Junko Yoshida

Born and raised in Tokyo, Junko Yoshida studied law at Hosei University and moved to America. After graduating from California State University, Chico, with a degree from the Department of Communication Arts & Science, she started working at the Rafu Shimpo. As an editor, she has been reporting and writing about culture, art, and entertainment within the Nikkei society in Southern California, Japan-U.S. relations, as well as political news in Los Angeles, California. 

Updated April 2018

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「あなたの親切を忘れない」:カー知事没後70周年、日系住民擁護し立ち上がった人々—その4

その3を読む>>

家を守ってくれた隣人:メアリー・マッカンバー

フロリン在住の日系3世レスター・オオウチダさんも戦時中、非日系米国人に助けられた一人だ。

オオウチダさん一家も戦時中、強制収容所に送られた。しかし、隣人が留守宅を管理してくれたおかげで、収容所から戻ってきても家はそのままの状態で残され、元の生活に戻ることができた。

「私たちは良い隣人に恵まれ、家を失わずに済みました。メアリー・マッカンバーが守ってくれたのです」

強制収容所に送られる前からオオウチダさん一家と隣人のマック、メアリー・マッカンバー夫妻はとても仲の良い友人だった。特に妻のメアリーさんは毎晩オオウチダさんの家に遊びにきては一緒に団らんを楽しんでいたという。

「夕食の後、メアリーはいつも私たちの家に遊びにきて、夕飯の残ったお米に砂糖とクリームを加えたデザートを作って食べていました」

毎晩オオウチダさん一家の家に遊びにきていた社交的なメアリーさんとは対象的に夫のマックさんはとても良い人だが物静かで、隣人宅に遊びに来ることはなかった。

しかし、一度だけ訪ねて来たことがあった。それは一家が強制収容所へ送られる前の晩のことだった。マックさんはオオウチダさんの家に来てこう告げた。

「何か必要な物があったらいつでも手紙で知らせて下さい」

「とても静かでほとんど話さない男性でしたが、わたしたち一家のことを気遣い、心から私たちの行く末を心配してくれていたのが分かりました」

そしてオオウチダさんは5歳の時、強制収容所に送られた。

強制収容所にいたおよそ3年半はオオウチダさんがまだ苦労を感じる年頃ではなかったことが幸いした。当時高校生だった年長の兄は収容所の食事も口に合わず、収容所での生活がまったく馴染めず苦労したという。

収容されていた3年以上の間、メアリーさんはオオウチダさん一家の家を近所の牧師に貸し出し、その家賃収入のすべてを強制収容所にいたオオウチダさんの父に毎月送っていた。そして一家を心配し、時折手紙も書いて収容所に送った。

メアリーさんは、日系住民のことを悪く言う非日系米国人がいるとこう言い返していたという。

「白人のクズよりずっとマシよ!」


かつてあった日本人町:フロリンの変容

戦前、フロリンにはおよそ250世帯の日系住民が暮らしていたという。その多くがいちごや葡萄などを栽培する農家だった。オオウチダさんの父ハロルドさんはフロリンで収穫されたいちごなどの農作物を各地に配送するビジネスで成功を収めていた。

ルーズベルト大統領の大統領令に伴い、1942年10月にハロルドさんと妻エディスさん、そしてレスターさんを含む5人の子どもたちはジェローム強制収容所に収容された。44年6月にジェロームが閉鎖されると、一家はアリゾナ州のギラリバー強制収容所に収容された。そして45年8月にフロリンに戻ってきた。

「8歳半の時に収容所から出てきました。グレイハウンドに乗ってフロリンに着くと、同乗していた女性が泣き出したのを今でも覚えています」。やっと帰れたことで、こみ上げてくる思いがあったのだろう。

しかし、日系住民にはその後も苦労がつきまとう。

「メアリーのおかげで私たちの家はそのままでした。なかには戻ってくると家が損傷していた日系住民もたくさんいたのです」

当時は日系住民に対する偏見があった時代。「僕の年長の兄はエルグローブ高校に入学したとき、差別がひどかったそうです。高校時代、白人の友達がひとりも出来なかったと言っていました」

