Geovana Ayori Hayashi

1995年、ブラジルパラナ州マリンガに生まれる。1歳半の時に日本に渡り、以来大学卒業まで日本で育つ。2018年4月から、ポルトガル語を学ぶため、祖母の住むリオグランデドスール州イボチに住んでいる。

(2019年4月 更新)

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日系三世として生まれた私の決意 — その2

その1を読む >> 日本で苦労して私を育ててくれた両親 しかし、父も母も想像できないほど苦労をしてきて、私と姉の二人を言葉があまり分からない国で立派に育ててくれました。母は自分がブラジル人であることを隠しませんでした。彼女は日本人でも嫌がる学校のPTAの役員を小学校、中学校と引き受けやり遂げました。 私の母は決まっていつも保護者会の場で、「私はブラジル人だ。読み書きはそんなにできないけど、手伝えることがあれば何でもやる」と言っていました。だから私の母を知るお母さんたちは、「あよりちゃんのお母さんは本当に立派だ」といつも言ってくれていました。 父も働き者で、何も文句を言わず、いつも困ったときは相談に乗ってくれていました。私の父はとても努力家で、電気関係の資格を10近く持っています。そして今年は日本人ですら取るのが難しい電気工事士の資格を取りました。この資格を取るまでに約4年、毎年テストの時期には難しい用語と漢字がたくさん詰まった本を持ちながら一生懸命勉強し、今年やっと第二次試験の技術試験まで受かることができました。 私の両親は紛うことのない正真正銘のブラジル人です。でも私はそんな両親二人を心から誇りに思います。 そしてそんな両親を育てた祖父母たちも私の誇りです。私はこの一年間自分の祖母と暮らし、祖母がどんな経緯でブラジルに渡り、どのようにして生きてきたのかをたくさん聞く…

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日系三世として生まれた私の決意 - その1

私がブラジルに来る決意をしたのは、大学4年生の就職活動をしていた時でした。就職活動をする前までは、私は教員を目指していました。 しかし、4年生の5月に実際に教育実習に行って、教員という仕事がいかに難しく、大変なものであるかを実際に体験し、今の自分には向いていないものだと感じ、その道を志すことをやめました。 それから焦るように就職活動が始まりました。どこに行くのにも黒のスーツと鞄と靴を身にまとい、女性はみんな一つ結びの黒髪で、決まったテンプレートを面接で話して、あの時の自分は自分史上最も自分らしさを失っていたと思います。 私の親は私が学校に通っていた時、一度として勉強しなさい、宿題やりなさい、通知表の成績を上げなさい、学校でいい子にしていなさいなどと私に言ったことはありません。 しかし、私が学校で良いことをして先生に褒められたときや、勉強でいい成績を取ったとき、大学を合格したとき、必ずいつも私を認め、受け入れてくれました。だから、私はいつも自分らしく自分が進みたい高校、大学を選んで自分の生きたいように生きていました。 そして就職活動をしていた時も、親は私の事を常に見ていて、私が苦しんでいたのを知っていました。そんなときに母が私にこう言いました。 「今のあよりは全然あよりらしくない。もしも、自分がやりたいことが分からなくてどうしても辛いなら、ブラジルに行ってポルトガル語を…

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