ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/963/

証言者の背景にある怒りを理解すること(英語)

(英語)証言を5分以内に留めてくれるよう頼んでも、証言台に立つ人は皆5分を超えて証言します。日系アメリカ人が物静かだという人がいますが、間違っていますね。彼らは、延々と話し続けます。僕は自分の席に座り、ある男性が立ち上がりました。僕は、証言を5分に留めてくれるよう、全員に向かってお願いしました。次の証言者は、ジェームズ・マツオカ氏でした。彼は、僕が言ったことに嫌悪感を示し、怒り出しました。「自分は、この証言台に立つのに40年も待った。今度は5分で黙れと言うのか!」彼は抗議し、「よくもそんなことを言えたもんだ」っていうんです。

彼は、議長である僕をひどく非難しました。 僕は議長席に座りながら、こう思いました。「ちょっと待ってくれ。俺も強制収容所に居たんだ。俺だって被害者だ。俺に八つ当たりしないでくれ」と。でも、僕はハッとして、「待てよ。この人は、僕を政府の代表者と思ってこんなことを言っているのか。僕がたまたま日系人で、このセッションの議長を務め、強制収容所に居たという事実は関係ないのだな」彼にとって僕は、政府なのです。そして僕は、「彼は正しい、正しいよ」と思いました。そして僕は、「我々がこのような言い合いをして時間の無駄をするより、証言をされてはいかがですか?」と言い、対処しました。彼は、証言を始めました。


リドレス運動

日付: 1998年8月27日

場所: 米国、ペンシルバニア州

インタビュアー: ダーシー・イキ、ミッチェル・マキ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

ウィリアム・マルタニ裁判官は、ワシントン州ケントで生まれました。大統領行政令9066の発令により、マルタニ氏はワシントン大学から退学を強いられ、1942年フレズノ集合センターを経 て、ツールレイク強制収容所に収容されました。1942年秋、マルタニ氏は釈放され、サウスダコタ州ミッチェルのダコタ・ウェスリアン大学で法学を学ぶことになりました。

海軍に志願するも、4C(敵性外国人)の烙印を押され不合格となりましたが、アメリカ陸軍情報部の任務に就くことになりました。軍務を終えたマルタニ氏は、シカゴ大学の法科大学院で学び、ペンシルベニアで6カ月間の実習生となりました。その後、1975年までフィラデルフィア通常事件裁判所で裁判官の任務に就きました。

マルタニ氏は、日系アメリカ人市民同盟を拠点に活動し、様々な役割を担ってきました。また、当時のジミー・カーター大統領による、戦時中の日系人強制収容に関する調査のための、9名のCWRIC(戦時民間人転住勾留委員会)委員の1人に選ばれました。マルタニ氏は、委員に選ばれた唯一の日系人でした。(2008年4月11日)

ヘンリー・ミヤタケ

歴史は変化し続ける(英語)

補償運動の発起者の一人(1929-2014)

チェリー・キノシタ

賠償金請求の必要性 (英語)

補償運動のリーダーの一人 (1923 - 2008年)

チェリー・キノシタ

苦しみを乗り越えて (英語)

補償運動のリーダーの一人 (1923 - 2008年)

ビル・ホソカワ

賠償(リパレーション)から補償(リドレス)へ (英語)

ジャーナリスト (1915 - 2007年)

ビル・ホソカワ

証拠の強み (英語)

ジャーナリスト (1915 - 2007年)

チエ・トミヒロ

聴聞会の証人委員としての役割 (日本語)

JACLシカゴ支部の補償委員会の委員長

チエ・トミヒロ

話すことを阻んだ恥の意識 (日本語)

JACLシカゴ支部の補償委員会の委員長

チエ・トミヒロ

今後すべきこと (日本語)

JACLシカゴ支部の補償委員会の委員長

バート・ナカノ

補償運動への参加者の増加 (英語)

政治活動家 (1928-2003年)

バート・ナカノ

ワシントン政界の説得 (英語)

政治活動家 (1928-2003年)

バート・ナカノ

大衆の力 (英語)

政治活動家 (1928-2003年)

ジョージ・ヨシダ

三世と補償運動(英語)

音楽家 (1922年)

クリフォード・ウエダ

補償受給者決定のための判断基準(英語)

政治活動家 (1917 - 2004)

クリフォード・ウエダ

日系アメリカ人市民同盟(JACL)代表への任命(英語)

政治活動家 (1917 - 2004)

クリフォード・ウエダ

賠償から補償への変更(英語)

政治活動家 (1917 - 2004)