ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2019/3/22/sukeji-morikami-5/

第5回 一瞬にして資産家になったことも

南フロリダの大和コロニーの一員として渡米、コロニー解体後もひとり最後まで現地にとどまり生涯を終えた森上助次は、戦後、義理の妹一家にあてて手紙を書きつづける。入植してからの日々を振り返り、不幸にも実らなかった婚約者との秘話や、土地バブルで大金を手に入れたことも報告している。

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1950年○月×日

〈盆と正月が一緒に〉              

美さん。

今日は何という吉日か。懐かしい手紙が来て待ちに待った写真も来て、私は盆と正月が一度に来た様な喜びでした。子供さん達は皆、御立派になって御苦心の程がわかります。あなたの若さ、美しさ、全く予想できず、今朝、郵便局で写真を見つめていると、突然「オイ、誰の写真だい。この日本の婦人は誰だ」と、私の親友のアロンスマック君が聞くのである。

「これは以前話した死んだ僕の弟の細君だが、君には何歳ぐらいに見えるか」と聞くと、即座に27、8歳だという。そこで事実を話すとテンデ信じないのです。「日本は苦しいだろうからこちらへ呼び寄せ給へ」という。アメリカ人は無邪気で、思う事を何でもポンポン言ってしまうようだ。

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美さん、煙草はいけますか。こちらの婦人達で煙草をのむ人は珍しくない。まあ一種の流行ですな。若い婦人の喫煙は見ていても悪くはないですが、六十、七十のお婆さんがシガレットを指の間挟んでプート吹く図は余り見ていていいものではない。

ストリート等で二口、三口、パクついてポンと捨ててしまう。不評判極まる。ひろい上げたいような気がします。

今日も終わり、茄子ちぎり、黒人がピックする。私は一々丁寧に紙で包んで箱に詰めるのです。後、二、三回で今年の作は終わりを告げます。

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私はまだ農園の仮小屋に住んで居ります。作のすみ次第、タウンに移る予定です。冬季は避寒客が多いのでレント(家賃)が法外に高く、寝室一間…20弗以上、到底貧乏百姓の手におえません。

夏期には10弗内外でキチネット付のルームが借りられます。昨年の秋、時速150マイルの暴風雨のため、住宅を壊され、一時しのぎでウエヤハウスの一部を改作して住んでいます。作のすみ次第、二間でキッチンとポーチ付のを一軒建てる予定です。

なお建築材料が高いのでちょっとした家を建てるのも五、六千弗を要します。幸い、戦時中購入した製材機一式があり、大工を雇はずに自ら建てれば二、三千弗で家ができます。独身者の私には住む家等は大した問題ではありません。


〈婚約者の突然の死に〉

1924年の夏、六千弗を投じ当時町一番という加州式バンガローを目抜の場所に建てました。……結婚を予定した相手は獨乙(ドイツ)系の紐育(ニュ—ヨーク)市生まれの美しい娘でした。紐育の一大農産会社のセクレタリーで18歳。ひと冬、避寒で主人公と来た際、過ごしたのですが、家が出来上がる2週間ほど前に突然病気で死んでしまいました。

森上助次が建てたと思われるバンガロースタイルの家 (©Morikami Museume & Japanese Gardens )

そこで私は家が出来上がり次第売り払い1932年に切開手術を受けるまで、ホテル住まいし、農産物売買を盛んにやり、1925年及び26年の土地熱に乗じ、随分思い切った投資をやり一躍、数十万(?)弗の財産家となりました。

何分、一英町(エーカー)、僅か百弗足らずで買った土地を2年後には4千弗で売り払ったような有様です。銀行の株主になったり、木材会社、ホテル業などあらゆる事業に関係してカー(オートモヴィル)の二、三台も持って大尽風を吹かせていました。しかし、好事魔多しとやらで、1926年末のデプレッション襲来と共に関係していた銀行はショーギ倒し、一朝にして無一物となり、生活にも困る様な悲惨な境遇に陥りました。

