このようなタイトルを見ると、この日本では外国人の人権がかなり侵害されているかのように錯覚してしまうが、日本も法治国家として国民と外国人の諸権利と義務を規定しており、参政権や経済活動の一部制限等を除いては外国人もほとんど同じ権利を有している。
私が外国人労働者問題に関わるようになった90年代頃は、雇用主が労働者の旅券を強引に取り上げたり、在留資格(ビザ)申請に対する法外な手数料を徴収したり、一部の不動産会社や店が外国人の入店を断ったりする人権侵害事件が相次いで発生した。当初は、労働法や入管法違反の行為が多く、しかし経済危機によって失業率が上昇すると突然解雇や一方的な配置転換の対象になり、非正規雇用または間接雇用の外国人労働者は、同じ状況の日本人就労者と共にかなりの打撃を受けたと言える。もちろん、彼らだけがターゲットになった差別行為ではなかったかも知れないが、一番先に人員整理の対象になったのは確かである。ただ、そうした状況でもビジネスの手法上、派遣や請負会社は必死になって不安定な雇用であっても外国人労働者のために仕事を探した。経済情勢が悪化すると企業もコスト削減を迫られるが、一概に調整弁として外国人労働者が常に被害を被ったわけではない。
一方、人権問題に関しては、この20数年を振り返るとはじめは無知や誤解によるトラブルが多かったように思えるが、その初期段階で修正または改善しなかったケースでは、被害を被った側の精神的及び道徳的打撃は堪え難いものだったかも知れない。外国人の入店拒否事件は、一部の地域では訴訟にまで発展し原告側(外国人)が勝訴している。文化や習慣の違いがあっても、そこで発生した摩擦を放棄してしまうと差別に発展してしまうことも多い。
様々な民族や国民が混住すると当然些細なことからでも誤解は起きるが、互いに学び合う場であり生活に欠かせない共存関係だと認識しあうようになると、案外楽しく過ごせるものである(コミュニティー間の目的毎の連携や移民祭企画等)。ただ、共存しなくてもコミュニティー内で完結できるとなると自ら隔離したり、社会の大多数(マジョリティー)との接点が薄くなったりして、共生関係の構築が遠のいてしまう(パリ郊外の外国人居住地等)。外国人が集住して生活すると常にそのリスクを伴うが(我がアルゼンチンでもユダヤ人やレバノン系移民等がそうした居住形態を好む)、通常は移民二世代目になると受け入れ社会との関係は拡大し、その恩恵を受けるようになるだけではなく、社会への還元率も増える。海外の日本人移住地も当初は自分たちの防御策としてかかなり閉鎖的だったが、発展とともに社会統合のメリットと必要性を認識するようになり、今はむしろ社会的責任と地域開発の責務を担っている(パラグアイやボリビアの移住地等)。人口は少なくても、その何倍もの現地の人が居住するようになり、小さな村が町になり自治体としても認定されるようになり、市長や助役として市政や行政の一部を担っている。
外国人はどの国に移住しても、はじめは差別されたりもする。理不尽なことに対する捉え方にもよるが、南米や欧州のように異なった国籍や人種の往来が頻繁になると、先に到着したものからの洗礼は相当厳しいものになる。それだけ必死であり、限られた可能性を自分のものにすることは容易ではないからである。
近年、ヘイトスピーチという言葉をよく聞くが、これは誤解や無知だけではなく、嫉妬や妬みからくるものも多い。南米でもあり、歴史的経緯や過去のことを絡めて表現するものもあるが、そのようなリアクションになるということはやはり受け入れがたいアクションがあったのかも知れない。多くの場合、過激派や一方的な主張をする集団との対立がメインだが、話し合って分かり合える者たちではない。こうした問題を、例えば日本側だけに法の処罰を強化してもあまり意味がない。対立している外国人集団等の国や団体側からも相当な努力と対応が必要になる。