収容所から戻ってくるとレスターさんの父ハロルドさんは戦前営んでいた事業を再開しようと奮闘した。しかし戦前の頃と同じようにはいかなかった。「父は戦前、農作物の運送用として20台ほどトラックを所有していました。しかし終戦後は2台になってしまった。トラックが10台になるまで事業を拡大することはできたが、戦前のような繁栄を取り戻すのは決して容易ではありませんでした」

それでも父ハロルドさんは懸命に働き、戦後も事業を成功させ、54年頃にはフロリンに新たな家を建て一家は引っ越した。

フロリンの日系社会で問題が起こるとすぐに駆けつけ、弁護士と話し合うようなコミュニティーリーダーだった父ハロルドさんだったが、戦後の日系人を取り巻く環境には後世まで苦労し、59歳で亡くなった。

一方、レスターさんの母エディスさんは終戦後、日本の人々が貧しかったと聞き、缶詰食品などを日本にいる親戚に送っていたという。「郵送自体はできましたが、缶詰は重いので費用は安くなかったはずです。自分たちも苦しかったのに日本の親戚のことも心配していたのです」

終戦後、かつてフロリンにいた日系住民は家を失うなどしてフロリンから離れ、南カリフォルニアなど各地に散っていった。今では日系住民が使った建物こそ残っているが、かつての日本人町は消えてしまった。


まるでわが子のように

「収容所から戻ってきても僕と弟はよくマッカンバー家に遊びに行き、一緒にテレビを見ていました」。戦後も両家の友情は続いた。

実はオオウチダさんの名前「レスター」はマッカンバー夫妻の亡くなった息子の名前からつけられている。

「メアリーは私が生まれた時、私の両親に『亡き息子の名前をこの子につけて』とお願いしたそうです」。メアリーさんにとって、オオウチダさんは一家の子どもたちの中でも一番のお気に入りだったそうだ。

メアリーさんが亡くなったのは70年代のこと。オオウチダさんも葬儀に参列した。葬儀に来ていたのはメアリーさんを知る非日系米国人ばかり。オオウチダさんと姉だけが日系人だった。

しかしその場にいた人々はオオウチダさんがメアリーさんと仲が良かった日系家族の子供だということがすぐに分かったそうだ。「おそらくメアリーは可愛がっていた僕のことをほかの人たちにも話していたのでしょう。みんなすぐに私がその子だと分かったようです」

誰もが日系住民を差別する中、彼女はわが子のようにオオウチダさんを可愛がり、家を助け、そして真の友情を育んだ。

「あの当時、排日感情の高まりにもかかわらず、正義と勇気をもって私たちのために立ち上がった人々がいた。私たちは決して忘れない、彼らの親切を」


編集後記

ここではすべてを書ききれなかったが、戦時中、日系住民を助けた多くの非日系米国人の姿があった。

今年は元コロラド州知事カー氏の没後70周年を迎える。カー氏は日系人を擁護したことで42年の連邦上院議員選では敗北したかもしれない。しかし、正義を貫いた彼の功績は、日系人だけでなく今を生きる人々からも感謝と尊敬をもって後世まで語り継がれている。このことは彼の信念が勝利したことを意味するのではないだろうか。

今年11月には大統領選を控え移民政策も焦点となっている。過去の教訓はどのように未来に生かされていくのか、見守りたい。


取材協力及び参考文献

藤崎一郎元駐米大使
ダグ・アーバー南加日米協会会長
アダム・シュレイガー 池田年穂訳「日系人を救った政治家ラルフ・カー」―信念のコロラド州知事(水声社)
河村幽川編「国府田敬三郎伝」
パシフィック・シチズン
フロリン歴史協会
ゴー・フォー・ブローク全米教育センター
国立アメリカ歴史博物館
デンバー公共図書館

 

* 本稿は、『羅府新報』(2020年1月3日付)からの転載です。

 

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「あなたの親切を忘れない」:カー知事没後70周年、日系住民擁護し立ち上がった人々—その3

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助けられた日系住民、真心の交流

戦時中の立ち退き命令により、多くの日系住民が汗と涙で築き上げた家や土地、仕事など苦労の結晶すべてを失った。

中には収容所に収容されている間、家や土地の管理をかってでる非日系米国人もいた。しかしその多くが無断で土地を売るなどし、強制収容所から戻ってくると、かつてのわが家や土地が他者のものになっているケースも多かった。

