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孤独な望郷 ~ フロリダ日系移民森上助次の手紙から

第9回 京都に帰って余生を過ごしたい  

南フロリダの大和コロニーの一員として渡米、コロニー解体後もひとり最後まで現地にとどまり生涯を終えた森上助次は、戦後、夫(助次の弟)をなくした義理の妹一家にあてて手紙を書きつづける。何年にもわたるやりとりのなかから、実の家族同様の気持ちになり、互いに一緒に暮らそうという話もでてくる。だが、障害もまたいろいろある。

* * * * *

1952年9月14日

美さん

また永らくご無沙汰しました。済まなく思いながらもつい忙しいのと疲れのため、一日一日引き伸ばしとなりました。本月に入ってから台風が2回やって来ました。最初のは時速110マイル、次のは150マイルで来襲しましたが、近くまで来ないで北へそれたので何の被害もありませんでした。

ここ一週間ほどは、ほとんど毎日の降雨で蒸し暑く実に不愉快です。夜はまた蚊が多くて裸体で外には出られません。

シンガーミシンは名が売れているだけこの国でもずっと値が張ります。お隣の花屋さんのミセスもポータブルシンガーを使っています。極小型で目方は僅かです。携帯型なので旅行にもつかえ便利です。値は125ドル位とのこと。昨今、シンガーの古物を直し、五年間保証付きで25ドル位で売り出しています。新品と見分けがつかないくらい立派です。多分、日本へも沢山輸出されていることと思います。日本製も沢山来ています。品が好くて値が格安なので中々好評ですが、上等物は150ドル位です。

玲子さんには日本製のポータブルがよろしいと思いますが、これをあなた方で選んで下さい。近日中に送金します。


〈あなたを呼んでもいいが……〉

故郷、宮津の小学校建築のため、森上が寄付をしたことを知らせる記事(1960年2月8日、産業経済新聞)

ご承知のように私は、土地はたくさん所有して居りますが、お金がないのです。その上、多少の借金があったので、土地の一部を安値ではあったが、背に腹は代えられず売って借金だけは返済しました。

残りの土地280エーカーを普通に売れば、6、7万ドルの価値はありますが、土地の売買は品物とは違って一定の価格というものがなく、駆け引きが中々難しいので取引も時間を要します。

あなたとの約束の三か年も残り少なくなりました。私も来たる11月には67歳になります。早く帰国して余生をあなたと過ごしたい。京都の郊外か、宮津湾の近くにささやかな住宅を建て好きな野菜作りや花いじり。晴耕雨読の新生活を営みたい。あなたの渡米も不可能と思われませんが、できても余程考えねばなりません。

西部地方のように同胞が多いならば言葉が不自由でも大した事にはならないが、当地のようにほとんど日系がいないところでは言葉ができぬ位、不自由でみじめなことはありません。山内君の細君などがいい例です。アメリカに何十年も居ても、話ができるのは夫君とだけ。如何に物質的に恵まれても寂しさの余り知らず知らずの間にホームシックに陥ることも。

あなたはまだ若い。四十五、六歳は女の盛り、私が無能なためあなたを犠牲にする。是が何より耐えられない。私が苦痛だというて、外に好い策もありません。これは私の考え。あなたのお考えも腹蔵なく言って下さい。お互いのためです。

種なし水瓜は好結果でした。見かけもよし、味も。ただ一つの欠点は熟すとス(隙間)が入る。種子は白くて小さくやわらかですが、真っ赤な肉との配合が思わしくないです。外に、二、三の新種を試作しましたが、結果は思わしくありませんでした。

この頃は食欲も進み何を食べてもおいしい。いずれ遠からず四、五听太ることと思います。甘藷が沢山できました。近ければウンと送って上げたい。日本の種類を試作したいのですが、詳細は次便。お金は近日中に送ります。さようなら。


1953年1月×日

〈サンドストームも襲来〉

美さん

返事が随分遅れました。済みません。何としても少しでも送金をしたい思い心痛ですが、有りそうで無いのはお金。昨年の税金も後一か月内に納めねば……。

うち続く寒波と暴風で折角作り上げた作物は全滅、昼夜兼行で植え替えをし、やっと生え揃ったとおもったら今度はサンドストーム(砂嵐)の襲来、大損害を蒙りました。幸いペッパー(唐辛子)の苗は助かりましたので植付け中ですが、気候は悪いし、肝心の人手が足らぬ上、法外な賃金を払はねばならぬので大変です。

