私の祖父、松本若次は外国に住む父を手伝うために太平洋を渡り、芸術家となって祖国日本に帰国した。彼はカリフォルニア州ロサンゼルスと日本の広島という2つの世界に生きた日本人写真家だった。若次の写真は1900年初頭にロサンゼルスの農村で生活する日本人移民労働者たちの様子や、広島の人々の日常の生活や行事を生き生きと写し出している。
若次は、ロサンゼルスで農業をするかたわら写真について勉強し、ロサンゼルスにあった日本人カメラクラブで積極的に活動をした。またピクトリアリズム運動(写真の芸術性を確立させる動向)の先駆者でもあった。1927年に家族と一緒に日本に帰国した若次は、夢であったプロの写真家の道を歩み始める。彼は広島に「広島写真館」を開き、フリーランスで写真を撮り、また新聞社の専属カメラマンとしても働いた。若次の膨大な写真コレクションには、1945年の原爆投下前の広島市内と郊外の貴重な様子が記録されている。
米国滞在―アメリカへ移住した日本人たち
若次の父若松は日本の広島出身で、農業と漁業で生計を立てていた。末子だった若松は、当時の日本の法律では、長兄が家族の財産をすべて相続することになっていたので、兄のもとで働いても将来の展望は開けることはないと、カウアイ島で官約移民として働くことを決意し、1890年に妻のハルとともにハワイへ向かった。若松とハルは明治政府によってハワイへと送り出された約3万人の移民労働者の一員で、サトウキビ農場での労働に従事した。移民の多くは広島の出身だった。
夫婦の最初の子供である若次とマツは広島の祖父母の元に残された。官約移民としての期間を終えた後、妻ハルとハワイで生まれた2人の子どもは日本へ帰国した。しかし若松は農家になるためにロサンゼルスへと向かった。彼はラグーナ(現在はロサンゼルスの一部)にあった牧草地を借り、そこで野菜を栽培して売るようになった。
若次のアメリカでの暮らし
1906年、若松は息子の若次を自分の住むアメリカへ呼び寄せた。若次は農家としての経験がなかったので、ロサンゼルスでハウスボーイとして働き始めた。英語は仕事を通じて覚えたらしいが、私の祖母によれば用事を言いつけられた時の若次の返事はいつでも「オーライ(分かりました)」だったそうだ。彼のニックネームは「ワカン」だったが、白人の雇い主たちは日本語の名前が覚えられなかったのか、発音が難しかったのか、いつしか若次は「ジョージ」と呼ばれるようになった。雇い主たちは「ジョージは何でもオーライだな」といつも言っていたそうだ。ハウスボーイとして働き英語を覚えた若次は、父の経営する農場で働くようになった。
若次は以前からグラフィックデザイナーになるのが夢だったのだが、父は息子が芸術の道に進むことに反対した。若次は農業に興味が持てず、畑で働くことが好きになれなかった。代わりに馬車でロサンゼルスの7番通りにある市場へ青果物を配達することを好んだ。
父の農場で何年か働いた後、1912年に若次は私の祖母である木村テエと結婚する。彼女は写真花嫁だった。テエの兄が若次の友人だったので、遠く離れていた2人の結婚話を取り仕切ってくれたのだ。テエは侍の家の出身で若次とは同郷だった。そして農業のことは何も知らなかった。
若次は農業に全く興味を示さなかったので、若松はテエに農場経営について教え、監督者に育てあげた。テエは日本人とメキシコ人の労働者を雇い、彼らの仕事を監督し、食事を与えるなど、農場経営にうってつけの人物だった。そんなテエに農場を安心して任せられることがわかり、若松は1917年に日本に本帰国した。
1927年までに若次とテエは8人の子供に恵まれた。長男の博(ロイ)、続けて武、勤(トム)、昇、春枝、勲、静枝、悟。悟は生後9か月で亡くなった。子育てをしながら農場の仕事もして、家族と労働者たちを食べさせるのは本当に大変だったと私の祖母はよく話していた。メキシコ人労働者のためにスペイン語を習い、トルティーヤの作り方まで覚えたという!
