ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2016/2/8/kihachiro-tajima/

田島喜八郎さん

田島喜八郎さんの父キミオさんは、アメリカ生まれの二世だが、28歳で日本兵としてニューギニアで戦死した。父が召集されたとき生後10カ月だった喜八郎さんは父の顔も覚えていないが、喜八郎さんは戦争遺児といわれて育った。

小学生の頃に「なぜ僕は戦争遺児なの?」と母に聞いた。母は「お父さんは日本兵として戦死したけど、アメリカで生まれ育ったのよ」と話した。会ったことのない父を慕う気持ちが芽生え、そのころからアメリカへ行きたいと思い始めたという。

生まれて間もない喜八郎さんと母、1942年(写真提供:田島喜八郎)
ニューギニアで戦死した父キミオさん(写真提供:田島喜八郎)

喜八郎さんは1942年、福岡県生まれだが、アメリカへのルーツは、20代にアイダホ州でポテトの栽培を学ぶために福岡県八女郡から単身で渡米した祖父にたどることができる。祖父は同郷から祖母を呼び寄せて結婚し、父が生まれた。

祖父母と叔母と父、1910年代、ポートランドにて (写真提供:田島喜八郎)

祖父はアメリカで一財産を築き、一家で故郷の福岡へ帰った。父が5歳くらいの時だった。高校生になった父は勉強のためアメリカへ戻り、ロサンゼルスの高校に入学した。しかし大学2年生の時、「長男だから日本へ帰国しなさい」と祖父母から言われ、再び八女に戻り、やがて同郷の母と結婚した。ほどなくして日米開戦となった。

父が戦死し、戦後には祖父母も亡くなったが、母は田島家の本家の長男の嫁として田島家に残り、喜八郎さんを女手一つで育てた。

喜八郎さんが23歳の時、1963年に発生した福岡県大牟田の炭鉱の爆発事故のお見舞金を持ってロサンゼルスの南加福岡県人会会長の大籠七郎さんが訪日したというニュースを新聞で見た。大籠さんは、遠縁に当たる人でかつて父キミオがアメリカで世話になった人だった。そこで大籠さんに会いに行くと「おう、キミちゃんのボーイか!」と言われた。喜八郎さんがアメリカへ行きたいと話すと「留学しなさい」と言い、身元引受人になってくれた。

喜八郎さんは英語がまったくできなかったので猛勉強した。一時は23歳から始めるのは遅すぎるかなとも思ったが、何十年か後に悔やむよりも行った方が悔いはないと決意して、1968年、26歳の時に渡米した。

田島 喜八郎さん (写真提供:日刊サン)

渡米後は、目に見える形で人種差別を受けたことはなかった。「やはり日系人の方々、第442連隊戦闘団の活躍などがあったからだと思う」という。

アメリカでの生活が落ち着いてくると、ロサンゼルスで県人会のイベントに参加するなど、日本語の聞こえる日系人コミュニティーで過ごすようになった。「僕は日系コミュニティーに守られていたと思う」と話す。

2008年に南加福岡県人会の100周年式典が開かれ、全米日系人博物館の名誉理事で上院議員の故ダニエル・イノウエ氏(2012年に他界)も駆け付けた。イノウエ氏の先祖も同郷だった。喜八郎さんはこの式典準備を通じて日系移民史に興味を持つようになった。そして、全米日系人博物館でボランティアガイドとして来館者を案内するようになった。喜八郎さんは「アメリカの大地で日系人が頑張ったということを、そして父が生まれた国の歴史を父に代わって伝えられるのがうれしい。きっと父も喜んでくれているに違いない」という。

来館者を案内をする喜八郎さん (写真提供:全米日系人博物館)

 

* 本稿は、 日刊サンの金丸智美氏がインタビューをし、そのインタビューを元に、ニットータイヤが出資し、羅府新報が発行した『Voices of the Volunteers: The Building Blocks of the Japanese American National Museum (ボランティアの声:全米日系人博物館を支える人々)』へ大西良子氏が執筆したものです。また、ディスカバーニッケイへの掲載にあたり、オリジナルの原稿を編集して転載させていただきました。

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© 2015 The Rafu Shimpo

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このシリーズについて

このシリーズでは、ニットータイヤからの資金提供を受け『羅府新報』が出版した冊子「ボランティアの声:全米日系人博物館を支える人々 (Voices of the Volunteers: The Building Blocks of the Japanese American National Museum)」から、全米日系人博物館ボランティアの体験談をご紹介します。

数年前、ニット―タイヤはロサンゼルスの邦字新聞『日刊サン』と共同で全米日系人博物館(JANM)のボランティアをインタビューしました。2014年末、これらのインタビューを小冊子にまとめるべく、ニットータイヤから私たち『羅府新報』に声がかかり、私たちは喜んで引き受けることにしました。JANMインターン経験者の私は、ボランティアの重要性や彼らがいかに献身的に活動しているか、そしてその存在がどれほど日系人の歴史に人間性を与えているか、実感していました。

冊子の編集にあたり、私は体験談ひとつひとつを何度も読み返しました。それは夢に出てくるほどでした。彼らの体験談に夢中になるのは私だけではありません。読んだ人は皆彼らの体験にひきこまれ、その魅力に取りつかれました。これが体験者本人の生の声を聞く醍醐味です。JANMのガイドツアーに参加する来館者が、ボランティアガイドに一気に親近感を抱く感覚と似ています。ボランティアへの親近感がJANMの常設展『コモン・グラウンド』を生き生きとさせるのです。30年間、ボランティアが存在することで日系史は顔の見える歴史であり続けました。その間ボランティアはずっとコミュニティの物語を支えてきました。次は私たちが彼らの物語を支える番です。

以下の皆様の協力を得て、ミア・ナカジ・モニエが編集しました。ご協力いただいた皆様には、ここに厚く御礼申し上げます。(編集者 - クリス・コマイ;日本語編者 - マキ・ヒラノ、タカシ・イシハラ、大西良子;ボランティアリエゾン - リチャード・ムラカミ;インタビュー - 金丸智美 [日刊サン]、アリス・ハマ [日刊サン]、ミア・ナカジ・モニエ)

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執筆者について

『羅府新報』は日系アメリカ人コミュニティ最大手の新聞です。1903年の創刊以来、本紙はロサンゼルスおよびその他の地域の日系に関わるニュースを日英両言語で分析し、報道してきました。『羅府新報』の購読、配達申し込み、オンラインニュースの登録についてはウェブサイトをご覧ください。

(2015年9月 更新)

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