昨日はサンデーでしたが、夕方遅くまで働き、疲れていいたので一寸ひと休み、土足のままでベットに横たわって寝入ってしまったのです。

今、夜中の1時過ぎ、寒い北風がビュービュー吹いています。温度51度(約11℃)と、かなり冷たく、当地方もフルーが流行しています。隣の花屋さんもフルーで2週間休みました。しかし、私はいたって丈夫、安心して下さい。


1953年1月×日

〈市民権を得てあなたに来てもらう〉

美さん

気候が悪く相変わらず不順、作物は何一つ思うように育ちません。早く3月になってくれたら……。気候に左右されず百姓はポカポカと温かい春の日和を待つ。今日は天気がよく温度はかなり高いにもかかわらず少し冷えます。

今、午前9時過ぎ、室内温度70度(21℃)です。昨夜は咳が出てよく寝られなかったので、今日は休むことにしました。

お金はまだ都合できません。日本と違い、土地を抵当に銀行から融通してもらうのは不可能です。最後の手段として農具を抵当に借りることはできますが、これはよくありません。私が不安に思うのは、一時都合はできても、却って害あって益なしです。

GI(※進駐軍の下士官を指す。米兵のこと)のお嫁さんが日本から続々渡米します。また一世の同胞は市民権獲得におおわらわです。   

私は一時、帰国を決心しておりましたが、土地が思うように売れなければ、方針を変更せざるをえません。市民権を得た上あなたに来て頂くよりほかありません。これは不可能ではないと思います。

タウンの一土地周旋業者がやってきて、私の土地の一部を買いたいと言ってきました。こちらの希望する値段とかなりの開きがあるので、急にはまとまりますまい。双方が歩み寄って相当の価格で売れることと思います。土地売買は急いでは事を仕損じます。


1953年3月31日

〈月が冴えて戸外は昼のよう〉  

(甥の岡本脩宛て)

脩さん、先だってはありがとう。お蔭で傷の経過は極めて良好。食欲も日一日と進んできました。暫くは死ぬような事はなかろう、と思いました。 

学校を卒業され、なによりおめでとう。あなたもいよいよ実社会に旅立つのですね。これからは、思うように行かぬ事があっても決して悲観したり、無理したりせぬようにしてください。世の中の事は決して理想通りにいかぬようです。私も若い時代に随分苦しみました。知らず知らずのうち無理をしました。

日中は華氏80度(27℃)、夜は60度(16℃)内外。軟風(そよかぜ)が吹き空気は乾燥しているので、夏90度(32℃)以上に昇ってもさほど苦しくありません。私などすっ裸(上半身丈ですが)です。

終日、畑で働き、別に珍しい事も面白い事もありません。日本人ともほとんど一年近く逢いません。病気の時など、近所の人たちは親切にしてくれます。私の病中、ほとんど食欲がなかった時など、友人の細君はわざわざ私の好物のパンプキンパイをベークして持って来てくれました。

気分の好い時には畑へ出て土いじりをします。新聞や雑誌を読むのがいま何よりの慰めです。故国の記事ほど懐かしいものはありません。今夜は月が冴えて戸外は昼のようです。くれぐれも健康に注意して下さい。おやすみなさい。

追伸
畑の上が飛行機の通路(南北)になっていたので日中は中々騒々しいですが、夜中は極静かです。戦時中は夜昼ずっと通して飛んでいました。

(敬称略、※は筆者注)

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© 2019 Ryusuke Kawai

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このシリーズについて

20世紀初頭、フロリダ州南部に出現した日本人村大和コロニー。一農民として、また開拓者として、京都市の宮津から入植した森上助次(ジョージ・モリカミ)は、現在フロリダ州にある「モリカミ博物館・日本庭園」の基礎をつくった人物である。戦前にコロニーが解体、消滅したのちも現地に留まり、戦争を経てたったひとり農業をつづけた。最後は膨大な土地を寄付し地元にその名を残した彼は、生涯独身で日本に帰ることもなかったが、望郷の念のは人一倍で日本へ手紙を書きつづけた。なかでも亡き弟の妻や娘たち岡本一家とは頻繁に文通をした。会ったことはなかったが家族のように接し、現地の様子や思いを届けた。彼が残した手紙から、一世の記録として、その生涯と孤独な望郷の念をたどる。

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