父が日本へ帰国した後、若次はようやく自分が本当にやりたかったことを始めた。農場の仕事と配達を続けながら、通信教育で写真を学んだ。そして写真に夢中になり、プロの写真家になりたいと思うようになった。彼がサンディエゴの写真学校で勉強している間は、テエが農場を切り盛りし、家族の面倒を一手に引き受けた。若次はその後リトル東京にあった「東洋写真館」で助手として働き始めた。宮武は当時よく知られた写真家だった。若次にビスケットという物を初めて焼いてくれたのが東洋家の人たちだった、と祖母は話してくれた。
若次は宮武のもとで働きながら写真家としての腕を磨き、リトル東京を拠点とする日本人カメラ・ピクトリアリスト・オブ・カリフォルニア(JCPC)に入会した。彼はロサンゼルス近郊にあった日系移民たちの働く農場を被写体にして素晴らしいパノラマ写真を撮影するようになり、ピクトリアリズムの新しい芸術様式を試みるようになった。祖母によると、若次が著名な写真家たちと出会ったのもちょうどこの頃で、その中にはエドワード・ウェストンやアンセル・アダムスもいたそうだ。
JCPCは、地方各地へ写真撮影ツアーに出かけ、作品展やカタログ作成などを行った。会員たちは写真を見せ合い、芸術界で起きていることについて討論し、さまざまなスタイルを作品に取り入れた。若次の作品の中には、20世紀初頭のピクトリアリズム運動で広まったソフトフォーカスと物語性のコンセプトが見受けられる。
1920年代の松本農園は利益を上げていたが、悪天候による不作の年が何年かあった。1923年になると白人農家からの圧力もあり、カリフォルニア州では外国人土地法が強化された。その結果、日本人による土地の所有や小作は禁じられ、日本人農家は大きな失望を味わった。これと同じ頃、ロサンゼルス周辺では多くの日系人の写真家が活発に活動するようになった。若次が日本に帰国して自分のスタジオを開こうと決めた理由は、おそらく農場経営の経済的な困難と他の写真家との競争があったためだと思われる。
日本でプロの写真家へ
農場で得た収入で若次は最新式のカメラ機材を買いそろえ、日本に持ち帰ることができた。そして、広島市内の猿楽町(さるがくちょう、現在の中区紙屋町)に「広島写真館」を開業した。現在その場所にはそごうデパートが建っているが、かつてそこに若次の広島写真館があったことを示す小さな銘板が今も残っている。
若次は中国新聞社のカメラマンとして働き、バラなどの花を題材にした写真を撮ることから始めた。生け花から写真のヒントを得たと若次はよく話していたそうだ。
若次は広島コガクラブで、写真愛好家を集めた撮影ツアーを主催した。彼の写真家としての腕は確かで、それに、まだ日本になかったカメラ機材を持っていたのは有利だった。彼の写真は高く評価され、撮影の依頼が途切れることはなかった。
若次はスタジオ撮影と商業写真の両方を手掛けた。軍関係の仕事も引き受けるようになり、軍の高官や活動、行事などの撮影も行った。また広島市やその近郊での暮らしぶりも数多く撮影した。この時期に撮影された多くの写真は、のちに原爆によって失われた人々や行事、そして場所などの唯一の記録となっている。
1942年には戦争が激しくなり、写真用品である薬液や機材が軍需品となり、入手が困難になった。若次は写真館をたたみ、家族と田舎へ疎開することになった。機材や備品、撮影した写真、家財道具などを馬車に積み、広島市内の写真館から約16キロ離れた実家のある地御前村に一家で引っ越した。
疎開後すぐに政府による勤労動員に徴集され、若次は山口県宇部市の炭鉱で働くことになった。このときに若次は深刻な肺の病気を患い、その後ずっと悩まされることになる。祖母の話によると、酒が飲めなかった若次は、自分の分の酒と引き換えにきつい仕事を免除してもらっていたらしい。また、宇部の山林で野生のキノコを採ってきて、それを売ってタバコ代にしていたそうだ!