私はアルゼンチン生まれの日系二世だが、幼稚園のときから日系のクラスメイトがおり、スペイン語での義務教育以外は、日本語学校と日本人会の行事が多かったので当初は日本人としてのアイデンティティーが強かった。しかし中学、高校に進学するにつれ、やはりその社会の規範や道徳観(宗教観も含む)、風習や伝統の重要性を意識するようになり、大学に入学し、その1年後に兵役についた頃はアルゼンチン人としての国民意識がかなり確立していた。東洋人の顔をしていても、自分が社会の一員として違和感なく行動できるようになっていた。
とは言え、家庭で教わった価値観や躾は完全に日本的だったので、ときには社会の一般“常識”(非常識なことが多い南米だが)と対立し、悩んだり矛盾に陥ったり、理不尽なことを人種差別として受け止めたこともあった。父は、二回も交通事故にあい被害者であったにもかかわらず、地元警察やバス会社の主張だけが調書に記録され結局後遺症が残っても1ペソも賠償金として得られなかった。労働者の訴えでも、原告の主張だけがまかり通り、雇用主である日本人移住者が勝訴したことはほとんどない。土地や不動産の賃貸でもいい物件を手にすることは難しく、貸してくれるところで事業や住まいを営んだのである。アパートの契約も時には1年分前払いというのも珍しくなかった。そして、大学や軍隊でもどんなに優勝な成績をおさめても、主席にはなれなかった事案もある。外務官僚になるための外交学院(大学院)への入学も東洋人というだけで、見えない「高い壁」が設けられていた時期もある。それでも、多くの日系人は、その時々の差別を乗り越え、社会の大多数から認められるようになった。次第に理不尽なことも少なくなり、日本人・日系人という違いが大きな付加価値になりそれまで不可能だったことが実現できるようになった。一世紀に及ぶ忍耐と努力だが、その試練は今も続いており3世、4世になっても少なからず続くと思われる。
中南米で人種差別以上に深刻なのは、想像を絶する経済的・社会的格差による区別と不平等である。熟練度の低い労働者やスラム街に居住する住民、隣国移民や地方の田舎者に対しては今日本でも話題になっているヘイトスピーチ的な表現が以前からまかり通っている。テレビ番組でも、公人である記者やレポーター、政治家でも、人格を否定する蔑視や侮辱表現も多い。風刺的な表現も多く、ブラックユーモアの域を到底超えている。こうした社会環境の中で多くの国の移住者が新しいフロンティアを開拓したのだが、日本人である両親にとっては強烈な体験だっただろうし、堪え難いことも一つや二つではなかったに違いない。
昨年(2014年)の11月、大阪で開催された「外国人と人権」というシンポジウムにパネリストの一人として参加したが、私はマイノリティーであっても、活躍することでその違いを社会のプラスにすることが重要であると強調した。日本は基本的に単一民族の社会であり、一般的な規範にはそれなりに道理も根拠もあり、疑問に思うことがあっても、それが制度として機能している以上は大きな変化を求めることはできない。それでも、この20年の間に行政やメディア、業界団体等の外国籍居住者に対する姿勢もかなり良い方向に変わってきたと評価できる。日本人化することにアレルギーを持つ外国人もいるが、それは日本国籍を取得することではなく、日本の社会の仕組みを理解しどのように自分の特徴をアピールし、足りていないものを補完し、還元することだと、私は思っている。日本の企業も各諸制度もダイバーシティーの運営を不得意とするようだが、それにはこの日本で教育を受け生活している外国人にとっては大きなチャンスを意味する。
差別も偏見も誤解と無知からくるが、理解しにくいものへの恐怖も一つの要因である。大多数を占める日本人はマイノリティーのことはあまり理解しなくてもいいと、どこかで思っているかも知れない。しかし、今の複雑な世界情勢や自分たちの数々の課題に対応するには、別の視点や切り口を持つ外国人は、もしかしたらプラスの存在になる可能性もあると思ってもらうことで協力と協働、共生がもっと実るのかも知れない。
関連サイト
http://www.moj.go.jp/JINKEN/jinken04_00101.html 法務省人権擁護局
http://www.jinken.or.jp (公財)人権教育啓発推進センター
© 2015 Alberto J. Matsumoto