カリフォルニアのライス・キングとして知られる故・国府田敬三郎氏もその一人だ。強制収容所に収容されている間、国府田氏は農園の管理を依頼していた非日系米国人に裏切られ、所有していた土地の3分の2と精米所が無断で売り飛ばされ、戦前所有していた広大な土地を失っている。

しかしそんな中でも、日系人が強制収容所に収容されている間、彼らの家や土地を守り続けた非日系米国人がいた。

ここでは日系住民が収容所から帰ってくるまで彼らの土地を守り続けた人たちの一部を紹介したい。排日感情が高まる中、時に同じ非日系米国人から中傷や非難を受けようとも日系住民との約束を守り抜いた人々―。当時子どもだった日系住民が彼らとの真心の交流、そしてよみがえる思い出を羅府新報に語ってくれた。

* * * * *

日系家族の農園守り続けた人:ボブ・フレッチャー

サクラメント郡エルクグローブに住む日系3世のマリエール・ツカモトさんは強制収容所に収容された日系人の一人だ。彼女は5歳の時、家族とともにアーカンソー州のジェローム強制収容所に収容された。

ツカモトさん一家は戦前、フロリンで農業を営み、いちごやブドウなどを育てていた。しかし日米開戦とともに一家を取り巻く環境は一変する。強制退去を強いられ、これまで耕してきた農地、住んでいた家の行く末にも暗雲が立ちこめた。

そんな時、一筋の希望の光が差し込む。一人の非日系米国人の男が一家の前に現れたのだ。

その男の名はボブ・フレッチャー。当時彼はカリフォルニア州の農業検査官だった。しかし農業検査官の仕事を辞め、ツカモトさん一家をはじめ近隣のニットウ、オカモト両家の計3家族の約90エーカーの畑を管理しておくことを約束してくれたのだ。

「ボブは私たちが収容所にいる間、畑を耕していてくれただけでなく、税金も支払い、そして農作物の収益のほとんども私たちのためにとっておいてくれたのです。私たちが収容所から戻ってきたらすぐに生活できるようにと」

当時フロリン周辺でも日系人の農園を引き継いだ非日系米国人はたくさんいたという。「けれども多くの人が農園を自分たちのものにしてしまった。中には土地を耕さず農作物を枯らしてしまった人もたくさんいました」

強制収容所から戻ってきた日系住民はこのように変わり果てた自らの農園を目の当たりにしたのだ。

一方、フレッチャーさんと妻のテレサさんはツカモトさん一家を気遣い、一家が収容所から戻ってくると分かると、一家が住んでいた家をきれいに掃除し、冷蔵庫の中には食料まで準備し待っていてくれた。

日系住民の中には運良く家や農園が残っていた人もいた。しかし多くの家は電気が通らず、食べ物もない人がほとんどだった。

「収容所へは着の身着のままの状態で送られました。動物を持っていくこともできなかったので、当時飼っていた愛犬アピとは離ればなれになってしまった。アピは家族の一員だったのに私は泣きながら置き去りにせざるを得なかったのです」

後にフレッチャーさんがツカモトさんに語ったところによると、アピは突然姿を消していなくなってしまったという。「恐らく私たちを探しに行ったきり戻らなかったんだと思う」。5歳の女の子には辛すぎる別れだった。


「同じ過ち繰り返してる」

強制収容所から帰ってきてからも、日系住民に対する偏見は続いた。「父は差別を恐れ、収容所から自宅に戻ってきた時、誰にも私たちが帰って来たことを悟られないよう車のライトを消して戻ったのです」

店に買い物に行っても物を売ってもらえなかったり、レストランにも入れてもらえないこともあったという。「小さい時から差別を受けるのを恐れていました。『日本人だから気を付けなければいけない』と。私は『アメリカ人』になりたかった。だから日本語学校には行かなかった」

