ディスカバー・ニッケイ

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賠償(リパレーション)から補償(リドレス)へ (英語)

私は補償運動に反対の立場をとっていた1人でした。というのも、補償運動は、我々の犠牲を軽んじ、「私たちの辛い体験への代価を支払ってください」と、手を伸ばしているかのように私には感じられたからです。自分たちの犠牲を、そして身をもって体験した苦難を軽んずる行為だと思いました。それはまるで、戦時中に国を救うために人々がしたことに対して代価を求めているかのようでした。でも私のそういった考えは、連邦議会による委員会の設置法案が出た時に変わりました。ええと、委員会は何と呼ばれていましたっけ?

I*:The Commission on Wartime Relocation and Internment of Civilians (CWRIC:戦時市民転住収容に関する委員会)ですね。

そうでしたね。委員会によって、踏み込んだ内容の実情調査が行われ、事実関係が明らかにされた報告が、連邦議会へ提出されるだろうと思いました。そしてそれには、日系人に対し行われた、最悪な不正行為を明らかにする効力がありました。委員会の調査による後ろ盾があれば、当事者たちが「私たちの辛い体験への代価を払って下さい。」と訴えることとは全く違う意味合いを持たせることができたのです。そして委員会が承認され、ダニエル・イノウエ上院議員らによって設置法案が議会を通過した時、これで強制収容の全容が明らかになるだろうと思いました。当初、補償運動で最も重要視されていたのは、金銭的賠償でした。「我々に金を払ってくれ」、という訳です。ソルト・レイク・シティーで行われた、日系アメリカ人市民同盟の代表者会議で、クリフォード・ウエダ氏が最初に提案した金額は2万5千ドルでした。そしてそれは、「賠償(リパレーション)」と呼ばれており、「補償(リドレス)」とは全く違う意味の言葉でした。ですから私は、運動当初の彼らの考え方には同調できなかったのです。しかしながら、補償運動が、議会とアメリカの人々に謝罪を含めた補償を求める運動となった時、私は考えを変えたのです。

* 「I」はインタビュワー(アリス・イトウ)


クリフォード・ウエダ 日系アメリカ人市民連盟 リドレス運動

日付: 2001年7月13日

場所: 米国、ワシントン州

インタビュアー: アリス・イトウ、ダリル・マエダ

提供: Denshō: The Japanese American Legacy Project.

語り手のプロフィール

ビル・ホソカワ氏は、1915年ワシントン州シアトルに生まれました。ホソカワ氏は若くしてジャーナリズムに関心を持つようになりましたが、ワシントン大学在籍中、担当教授は彼に、ジャーナリズム専攻をやめるよう促しました。当時のアメリカには、日系人を雇ってくれる新聞社はないだろう、ということがその理由でした。ホソカワ氏は、その助言を拒否しましたが、1937年の卒業と同時に、教授の言葉が正しかったことを悟りました。

1938年、ホソカワ氏は英字新聞の立ち上げに携わるため、シンガポールへ赴きました。その後彼は中国の上海に移り住み、アメリカの雑誌社で働きました。彼がシアトルへ戻ったのは1941年、真珠湾攻撃の5週間前でした。

ホソカワ氏は、妻と当時まだ乳飲み子だった息子と共にワイオミング州のハート・マウンテン強制収容所に収容されました。彼は収容所新聞、「ハート・マウンテン・センチネル」の編集者となりましたが、後にアイオワ州デモインの新聞社に雇われることになり、収容所から釈放されます。1946年、ホソカワ氏はコロラドに移り住み、その後38年に亘りデンバー・ポスト紙の編集者を務めました。

ホソカワ氏は強制収容の体験をもとに複数の本を出版し、パシフィック・シチズン紙では、差別を題材としたコラムを50年以上担当しました。ホソカワ氏は2007年に92歳で亡くなりました。 (2008年4月5日)

グレース・ウエハラ

収容所の補償運動の達成と教育(英語)

(1919 - 2014年)日系アメリカ人の強制収容所に対する補償運動や公民権運動で活躍した活動家。

アート・シバヤマ

日系ペルー人ゆえに拒否された賠償金(英語)

ペルー生まれの二世。第二次大戦中アメリカへ連行。(1930-2018)

ロジャー・シモムラ

戦中の体験を尋ねたときの父の否定的反応(英語)

日系アメリカ人画家、版画家、教授。(1939年生)

フランク・ヤマサキ

賠償金について(英語)

ワシントン州出身の二世。戦時中徴兵拒否。(1923年生)

ミツオ・イトウ

カナダでの補償運動(英語)

日系カナダ人二世。戦後日本で英国軍の通訳者。日系カナダ人コミュニティで活躍(1924年生)

アイコ・ヨシナガ・ハージック

Asian Americans for Actionへ参加してよかったこと(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

アイコ・ヨシナガ・ハージック

収容所経験のない一世に対する補償運動(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

アイコ・ヨシナガ・ハージック

時期を見計らって始めた補償運動(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

ジャック・ハージック

人種ゆえにより説得力を持った証言(英語)

元米国陸軍対敵諜報部将校(1922-2005)

ジャック・ハージック

集団訴訟によってまとまった日系コミュニティ(英語)

元米国陸軍対敵諜報部将校(1922-2005)

デール・ミナミ

二世が戦中体験を語るきっかけとなった賠償運動の役割 (英語)

弁護士 (1946年生)

デール・ミナミ

コレマツ裁判が現代社会に与えた影響 (英語)

弁護士 (1946年生)

スー・エンブリー

考え方の変化(英語)

コミュニティ活動家、マンザナー委員会の共同創設者(1923年 - 2006年)

スー・エンブリー

制度の中で(英語)

コミュニティ活動家、マンザナー委員会の共同創設者(1923年 - 2006年)

スー・エンブリー

正義への戦い(英語)

コミュニティ活動家、マンザナー委員会の共同創設者(1923年 - 2006年)