南フロリダの大和コロニーの一員として渡米、コロニー解体後もひとり最後まで現地にとどまり生涯を終えた森上助次は、戦後、義理の妹一家にあてて手紙を書きつづける。故郷のことを常に心にとめながらひたすら畑仕事に精を出す。「妻子もいないのにそんなに働いてどうする、お前はバカだ」という声も聞くが、「まだなすべき事業がある」と、自分に言い聞かせる。
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1952年○月×日
美さん、あなたに探して頂いた楠田糸子さんも今は森静香さん。あんたと同じ病気で悩んでいられて戦災で無一物になられた上、地震(※1927年3月7日の北丹後地震)で二人の子供は焼死、夫君は同じ病気で五年前に亡くなり止むなく息子の世話になっているとのこと。
私の故郷の滝馬(宮津市)の方ですが、同じ様な境遇の人がいます。若い時未亡人となり一人息子を苦労して育て上げました。東京の大学に入学したほどの秀才でしたが病のため斃れ、彼女は今は故郷へ一人寂しく余生を送っていられる。(注:助次が渡米前結婚を申し込んだ女性、鬼沢はつのことを言っていると思われる。この時の失恋も助次が渡米するきっかけとなった。)
〈不平、不満を言うまい〉
1952年○月×日
美さん、今日は久し振りに畑で働きました。作物は何一つありませんが、旱魃と暴風で荒れ果てた畑を、終日トラクターで鋤き返しました。病気とはいえ、永い間遊んでいるとロクな事は考えません。働いたお蔭で今は人間らしい気持がします。
数ヵ月にわたった旱魃も終わりを告げ、夕方から降り出した雨はなおシトシトと降り続けています。昨年も秋頃、降りだして3週間近くも続きました。北部行きに作り上げた苗物は全滅、大損をしました。もう、コリゴリだ。今年は一本も植付けませんでした。
今年はどこでも天災が多く、加州の洪水、今度は当国西北部州の暴風・洪水で数百人の死者がでました。
国の為とはいえ、戦場の露と消える多くの若い人達、飛行機の墜落、汽車の転覆や自動車事故で惨死する多くの人達と比べると、お金がない、物事が思うよう行かぬ不平や憾みを言うのではなく、世の中に大感謝すべきだと思います。
昨日、山内君(※マイアミにいる同郷の友人)から手紙が来ました。近ごろは丈夫に働いているそうです。遊びに来いと。妻君は自慢の巻酢飯をご馳走してくるようです。
タウンに住む一友人の畑を手伝ってやりました。住宅の裏の一反歩で、空き地をトラクターで整地してやりました。水瓜を植えるとのこと。当人はフロリダ州第一流の新聞、マイアミヘラルドの販売取次をしています。1か年分の購読料(21ドル)をお礼でくれました。マイアミには2、30人の日本人がいます。ほとんど家族持ちですが、子供はごくわずかです。
彼らは苗木屋、日本雑貨店、飲食店を経営していて、皆相当に成功しています。2,3の人は来月頃、帰国するらしいです。誰もが歳をとるとやはり故郷は恋しくなるようです。これは人間、自然の情でしょう。私も早く切り上げたいと思いますが、中々思うようにいききません。左様なら。
GEO
〈優しい言葉の手紙に涙〉
美さんへ
サンデーは父の日だった。御馳走するから遊びに来いとマイアミの山内君から手紙が来ましたが、都合が悪くて行けませんでした。ご依頼のクックブック、適当なのが見かり次第送ります。今日の為替で50ドル送ります。余り僅かで、焼け石に水、今暫く我慢下さい。土地さえ売れればもっと送れます。猫が子を三匹生みました。これで7匹、中々賑やかです。病気せぬ様、注意して下さい。
GEO
美さん
早速の返事を有難う。色々とお優しいお言葉、私は繰り返し、繰り返し読んで涙ぐむほかありませんでした。
私に急に真の妹が出来たような気がしてなりません。真に甘えてくれる人がなくて、心淋しく思えていました。ある種の責任を感じます。人間には刺激が必要です。とくに私のような境遇にある者はなおさらです。よく知人や友人から「お前は馬鹿だ、スレーヴ(※奴隷)のように働いてどうするんだ。妻もなく子もないのに小金貯めたって……」と、言われます。
確かに一つの真理だ。しかし、彼らは私の真の目的なり希望なりを知らない。私にはなお多くのなすべき事業がある。資金の不足で中々はかどらないだけだ。
〈マイアミ行きの列車の音が聞こえる〉
トメトーの摘み取りで多忙を極めて居ります。午後から降りだした雨は一寸止みそうもありません。トメトーに降雨は大の禁物、今年くらい天候不順な年は初めてです。
今、夜の12時5分前、マイアミ行きの列車がパスするのが聞こえます。夜の12時といえば故国の昼頃、午飼の支度で忙しいでしょう。母の作った茄子や胡瓜の漬物は忘れられません。
送ってくれたあなた方の写真、昨年夏の大暴風(時速150マイル。日本を襲うタイフーンと同じです)でも紛失せず所持しています。
最近お撮りになった写真がありましたら、一葉お送り下さい。私は写真を20年来、撮りませんからお送りできません。以上。
1952年○月×日
〈11年ぶりに日本の雑誌を〉
美さん、不在中、到着のお手紙、昨夕うけ取りました。幹男さん(※美さんの息子、助次の甥)が大けがされたらしいが、出血位で幸いでした。私も少年時代は乱暴で不注意で、熟柿を盗んだり、登った樹から落ちて腕を折ったり、負けん気が強くて高い橋から急流に飛び込んで溺れたりしました。
夜間、無燈でのサイクリングはこの国ではキツイお法度。それに自動車にはね飛ばされて死んだり、大ケガする者が年々、数百人とあります。大部分は20歳未満の少年です。
11年ぶりに日本の雑誌を読みました。中央公論、改造、富士、キングなど。故国が自分の想像しいていたのとは大違い。余りの大変化にただ驚くほかありません。こちらは別に変ったことはありません。私もいたって丈夫です。ご機嫌よー。
GEO
1952年11月6日
美さん
永らくご無沙汰しました。一ヵ月半にわたる降雨の為、畑の仕事はたまり人手不足で休む間もありません。昨日は私の生まれた日でしたが、終日、夜の7時まで働きました。
フロリダも急に涼しくなり、夜になるとかなり冷えます。今朝の1時半過ぎですが、気温は65度(約18℃)、多分朝近くは45度(約7℃)にも下ると思います。寒さに弱い私は50度(10℃)にも下がると縮み上がります。カンカン照りつける百度近い夏が恋しくなります。近頃、私は至って壮健、風邪一つひきません。
米治(※助次の末弟)の墓が建ってなによりです。政平(※助次のすぐ下の弟のこと)が費用全部を負担するというのは、させた方がいいではないでしょうか。あなたのご心中は充分お察ししますが、彼が弟の為にすると言うなら心よくさせた方がよろしいと思います。
甘藷の輸入許可証はまだ来ません。来次第、タキイへ直接送ります。また少し眠くなりました。朝までにはまだ3時間余りあります。ひと寝入することにします。
11月6日朝
(※、括弧は筆者注)
© 2019 Ryusuke Kawai