しかし戦後5年、10年と経過するうちに、日系の店も少しずつ増え状況は徐々に改善していったという。

ツカモトさんはJACLのフロリン・サクラメント支部の前会長だ。昨年、移民の子どもたちを収容するためオクラホマ州にあるフォートシル軍用基地を活用するというトランプ政権の移民政策に反対する日系市民団体「ツル・フォー・ソリダリティ(団結のための折り鶴)」の活動に賛同し、戦時中に強制収容所に送られた一人として、たくさんの鶴を折り連帯を表明した。

「現政権の移民政策は危険です。日系人へ犯した過ちを繰り返そうとしている。私は彼ら(移民の子)と同じ経験をしている。だから彼らのために立ち上がる」と力を込めた。


時に銃弾撃ち込まれても

ツカモトさんの父はある時、倉庫の窓に銃弾が打ち込まれた痕があるのを発見した。「収容所に行く前はそんな銃弾の痕などなかった。もしハンターがいたとしても、誰が倉庫に向かって撃ちますか?」。何者かが日系住民を助けるフレッチャーさんを狙って撃ったのは明らかだった。

「ボブはとても謙虚で控えめな人。たまたま銃弾がボブに当たらなかっただけで、誰かが彼をめがけて撃とうとしたのは明らかでした。彼は悪いことは決して口にしない人だった。日本人の土地を世話しているボブも差別的待遇を受けなかったか父が問いただしても、彼はいつも『僕は忙しかったから気にしていなかったよ』としか答えなかった」

フレッチャーさんはその後、当時消防署がなかったフロリンでボランティアの消防隊員になり、フロリンに消防署が設立されると署長となって活躍。地域コミュニティーの活動にも積極的に参加し、コミュニティーリーダーとして知られるようになる。

そして2013年、5月23日サクラメントで息を引きとった。101歳だった。現在フロリンの町には彼の名を冠したコミュニティーセンターや道路もある。

ツカモトさんによるとフレッチャーさんは決して自分がしたことをみんなに知ってもらおうとはしなかったという。しかしある時こう話したという。

「自分がしたことは特別なことではないんだ。ただ正しいと思うことをしただけ」

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* 本稿は、『羅府新報』(2020年1月3日付)からの転載です。

 

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「あなたの親切を忘れない」:カー知事没後70周年、日系住民擁護し立ち上がった人々—その2

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「祖父は自身が育った小さな町で行われていたリンチ(私刑)を見て育ちました。大人たちの間で何か問題が起こると、法廷で争われることなく、有罪か無罪か決められる。町の人々はただその人を有罪と決めつけ、リンチしていたそうです。祖父は子どもの頃、木によじ登り、狂った町の様子を見てきたのです。その時に見た恐ろしい光景から祖父には強い道徳観が芽生え、法曹界を目指し、『人として何が大切か』を考えるようになったといいます」。そう話すのはカー氏の孫で現在南カリフォルニアに住むキット・リンチさんだ(旧姓カー、以下キットさん)。

今回、キットさんがカー氏との思い出、そして彼の信念について語ってくれた。

* * * * *

秘書に日系女性採用: 収容所から来た「ワカ」

キットさんはカー氏の長男ロバート氏の長女だ。「祖父は初孫だった私をとても可愛がってくれました。そして私も祖父が大好きだった。世界で一番の祖父です。祖父とはよく一緒に踊りそして歌も歌ったの」

キットさんが生まれて間もない43年、カー氏が知事職を離れ弁護士に戻った頃、彼はコロラド州アミチ収容所に行き、そこに収容されていた日系人のワカコ・ドウモトさんを秘書として採用した。

ワカコさんはカリフォルニア州オークランドで育ち、収容所に行く前はスタンフォード大学で学び、家業の造園業の事務を手伝っていた。採用後、ワカコさんは収容所を離れデンバーにあるカー氏の自宅で6カ月間、秘書として働くことになった。

しかしワカコさんがカー氏の自宅で働き始めるやいなや、周囲の人々はこう言った。「彼女は日本人だ。赤ちゃんを絞め殺すかもしれないぞ」。こうした声にカー氏は一喝した。「ナンセンスだ!」

「ワカはとても優しく思いやりのある女の子だった。まるで桜の花のようだったの。でも彼女が日系人だというだけで、周囲の人々はワカが赤ちゃんだった私を殺すと思ったのです」

