中に下級生を見つけた。「水から出たい?」と尋ねると「うん」と答えたのでその下級生を助け出そうとひっぱると、あがってきたのは皮膚だけだった。「焼けているから皮膚がスルっと抜けてしまう。手にとったのはその子の皮膚だけでした」

あの日の情景は更科さんにとってまさに地獄だった。しかし不思議なことに「生きていこうとする力」がとても強かったという。「感情なしに行動していました。見たものも何も恐ろしくないという人間になってしまった。それはあまりにもひどい状態を見てきた人間に起こる反応なのかもしれません」


終戦後アメリカへ、
朝鮮戦争に招集される

「元の人間に戻るのには少し時間がかかりました」。90歳になった今も当時のことを思い出すことがある。「でも一歩ずつ進んでいかないといけない。いつまでも昔のことばかり考えていたら進歩がないから」と更科さんは話す。

終戦後はハワイに戻り、朝鮮戦争が始まると招集され米陸軍情報部(MIS)に配属された。「びっくりした。『なんで僕が行かないと行けないのか』と思ったが、『シカタガナイ』と思いました」

父は強制収容所へ、大学生だった兄のひとりは日本海軍に招集され特攻の教育係に、もう一人の兄は日本陸軍に招集され満州に行き、終戦後はロシア軍の捕虜となりシベリアへ行った。自身は広島で被爆し、アメリカに戻ると原爆を投下したアメリカ軍への入隊を余儀なくされた。更科さん一家は戦争という大きな渦にのまれ、それぞれが別々の場所で、立ちはだかる困難と向き合い闘っていた。

アメリカに対して怒りはなかったのだろうか。「怒りというより人間は順応していくもの。原爆でたくさんの人が亡くなった。反感をもつのは当たり前。けれど、自分たちの孫が育っている世界で、柔軟にまわりの人たちと生きていこうという気持ちの方が強い」と話す。

一方で原爆で亡くなった多くの人々に関しては、いかに彼らが惨めに苦しんで死んでいったかを伝えなければならないと強調する。「戦争はすべきではない。今被爆体験を語るなかで、被爆者たちの苦しみや今も苦しんでいる人々のことを語り継いでいかなければならないと思う」と力を込める。

被爆者健康手帳を持つ日本全国の被爆者は今年3月末時点で14万5444人と初めて15万人を下回った。平均年齢は82.65歳。高齢化が進み、被爆体験を語り継ぐ人が減る中、更科さんらは今も米国で自らの体験を伝え、世界の平和を訴える。被爆者たちがわれわれに問いかけるメッセージとは何か。第2部では日系3世の被爆体験を聞く。

第2部 >>

 

*本稿は、「羅府新報」(2019年8月16日)からの転載です。

 

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「シェフになるまで諦めない」:唐揚げ専門店「ピクニコ」オーナー八木久二子さん

「あなた26歳でシェフになんてなれるわけがない」。元夫が言い放った言葉が彼女の闘志に火をつけた。そして心に誓った。「私は自分が『シェフだ』と言えるようになるまで絶対に諦めない」と。ロサンゼルス・ダウンタウンにある複合施設「RAW DTLA」に昨年12月にオープンした唐揚げ(フライドチキン)専門店「Pikunico(ピクニコ)」。そのオーナーの八木久二子さんは日本では元銀行員。料理などしたこともなかった彼女がアメリカで良き出会いに導かれ、有名店での修業を経て、自らのレストランを開店した。LAで頑張る女性のひとり八木さんにメニューへのこだわりや開店までの経緯など話を聞いた。

* * * * *

八木さんは2012年末、有名シェフ、デビッド・マイヤー氏とともにセンチュリーシティーにあるモダン・カリフォルニア料理レストラン「ヒノキ・アンド・ザ・バード」を開き、シェフとして和のテイストを取り入れた料理を提供し話題をよんだ。

しかしビジネスパートナーとの方針の違いからマイヤー氏が退くと、後を追うようにして八木さんも14年、同店を去った。

4年後、新たなビジネスパートナーを見つけ2018年12月3日にオープンしたのがピクニコだ。目標は高級料理店ではなく、1週間に1度来られるようなレストラン。クオリティーの良い料理を手頃な価格で提供したいとの思いから始まった。

「どんなレストランにしようかと考えていた時、頭に浮かんだのは小さいころに祖母に連れて行ってもらった唐揚げ屋さんと、ヒノキ時代に毎週来ていた常連のお子さんがいつもオーダーしていた唐揚げ。唐揚げは気取らず食べられるし、揚げ物を家で作りたくない人も多い。『だったら私が作ればいい』と思ったのです」

客目線の立地を重視していた八木さんにとって現在店を構えるROW DTLAはカリフォルニア州でディズニーランドに次ぐ大きさの駐車場を完備する。訪れた人がパーキングに困らず、バリデーションを提供できるのも気に入った。

客層は日本人だけでなく当地のアメリカ人も多く、メニューにも工夫をこらした。唐揚げとフィンガーリングポテトのフライまたはおにぎりのセットのほか唐揚げのサンドイッチも用意。「日本の唐揚げではなく、『アメリカと日本の唐揚げのハイブリット』」と称す。

アメリカ人が大好きなサンドイッチにも日本の要素をふんだんに取り入れた。味噌と蜂蜜のペーストで作った自家製「味噌ジャム」をパンに塗り、ハラペーニョは醤油で酢漬けに。そこに唐揚げとカリフォルニアならではの野菜がたっぷり加わる。