炭鉱での勤労動員を終えた若次は広島の郊外にある地御前に戻った。自宅には小さなスタジオと暗室があったが、1945年3月の米軍による空襲で、そのスタジオも、残っていた機材や備品もすべて破壊されてしまった。写真で生計を立てることは不可能になったが、奇跡的に写真とネガは無傷のままだった。
原爆の爆心地から16キロ離れた田舎に住んでいても、若次とテエは原子爆弾の閃光と衝撃波を身体に感じたという。原爆が投下された時、祖母は外で洗濯物を干していた。空で何かがピカッと光り、広がって落ちてきたという。あれは爆発の衝撃波だったのか、それとも民話に出てくる人魂だったのだろうか?村は直撃を免れた。そこで祖父母は、広島市に行き、生き残った人の中に親戚がいないか、ガレキをかき分けながら探した。いとこを見つけたので、荷車に寝かせ、連れて帰ろうとしたが、帰り道で息を引き取ってしまった。
戦時中の若次とテエの経験には、もうひとつの展開があった。戦争が始まったとき、2人の息子、博(私の父であり、長男のロイ)と勤(トム)はアメリカに住んでいて、2人とも米軍に入隊したのだ。日本に住んでいた3人の息子は日本軍に入隊し、武は広島の呉海軍基地、昇はガダルカナル島、そして勲は中国にいた。
祖父母はアメリカにいる息子たちと連絡がまったく取れない状況で、彼らが米軍に所属していることも知らなかった。私の父ロイは、陸軍情報部の日系二世通訳者であり、のちに有名になったメリル襲撃隊とともにビルマ戦線で日本軍と戦った。ロイが自分の兄弟と直接戦うことはなかったのは幸いである。若次の家族は全員、無事に戦争を生き抜き、占領下の日本で再会を果たすことができた。
原爆投下後の広島は、街もインフラも破壊され、暮らしは困難を極めた。暗室も写真の機材などもすべて失い、若次は写真を生業とすることを諦めた。
私が家族で日本を訪れて、若次に会ったのは、10歳のときだった。その数か月後に若次は他界した。私は祖父が写真家だったことはボンヤリと理解していたが、写真の腕前や、芸術的な素質は知る由もなかった。炭鉱での労働で体調を崩し、祖父は1965年に76歳でこの世を去った。もっと祖父のことを知りたかったと思う。
2007年、若次の末娘である静枝の息子で、私のいとこにあたる大内斉(ひとし)が実家の納戸に若次の写真があるのを発見した。実は1942年から若次はそこに写真を大切に保管していたのだ。写真は危うくゴミとして捨てられるところだったが、幸運なことに自身も写真家である斉がその価値を見抜き、救ってくれた。斉は広島市役所に連絡を取り、広島市公文書館に写真を寄贈した。現在も写真はそこに記録として保管されている。そのほとんどが、長い間、誰の目にも触れることのなかった戦前のカリフォルニアと日本の写真である。
現在、若次が戦前に撮影した広島の写真が、広島平和記念資料館に数点展示されている。これらの写真には原爆投下前の広島での行事や活気ある様子が写し出されている。館内に入ると、まず出迎えてくれるのが、壁一面に広がる象徴的な写真。若次が1938年に撮影した広島県産業奨励館(現在の原爆ドーム)である。祖父の写真が日米間の文化的理解の架け橋となり、移民、人種や経済的不平等、核拡散の影響、世界平和などの現在の社会問題が、根底では実は歴史と深くつながっているのだと人々が写真を通じて理解してくれることを心から望んでいる。
*著者あとがき:祖父若次に関する私の知識の多くは祖母のテエ、父のロイ·マツモトそして日本のいとこの斉から聞いて学んだものである。私が祖父と会ったのは10歳の時の一度きりで、それは彼が亡くなる数か月前のことだった。少しばかり気難しい人だったように記憶しているので、祖母から祖父にまつわるたくさんの話を聞かせてもらった。いとこの大内斉(若次の孫息子)が、松本家のオーラルヒストリーとして家族が語った記録をまとめてくれたので、それも参考にしたことを挙げておきたい。
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このエッセイは、全米日系人博物館のオンライン展示「松本若次:二つの世界を生きた芸術家 ロサンゼルスと広島、1917〜1944」に合わせて寄稿されたものである。オンライン展示では、若次による戦前のロサンゼルス地域の日系アメリカ人コミュニティ、1945年の原爆投下前の広島市内の生活の様子をとらえた貴重な写真に加え、両都市の日々の生活を芸術的にとらえた写真なども含まれている。
オンライン展示はこちら:janm.org/ja/exhibits/wakaji-matsumoto.
© 2022 Karen Matsumoto