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一世の記録を拾い集めた男 ~加藤新一の足跡をたどって~

第19回 被爆直後の中国新聞と加藤

原爆による広島の街と人の惨状を目にしたこと、そして弟と妹を原爆で失ったことは、のちに加藤新一が平和運動に邁進する原点であった。

前回紹介した、被爆当日に広島市内を駆け回った加藤の手記のなかで、弟、妹の死についてはこう記されている。

弟省三(当時廿四才)は原爆三日後、妹文江(当時二二才)は一ケ月後に「兄さん仇を討って――」と死んでいったが、無数の犠牲者が屍体も不明のまま、広島市中央を南北に二分し、南を海軍、北を陸軍が、被爆四日目ごろから低地に屍体を集めて積みあげ、油をかけて焼(酷暑で悪臭とハエがわくので)いて片づけたのに比べると、簡素ながら近親者で葬い得たことはせめてもの救いであった。


死没者追悼平和祈念館に 

二人の被爆については、これ以上は触れられていないが、どのような状況で亡くなったのか、加藤の甥にあたる吉田順治さんが教えてくれた。わかる範囲の情報は、広島平和記念公園のなかにある国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に登録されているという。

ここでは、原爆死没者を追悼し、原爆で多くの人が亡くなった事実を伝えるため、死没者の名前と遺影(写真)を登録している。

記念館の地下2階に、亡くなった人々の遺影と名前が記されている。また、ひとり一人について検索して呼び出すことができる。「加藤省三」「加藤文江」を探すと、若い二人の顔写真がでてきた。

丸刈りに丸眼鏡をかけた理知的な顔立ちの省三さんは、ネクタイ背広姿だ。被爆時は23歳で、広島県農業会に勤めていた。被爆場所は、広島市十日市町(現在の広島市中区十日市町一丁目)。爆心地から数百メートルの所。被爆後の夕方大田川東原の川岸から船で、東区戸坂の吉田さん宅までたどり着いたが、顔、首、両手をやけどし、翌9日に亡くなった。

文江さんは、セーラー服姿でわずかにほほ笑み、はつらつとした表情だ。被爆時20歳で、広島市八丁堀(現在の広島市中区)の広島県食糧営団に勤めていて被爆した。被爆後の夕方にトラックで郊外の可部を経て16日に吉田さん宅に来た。18日に加藤の住む平良に行き、20日からは勤めにも出た。しかし8月末から髪が抜け出し9月5日に亡くなった。

かつてはアメリカで暮らしていた加藤が、この妹から言われた「兄さん仇を討って」というアメリカへの憎しみの言葉をどう受け止めたか定かではないが、少なくとも最終的には、「戦争を仇」と思って活動したことは想像に難くない。 


復刊に向かう中国新聞 

身内をなくし、加藤自身も被爆当日、爆心地付近をふくめ市内を駆け回ったことで放射線被ばくした。22年後の昭和42年に加藤は被爆者健康手帳の交付を申請している。被爆時にはものかげにいたが、被爆後半年の間に発熱や下痢の症状があったという。しかし、被爆後はすぐに職場に復帰し、加藤同様に難をのがれた同僚とともに動き回ったようだ。

中国新聞の本社は原爆で全焼し、輪転機も焼け、電話電信も途絶えるなどし新聞が発行できなくなっていた。仕方なく唯一の通信手段だった軍の無電を通して、朝日新聞、毎日新聞の大阪、西部本社に頼んで“代替紙”を届けてもらい、「中国新聞」という題字の下に、小さく「朝日新聞」「毎日新聞」という題字も併記して、被爆3日後の8月9日付から発行した。

広島への原爆投下について新聞各紙は、8日付で報じたが、「原子爆弾」と書くことはできなかった。戦争終結の詔書が掲載された16日付の中国新聞(代替紙)でようやく、広島でも初めて「原子爆弾」と報じられた。

被爆直後から記者、カメラマンは惨事を記録しようとし、また、紙も墨汁もないなか口伝えで情報を市民に伝えるなどした。なんとか自力で印刷をするため、被爆前に広島市郊外の温品村(東区)に疎開させてあった印刷機を使って新聞を発行するまでにこぎつけ、9月3日付で戦後初めて自力印刷の紙面をつくった。

この時の1面のトップでは、前日(2日)に、東京湾上のアメリカの戦艦ミズーリで連合国と日本との間で降伏文書が確認されたことが報じられた。連合国側はダグラス・マッカーサーが、日本側は重光葵外相らが署名した。


ジュノー博士の通訳、案内として 

自力発行のこの日、ニューヨークタイムズ、AP通信などアメリカの従軍記者が米軍広報官や通訳の日系二世らとともに被爆地に入り、爆心地一帯を歩いて惨状を目にした。この後、県警察本部の特高課長や記者たちと会談した。

さらに5日後の9月8日、原爆投下の指揮をしたアメリカのトーマス・ファーレル准将が率いる調査団が広島に到着。調査団には、赤十字駐日首席代表のマルセル・ジュノー博士が同行していた。本連載「第6回」で記したように、このとき、ジュノー博士の通訳兼案内を担ったのが加藤新一で、県に頼まれてジープに同乗した。

広島市の平和記念公園内にたつ、マルセル・ジュノー博士記念碑

10日付の紙面では、原爆についての同博士の談話として「われわれはかかるものを二度、再びしようしないですむやうつとめなければならない」という言葉が紹介されているが、これは加藤が通訳したものだろう。

のちに、甥の吉田さんが語るところでは、加藤の英語は、日本人的な英語発音で決して滑らかなものではなかったという。

ようやく自力発行し広島からの被爆の情報などを発信できるようになった中国新聞にまた試練が襲う。9月17日、まだ原爆から40日しかたっていない広島を枕崎台風が襲い、暴風で温品村の輪転機も使い物にならなくなる。広島市民、県民にとっても原爆に追い打ちをかけるような被害をもたらし、県沿岸部を中心に2012人の死者が出た。

温品をあきらめた中国新聞では、焼けた本社を修復し業務を再開することを決める。残留放射能の心配があったが、専門家に尋ねたところ「大丈夫」だとの回答をえて、本社への復帰作業をすすめた。そして被爆からおよそ3ヵ月後の11月5日付から、周囲は焼野原の本社で自力発行をはじめた。

この復刊に先立ち、同紙では職制を改め人事移動を行った。そこで加藤新一は政治部長となった。

(敬称一部略)

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※参考「1945 原爆と中国新聞」「中国新聞八十年史」(ともに中国新聞社刊)

 

© 2021 Ryusuke Kawai

abomb chugoku shinbun Hibakusha Hiroshima Shinichi Kato

このシリーズについて

1960年前後全米を自動車で駆けめぐり、日本人移民一世の足跡を訪ね「米國日系人百年史~発展人士録」にまとめた加藤新一。広島出身でカリフォルニアへ渡り、太平洋戦争前後は日米で記者となった。自身は原爆の難を逃れながらも弟と妹を失い、晩年は平和運動に邁進。日米をまたにかけたその精力的な人生行路を追ってみる。

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