揚げ物は消化に時間がかかるため、消化を助けるショウガやウコン(ターメリック)を使用。特別注文のパンの中にはウコンの粉が練り込まれ、パンを黄色く色づかせる。おにぎりにも削ったショウガとニンニク、オリーブオイルが入っており、風味豊かな味わいが残る。

唐揚げを揚げる油は米油100%。「米油を使うことでもたれず後味もよい。その日の夜でもご飯が食べられるようにしたかった」と八木さん。カラッと揚がった唐揚げはグルテンフリー。中はジューシーで食べるほどに口の中に日本のエッセンスが広がる。

3種類あるサラダも定番のコールスローやポテトサラダを日本風にアレンジ。さらに一品キューカンバーサラダもメニューに加えた。

ドレッシングには米酢やごま油を使い、マヨネーズではなくごまペーストでクリーミーさを出した。

こうした料理をピクニックしているような気分で食べにきてほしいとの思いからピクニックと自身の名前「クニコ」を組み合わせピクニコと名付けた。

「可愛がってくれた祖母は週末お惣菜屋さんの唐揚げを買ってくれた思い出があります。無償の愛をくれた祖母のように私も料理を通して、誰かに幸せになってほしい。『家族でまた来ようね』と行ってもらえるような店にしていきたい」と八木さんは力を込めた。


日本では元銀行員、料理経験ゼロ、LA
の有名店で料理長まで昇進

アメリカ生活16年目の八木さんは日本では銀行員だった。米国人の夫との結婚を機に渡米したが、文化の違いや英語の壁から1年後に別居。周囲の反対を押し切り結婚した手前、日本には帰れなかった。

当時、車の運転が出来なかった八木さんは、早速ビーチバイクに乗って仕事探し。日本食レストランの給仕の仕事が見つかり生活していたが、ふと不安が頭をよぎった。「今はチップで生活できるけど、私40歳になったらどうなってしまうのだろう」。「これだ!」と思える何かがなかった。

「銀行員時代も、銀行のマニュアルを暗記することに時間を費やし試験を受けて昇格しようとみなが必死に頑張る。でも試験を通って偉くなっても自分のためになっている感じがしなかった。クリエイティブなことを言えば嫌がられるし、長年にわたる銀行のマニュアル以外のことをしてはいけない世界。私はそういうのがまったく合わなかった」

銀行員時代と同じように情熱を感じられぬまま過ごしていた矢先、調理場が目についた。「おいしい料理が作れるようになれば、世界のどこに行っても仕事が見つかる。しかも料理人にはクリエイティブな発想が求められる。その時『料理人になろう』とひらめいたのです」だが料理学校に入るお金はない。八木さんは本屋に行きレストラン格付け本「ザガット」を購入し、修業したい店を決め、裏口から直接アプローチする作戦に出た。向かった先はモダンフレンチの高級店「SONA」(現在は閉店)。すると中からでてきたのはウェイトレスをしていた店の常連で、その人こそSONAのオーナーシェフ、デビッド・マイヤー氏だった。

直談判の末、1週間だけトライアルの時間をもらった。「その1週間が私のディズニーランドタイムでした」。初めて調理場に入った瞬間「これだ!」と思った。そして1週間後、採用が決まった。

その後の生活は見るものすべてが新鮮だった。調理場で働く人々はみなが仕事に人生を懸けていた。競争率が高いレストランだったが仕事が終わるとみなでビールを飲みに行き、シェフや今の食のトレンドを話す活気溢れる仲間ができた。

楽しい半面、ひとたび調理場に入ると闘いだった。人よりうまくなかったら肉も魚も触らせてもらえない。しかし競争している中でも兄弟のように助け合い、料理を愛す者同士の仲間意識があった。そんな場所が心地よかった。

「当時7ドル50セントの最低賃金で働いていたが、お給料をもらいながらLA料理界の最前線で学べるのがうれしかった」八木さんはSONAで8年修業し最後は料理長にまで昇進。閉店後はテレビ番組「トップシェフ」にも携わるなど活躍の場を広げ、日本やフランスのミシュラン星付きレストランでも修業。そのすべての経験をつぎ込んでほしいとマイヤー氏から誘いを受け2人で始めたのが「ヒノキ・アンド・ザ・バード」だった。

包丁の持ち方も知らずに調理場に入った八木さんだったが、辛いこと、辞めたいと思うことがあってもそれを踏みとどまらせたのは師匠であるマイヤー氏の言葉「Don’t give up(諦めるな)」だった。

「私は離婚後、誰かに頼ってではなく、自分ひとりでも生きていけるようになろうと決めました。嫌な出来事があったから続けられた。幸せなことばかりだったら私は何も成し遂げられなかったと思う」と振り返る。

「アメリカは夢を成長させてくれる。いつ初めてもいつ夢をもってもいいということを教えてくれた。日本にいると願うことさえ許されない。今までの師匠たちには唐揚げ以上のものを教えてもらいました。20年前の自分からは想像もできないが、『絶対シェフになる』と思って諦めなかったからシェフになれたのだと思います」アメリカの環境と出会いがひとりの日本人女性をはばたかせた。

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Pikunico
767 S. Alameda St. Suite 122, Los Angeles, CA
電話: 213.278.0407
営業時間:毎日午前11時から午後6時
駐車場:2時間無料(レストランのバリデーション必要)

 

*本稿は、「羅府新報」(2019年5月9日)からの転載です。

 

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