カー氏は女性は家にいるより、社会に進出して活躍すべきとの考えの持ち主だった。そしてワカコさんにもこう告げた。「家のことはしなくてよいのです。それより私はあなたに学校に行ってもらいたい。教育を受け、専門性を身に付けてもらいたいのです」。カー氏のもとで働いている間、ワカコさんは秘書学校に通い、文字通り専門性を身に付けた。

終戦後、家族とともにカリフォルニアに戻ったワカコさんは、サクラメントの政府機関で秘書として働いた。

「祖父は当時としては画期的な考え方の持ち主だった。決して人種にとらわれることなく、ワカのほかにも知事時代にはアフリカ系米国人を知事執務室の受付係として採用しました。知事執務室の受付係は知事に会いにくる人が最初に顔を合わせる人物。そうした重要なポジションも人種を問わず採用したのです」

さらにこんなエピソードも残されている。ある時、カー氏がレストランで食事をしていると、アフリカ系米国人のカップルが来店した。すると店側が入店を拒否。その光景を見ていたカー氏と友人たちは席を立ち、そのまま店から出て行ってしまったそうだ。「祖父は『もしアフリカ系米国人を差別するなら、私たちはそんな店では食事はしない』ということを行動を通して示したかったのです」

人を先祖で判断しない

なぜカー氏はこれほどまでに日系住民を擁護したのだろう。

「祖父は日本人、日系人が特別好きだったというわけではないのです。ただ人を先祖(ヘリテージ)で判断してはいけないと信じていた。だから当時の日系住民に対する敵意は間違っていると思っていた。その人がとった行動や性格で人を判断すべきだとする強い信念があったのです」とキットさんは語る。

「(日系住民への擁護が)政治的に自殺行為だったと言う人もいます。しかし祖父は決して自らの行動に後悔などしていなかった。その後アメリカは日系人に対して謝罪しました。これが本来アメリカがとるべき正当な道だったのです。彼はただ正しいことをしていただけなのです」

カー氏の主張が正しかったということは、自らが生まれた国アメリカへの忠誠心と愛国心をもって闘った日系人部隊の功績によっても証明されることとなる。


祖父の教え:「正しいことをしなさい」

今の移民政策に思うこと

「私は常に祖父と行動していました。日系の人々は農業にたけていて素晴らしい農作物を作っていた。祖父は日系人の果物や野菜のマーケットによく私を連れて行ってくれました」

キットさんは幼い時から日系農家が作ったさくらんぼやブドウ、スイカなどの果物を食べて育ったという。「戦後、私が4歳くらいの時でした。日系の市場に行った時、市場のオーナーが自宅を何者かに燃やされたと祖父に言ってきました。犯人は分かりませんが、当時日系人に対し差別的な感情を持った人物による犯行の可能性もあり、祖父と私はオーナーの燃やされた家をすぐ見に行きました」

現場に行くと残っていたのは煙突だけ。カー氏はその時、保険会社に連絡し、日系人一家の家が再建できるか確認していたという。

「祖父は面倒見がよかった。『正しいことをしなさい』というのが祖父の心情だったのです」

そんな祖父カー氏の遺伝子はキットさんにも受け継がれている。キットさんはこれまで全米中の市民権運動に参加してきたという。今の移民政策に関して「中南米から来た人々は日系人と同じ体験をしている。同じ過ちは繰り返してはいけない。4年間は我慢できた。でも8年続いたら、もう我慢できない」と語気を強めた。


正義のために闘った生涯

連邦上院議員選挙での敗退後、カー氏は弁護士に戻る一方、母校コロラド大学の評議員に就任。そして50年の州知事選で再び州知事に返り咲こうと挑むが、投票日の1カ月前に病に倒れ、同年9月22日、62年の人生の幕を降ろした。正義のために闘った生涯だった。

今コロラド州では至る所でカー氏の名前を見ることができる。コロラド州最高裁判所にはカー氏の功績をたたえる銅像が飾られ、州議会堂にはカー氏の記念プレートが埋め込まれている。2008年にはハイウエー#285の一部区間が「ラルフ・カー・メモリアル・ハイウエー」と名付けられた。この道はかつて、カリフォルニア州から日系住民たちがコロラド州に入ってくる時に通った道だった。

