ディスカバー・ニッケイ

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アルゼンチンへの渡航(スペイン語)

(スペイン語)私は神戸港を発ち、太平洋、インド洋、そして大西洋を46日間かけて渡航しました。ただ、出航したときはあまり感傷的になることはありませんでした。というのも神戸港に到着したときには港湾労働者のストで、船が出港できなかったからです。ストが解決しないことには船は出港できず、忍耐強く待つだけでした。(ストの状況を見に)毎朝8時に港へ行きました。私は、叔父と叔母の家に滞在していたのですが、叔父と叔母には「見送りの必要はないよ。今日も船がでなければお昼頃には帰宅するし、もし僕が帰ってこなければ船が出港したと言うことだから」と言って家をでました。そんな毎日が10日間くらい続き、おじさんたちも慣れてきて「また帰ってきたのか」って、「お前はまた戻ってくるだろうね」っていうんです。そして、ある日(船は出港し)私は叔父の家に戻らずにすんだのです。 当時、船で海外に行くということはとても寂しいものでした。見送りにくる人も発つ人も涙を流し、別れのテープを握りながらみんなで「蛍のひかり」を歌っていました。ドラマチックな姿ですが、私の場合、誰も見送りにはきませんでした。 乗船して、「何時に出港しますか」と聞いたら、「夜の8時」と言われたので、私は少し休んでから日本へお別れをしようと思ったのです。起きた時、時計を見たら8時になっていました。外がかなり明るかったのでウェイターに「もう出港しましたか」と聞いたら、「昨夜8時に出ましたよ」と言われ、私が目覚めた時は、もうすでに太平洋にいたのです。寂しいセンチメンタルな別れはなく、むしろその方が良かったと思っています。


アルゼンチン 移住 (immigration) 移住 (migration)

日付: 2007年2月23日

場所: アルゼンチン、ブエノスアイレス

インタビュアー: タケシ・ニシムラ、リカルド・ホカマ

提供: アルゼンチン日系センター

語り手のプロフィール

高木一臣氏は、1925年3月27日三重県で生まれ、観光客としてアルゼンチンへ渡り、そのまま現地へ留まりました。高木氏は、ジャーナリズムの職を得て、その後50年以上に渡り、ラジオやグラフィック関係の仕事をしてきました。81歳を迎えた高木氏は、様々な媒体を介した広告に取り組みながら、日本人コミュニティ新聞、『らぷらた報知』のジャーナリストとして熱心に活動を続けています。高木氏は、2014年11月10日、89歳で亡くなりました。(2021年1月)

フレッド・ササキ

フレデリック・ヨシヒデ・ササキの家族構成(英語)

カナダの一世ビジネスマン(1918年生)

キミ・ワカバヤシ

見合い結婚 (英語)

日系カナダ人一世。1931年にカナダへ夫と移住。(1912年生)

キミ・ワカバヤシ

移住初期のカナダでの生活 (英語)

日系カナダ人一世。1931年にカナダへ夫と移住。(1912年生)

ミツオ・イトウ

渡日の決意(英語)

日系カナダ人二世。戦後日本で英国軍の通訳者。日系カナダ人コミュニティで活躍(1924年生)

シズコ・カドグチ

東へ移住か渡日かの選択(英語)

日系カナダ人二世。池坊トロント支部を設立。(1920年生)

田中誠一

渡米(英語)

新一世。北米和太鼓の第一人者。1968年にサンフランシスコ太鼓道場を設立。(1943年生)

エンセン・井上

渡日の理由(英語)

日本在住のハワイ生まれの格闘家(1967年生)

ビル・ハシズメ

カナダの呼び寄せシステム(英語)

1952年まで日本からカナダへ帰国できなかった二世の日系カナダ人(1922年生)

ビル・ハシズメ

1954年にカナダへ帰国した理由(英語)

1952年まで日本からカナダへ帰国できなかった二世の日系カナダ人(1922年生)

飯野正子

一世女性とのインタビューを通して感じたこと

津田塾大学学長、日本人の日系史専門家

飯野正子

日本から移民した女性としなかった女性の違い

津田塾大学学長、日本人の日系史専門家

飯野正子

日本人移民に興味を持ったきっかけ

津田塾大学学長、日本人の日系史専門家

モニカ・小木曽

日系人であることは両文化の融合(スペイン語)

(1969年生) アルゼンチン日系センターの前会長

モニカ・小木曽

アルゼンチンへ移住してきた家族背景(スペイン語)

(1969年生) アルゼンチン日系センターの前会長

モニカ・小木曽

日系アルゼンチン人の職(スペイン語)

(1969年生) アルゼンチン日系センターの前会長