数週間に亘って日夜、資金の調達に奔走し、やっとの事で五千弗を融通してもらい、またまた農産物売買業をして五ケ月後には五千弗近い純益を得ました。

1932年、切開手術を受けることになりました。財産を作りましたが、医師の勧告により元の百姓へもどりました。

1941年の開戦後、また病気はするし事業は失敗がち、辛うじて今日まで継続してきた次第です。

話がとんだ所へ飛びました。こんな不景気な話は止めましょう。ご存知の通り私は自分自身に愛想が尽きました。永い間には随分恋もし、恋もされました。しかし最後には背負い投げを食らったので、一生恋は再びすまいと心に誓った次第です。私の孤独生活の理由、略(ほぼ)お分かりになった事と思います。夜も大分更けました。

今日も無心に働いていると、兄さん兄さんと静かに呼ぶやさしい声がしました。はっと思って目を上げるとあなたが微笑みながら立って居るではありませんか。美さん、と呼ぼうとすると、あなたの姿は忽然と消え去りました。 

お写真はフレームにして私のデスクの上に置くことにします。朝夕眺める毎に慰めとなり、また励ましとなりました。どうかくれぐれも病気などせぬようにしてください。では左様なら。

                                                                               北米の兄より

1950年○月×日

〈トコロテンが食べたい〉

美さん・脩さん。お心尽くしの小包、今夕うけ取りました。早速お茶をたて、久しぶりに日本の菓子を賞味しました。数の子は次のサンデー(11日)に食べる予定です。中々好い醤油が食品店で売っております。一合入り位の瓶が25セントからです。

12回目の寒波が一昨日の夜、やってきました。今日は余り咳がでず、3月に入って暖かくなれば自然に治る事と思います。

* * * * *

今日は久し振り終日雨が降りました。永い間の暑さとドライで数日前、蒔いた苗床がこの雨をうけ、芽が満足に生えると思います。故障なく育てば来月中旬には畑に植付けられます。茄子、トメトーという順です。

どうしても今年は好結果を得なければなりません。まわりは、ほとんど北部へ出稼ぎに行きましたで至って静かです。永い間の習慣で別に寂しく思いません。

ときどき郵便局へ行きますが、暑い時や雨の降る日はベットに寝転んで新聞や雑誌を読み、飽きると目を閉じて、思いはやがて遠い故国へ走る。

美さんがニコニコして居る。何かうれしいのだろう。ア、何かクックしている……そっと鍋の蓋を取って見たいような気がします。私は至極壮健。暑さの為か、食欲はあまりありません。トコロテンが食いたいなア。ではお体大切に。左様なら。

                                                                              GEO

 (敬称略)

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★参考:大和コロニーと森上助次。「大和コロニー〜フロリダに『日本』を残した男たち」(川井龍介著、旬報社)より

 

© 2019 Ryusuke Kawai

このシリーズについて

20世紀初頭、フロリダ州南部に出現した日本人村大和コロニー。一農民として、また開拓者として、京都市の宮津から入植した森上助次(ジョージ・モリカミ)は、現在フロリダ州にある「モリカミ博物館・日本庭園」の基礎をつくった人物である。戦前にコロニーが解体、消滅したのちも現地に留まり、戦争を経てたったひとり農業をつづけた。最後は膨大な土地を寄付し地元にその名を残した彼は、生涯独身で日本に帰ることもなかったが、望郷の念のは人一倍で日本へ手紙を書きつづけた。なかでも亡き弟の妻や娘たち岡本一家とは頻繁に文通をした。会ったことはなかったが家族のように接し、現地の様子や思いを届けた。彼が残した手紙から、一世の記録として、その生涯と孤独な望郷の念をたどる。

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執筆者について

ジャーナリスト、ノンフィクションライター。神奈川県出身。慶応大学法学部卒、毎日新聞記者を経て独立。著書に「大和コロニー フロリダに『日本』を残した男たち」(旬報社)などがある。日系アメリカ文学の金字塔「ノーノー・ボーイ」(同)を翻訳。「大和コロニー」の英語版「Yamato Colony」は、「the 2021 Harry T. and Harriette V. Moore Award for the best book on ethnic groups or social issues from the Florida Historical Society.」を受賞。

(2021年11月 更新)

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