キットさんは言う。「私は日系社会に感謝の思いを伝えたい。皆さんは決して祖父のことを忘れなかった。日系社会はデンバーの日本町の桜スクエアに祖父の胸像を作り功績をたたえてくえた。現在、州都の政府機関の建物の至る所にも祖父の名が刻まれている。こうして祖父の名は朽ちることなく今に生き続けているのです」

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* 本稿は、『羅府新報』(2020年1月3日付)からの転載です。

 

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「あなたの親切を忘れない」:カー知事没後70周年、日系住民擁護し立ち上がった人々—その1

正義貫いた勇気ある行動

「彼らを攻撃するなら、まず私を攻撃しなさい」

1941年12月の真珠湾攻撃の後、日本人の血を引く日系住民は敵性外国人とみなされ、差別と偏見の目にさいなまれた。多くの人が彼らに敵意を向ける中、自らを危険にさらしてまでも、迫害に耐え忍ぶ日系住民を擁護し立ち上がった人々がいた。

当時のコロラド州知事ラルフ・ローレンス・カー氏は、街中が狂気にみち溢れる中、州民に対し演説の中でこの冒頭の言葉を述べ、日系住民への差別を直ちに止めるよう呼び掛けたのだった。

一方、カリフォルニア州では、強制収容所に送られた日系住民の家や農園を終戦まで守り続けた非日系米国人たちの姿があった。彼らは非難や中傷を受けても、そして時に銃口を向けられても、日系住民が収容所から戻ってくるまで彼らの家や土地を守りぬいたのだった。

大統領選を控える2020年。今年はカー氏の没後70周年の年でもある。強硬な移民政策が推し進められる今、人種による偏見をものともせず信念を貫いたカー氏を側で見ていた孫の証言、さらに強制収容を体験した歴史の証人たちの声とともに、正義を通した勇気ある人々の貢献をここに取り上げたいと思う。

彼らのことを私たちの記憶にとどめ、いつまでも忘れないために、差別の代わりに「正義」と「友情」をささげた人々を紹介したい。

* * * * *

「友情の手」差し伸べた人: ラルフ・ローレンス・カー

日米開戦後の1942年2月19日、当時のフランクリン・ルーズベルト大統領は「大統領令9066号」に署名し、アメリカ西海岸とハワイの一部の地域に住むおよそ12万人の日系住民に強制退去命令を発令した。

国家の安全保障の脅威になるとの理由から、日系住民は敵性外国人とみなされ、住んでいた場所から立ち退きを強いられた。アメリカで生まれ、市民権を持つ日系2世や3世であっても、日本人の血を引くという理由で差別の対象となったのだ。

日系住民のうち約4万5千人が日本で生まれた日本人の1世たち(当時1世は市民権を取得することができなかった)。残り7万5千人近くは米国で生まれ米国籍を保持するアメリカ市民だった。
 強制退去命令を受け西海岸から退去した日系住民には受け入れ先がなかった。当時のワイオミング州のネルズ・スミス知事は公然と「ジャップ」と言い放ち、アイダホ州の司法長官も自分たちの州に日系住民が押し寄せてくることに反対する声明を発表した。

しかし当時コロラド州知事だったカー氏だけは違った。彼はアメリカ国民を差別することは合衆国憲法に違反する行為であるという信条から、コロラド州は日系住民を受け入れ歓迎すると発表し、迫害に苦しむ日系住民に救いの手を差し伸べたのだった。

そして非人道的かつ合衆国憲法に違反するという観点から強制収容には真っ向から反対した。

日系アメリカ人市民同盟(JACL)の機関紙「パシフィック・シチズン」の1942年1月号には、カー氏自らJACLに送った声明が掲載されている。「人の魂を試す時」と題した文の中でカー氏はこう述べている。

「アメリカは4大陸から来た人種も国籍も違う人々から成り立っている。まさに人種のるつぼである。そもそもアメリカにたどり着いた時、われわれは思い出や親戚以外は故郷に残し、新たな忠誠心のもとアメリカ人として生まれ変わった。日本人の両親のもとアメリカで生まれたアメリカ市民には、われわれの手本となってくれることを期待する。しかし、この国に生まれるという幸運に恵まれなかった人も、われわれと同じように真のアメリカ人になってくれることに疑いの余地はなく、われわれは彼らにも友情の手を差し伸べる」

どの州も日系住民の受け入れを拒否する中、受け入れを表明したのはコロラド州のカー氏ただひとりだった。


自らの政治生命を投げ打ってでも

しかし、カー氏の決断は州民から大きな反発を呼ぶ。日系住民の受け入れに反対する州民が暴徒と化して集まったのだ。しかし、そこでカー氏は怒り狂う州民を前にこう演説した。

「日系住民もわれわれが守られている同じ憲法によって守られており、ほかの市民と同様の権利を持っている」。そしてこの後、日系史に残る最も勇気ある言葉を続ける。

「もし彼らを攻撃するのなら、まず私を攻撃しなさい。私は小さな町で生まれ育ち、そこで人種的憎悪がいかに恥すべき、そして不名誉なものであるかを知り軽蔑するようになった。なぜならそれはあなたの、あなたの、あなたの幸せを脅かすものであるから」と一人一人を指さして言ったのだ。

カー氏は1887年、コロラド州の小さな金鉱町ロジータで生まれた。コロラド大学の法学部を卒業し、弁護士として働く一方、新聞社も経営し編集者としても働いた。

1929年にコロラド州連邦地方検事に就任。39年にコロラド州知事(共和党)に就任し、43年まで2期4年務めた。副大統領有力候補と称されたこともあった。

しかし、42年11月に行われた連邦上院議員選挙にエドウィン・ジョンソン前知事(民主党)にわずか約4千票の僅差で敗れた。一連の日本人擁護の姿勢が影響し、政治生命を絶たれたとも言われた。

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* 本稿は、『羅府新報』(2020年1月3日付)からの転載です。

 

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日系被爆者たちの声、心の傷跡【第2部】:核兵器廃絶訴え、平和への思い次の世代へ

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広島と長崎、原爆犠牲者の追悼法要

「それは美しい夏の日の朝でした。74年前の8月6日、当時7歳だった私は2歳年上の兄とともに、爆心地から約0.6マイル(およそ1キロ)の場所で被爆しました」。小東京の高野山別院で4日に行われた記念法要にゲストスピーカーとして出席していた日系3世のハワード蠣田(かきた)さん(81)は、自らの被爆体験を当地の人々に伝える。核兵器廃絶を訴え、平和への思いを次の世代に語り継ぐ蠣田さんの被爆体験を聞いた。

一家、日米で離ればなれに。両親はポストン強制収容所へ

蠣田さんは1938年、ボイルハイツで生まれた。1940年のはじめ、広島にいた父方の祖父が病気になり、2歳だった蠣田さんと家族は日本へと向かった。当時蠣田さんの母は妊娠8カ月。母はその後日本で出産し、弟が生まれた。

日本到着後、祖父の健康状態は改善したが、再会から6カ月後、一家は再びアメリカに戻らなければならなくなった。帰国が迫るにつれ祖父の健康状態は再び悪化。蠣田さんの両親は蠣田さんと兄に祖父の看病を託し、生後まもない弟を連れてアメリカへと戻った。

蠣田さんの両親は戦時中、アリゾナ州ポストンの強制収容所に収容され、蠣田さんと兄は広島で暮らし、一家は日米で離ればなれとなった。


蠣田さんの被爆体験

1945年8月6日。その日は美しい夏の青空が広がる朝だった。学校に行く準備をしていた蠣田さんだったが米軍機の接近により休校になると、すぐさま遊び服に着替えた。しかし間もなくして空襲警報が鳴り響いた。午前8時頃のことだった。

蠣田さんと兄が急いで屋根によじ登ると、市内に向かって飛行するB29が目に飛び込んできた。

兄弟はすぐさま屋根から降り、兄は門のところへ、祖母は家の中へ、蠣田さんは風呂場がある建物内に逃げた。そして午前8時15分、広島に原爆が投下された。

原爆投下直後、蠣田さんは気を失った。光を見ることも、爆発音を聞くこともなかったという。

どのくらい意識を失っていたかは分からないが、意識を取り戻した時には炎と煙が立ちこめる中、倒壊した風呂場に埋もれていた。深刻な怪我はなく、自力で這い上がることができた。

兄は額に軽い火傷を負っていたが無事だった。台所にいた祖母は、割れた窓ガラスの破片が体中に突き刺さり、倒壊した建物の下敷きになっていた。祖父や近所の男性が祖母を見つけ出し救助。体中血だらけの祖母だったが、命だけは助かった。

「祖父母と兄弟が生き残っていたことは奇跡に近かった」と蠣田さんは振り返る。

同じ時、炎が倒壊した家屋を飲み込み、瞬く間に火の手は街中に広がっていた。祖母と兄弟は市外に避難し、祖父は消火活動にあたった。

一方、同じく広島にいた母方の祖父母は原爆で亡くなった。母方の祖父母は農家で、祖母は商品を広島市内に運んでいた際に爆死した。爆心地から近かったため遺体はなかった。祖父は重傷を負いながらも自宅までたどり着いたが数日後に亡くなった。

道に転がる死体、抜け落ちた髪

街から山の方へ避難する途中、蠣田さんは見るも恐ろしい光景を目にする。「ひどい火傷を負い皮膚が体から剥がれ落ちている人々、体中血まみれの人、『水をくれ』と助けを求める人々など。道にはそこかしこに死体が転がり、それは見るも無惨な光景でした。当時のことは目と心に焼きつき、今も忘れることができません」

蠣田さんは広島市から10マイル(約16キロ)北方の可部町(現在は広島市に編入)にあった親戚の家に避難し、その地で終戦を迎えた。

原爆で広島の街全体は破壊され、跡形もなくなった。残っていたのは建物のコンクリートと鉄の枠組みの一部だけ。「街の至るところに灰になった死体が転がり、市内を流れる川には腐敗した死体が浮かび異臭を放っていました」

数週間後、蠣田さんの体にも異変が訪れる。「髪の毛がすべて抜け落ち、ひどい下痢症状に苦しみました。幸いにも、髪はまたはえ始めたが、父方の祖父はその後がんになり、回復することなく47年に亡くなりました」

蘇る当時の記憶、核のない世界へ

一方、アメリカに戻っていた蠣田さんの両親はアリゾナ州のポストン強制収容所に収容されていた。当時の新聞が原爆投下の場所の詳細を記しており、両親は蠣田さん兄弟が爆心地からほど近い場所にいたことを知る。絶望の淵に陥っていたが、かすかな希望を胸に、さまざまな機関に2人の安否情報を問い合わせ行方を探していたという。すると数カ月後、赤十字が蠣田さん兄弟を見つけ出し、両親に2人の生存が伝えられた。

終戦を迎えると、両親と弟はロサンゼルスに移り、蠣田さん兄弟も1948年にアメリカへと戻った。こうして再び家族がそろい新たな地で生活を始めた。

帰国した蠣田さんだったが、原爆を投下したアメリカに対し怒りはなかったという。「シカタガナイ―」。蠣田さんはこう一言つぶやいた。

しかし、蠣田さんの苦しみはその後も続いた。「母によると、頻繁に悪夢にうなされていたらしいのです。またあの時見た光景から、血を連想させるレアの牛肉やミートソース・パスタなど赤色の食べ物が食べられなくなっていました」

克服できたのは10年が経過した後。81歳になった今も当時の光景は鮮明に蘇る。幼い少年にはあまりに辛く悲惨な体験だった。

「現在の核兵器は広島と長崎に投下された原爆と比較すると格段に威力が増している。世界を破滅させるだけの力はあるだろう。こうした核兵器を保有し、使用しようとしている国を私は理解できない」と力を込める。

「今年は原爆投下から74年を迎えた。核兵器は恐ろしい。日本は現在でも世界で唯一の被爆国。私はその被爆者のひとりとして、核兵器を廃絶すべきであると人々に訴えたい」

忘れようにも忘れられない被爆者たちの8月6日。世界で初めて核兵器が使用された日―。高齢化が進む中、被爆者たちは今も自身の体験を語り続け、同じ過ちが繰り返されないよう、平和への思いを胸に核兵器廃絶を訴える。

 

*本稿は、「羅府新報」(2019年8月16日)からの転載です。

 

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