ディスカバー・ニッケイ

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恥ずかしくて話せなかった収容所の体験 (英語)

(英語) 収容所から解放された後、私たち家族はロング・ビーチに住み始めました。たまたまそこで、いつも収容所で一緒に遊んでいたアキコ・シゲトミという子に会ったんですが、お互い顔を合わせても、恥ずかしくて収容所のことは一切口にしませんでした。それは無意識だったんですが、何だか悪夢でも見たような感じですごく恥ずかしかったんです。だからそのことは決して口にしないし、話題にものぼらないのです。その後10代になってももちろんそのことをずっと心の奥にしまったままで、やっと口にするようになったのは本を書き始めてからだったんです。収容所に入れられたことがそれだけトラウマになっていたんですよ。心の奥深くまで傷ついていました。

これは私に限ったことではありません。だから・・・そうですね、まあわかりやすい言い方をすれば、まるで一緒に強姦されたか何かのように、とにかくひどい経験を一緒にして、その人と後日顔を合わせても、辱めをうけたそのことにあえて触れたくないという感じでしょうか・・・だから何も言わないんですね。「そこの口なしさん!このことについては話すのは止めましょうね。何もなかったことにしましょうね」という感じでしょうか・・・

もっとも年をとってからは「そういえば収容所ではこんなことがあったなあ・・・」と考えるようになり、そのことに触れても平気になりましたが、収容所から出た直後はまだ幼かったし、記憶もまだ生々しかったですからね。それに自分たちの身に何が起きたのかも余りよくわからなかった・・・わかっていることといえば、収容所から出てきたら(日系人でない)周りの人に憎まれるのだということだけだったんです。


カリフォルニア州 強制収容所 投獄 監禁 マンザナー強制収容所 アメリカ合衆国 第二次世界大戦 第二次世界大戦下の収容所

日付: 2005年12月27日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: ジョン・エサキ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

ジーン・ワカツキ・ヒューストンは『マンザナールよ、さらば-強制収容された日系少女の心の記録(Farewell to Manzanar)』(1975年、現代史出版社)の共著者としてよく知られています。1934年、カリフォルニア州イングルウッドに10人兄弟の末っ子として生まれました。幼少時代は南カリフォルニアで過ごしていましたが、1942年、7歳にして家族とともにカリフォルニア州マンザナーにある強制収容所へ収監されました。

ワカツキ一家は1945年に南カリフォルニアへ戻り、1952年にはサンノゼへ転居しました。その後、彼女はサンノゼ州立大学へ進学し、社会学とジャーナリズムを専攻しました。卒業後、数年間カリフォルニア州で働いた後、パリへ留学し書法を学びました。また、1957年にはサンノゼ州立大学で知り合ったジェームス・D・ヒューストンと結婚。以後、3人の子供をもうけます。

1971年、マンザナーで生まれた甥に収容所の体験について尋ねられました。彼は両親に同じことを尋ねたのですが、話してくれなかったそうです。ヒューストン氏は甥にかいつまんで伝えるため、自らの体験談を書き記すことにしました。夫とともにFarewell to Manzanarを書きあげました。1972年に出版されたこの本は、彼女だけでなく彼女の家族の戦前、戦中、戦後の体験を書き記してあります。現在では、多くのアメリカの学校で日系アメリカ人の収容所体験を教えるための教材のひとつとして使われています。また、この本は1976年にテレビ映画化されており、ヒューマニタス賞を受賞。エミー賞のドラマ部門脚本賞にもノミネートされました。

Farewell to Manzanar以来、ジーンは夫とともに作家活動を続けています。2003年には、初の小説The Legend of Fire Horse Womenを発表しました。さらに、大学やコミュニティ機関で数々の講演を行っています。2006年には彼女の社会への貢献が認められ、全米日系人博物館より賞が送られました。(2006年11月25日)

Aiko Yoshinaga Herzig
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アイコ・ヨシナガ・ハージック

日系人収容者の取り扱いに対する懸念を表す公文書(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

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Francis Y. Sogi
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フランク・ソギ

1941年12月7日の記憶(英語)

弁護士、MIS退役軍人、フランシス&サラ・ソギ財団創設者 (1923-2011年)

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Francis Y. Sogi
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フランク・ソギ

MISで出会った本土からの日系人(英語)

弁護士、MIS退役軍人、フランシス&サラ・ソギ財団創設者 (1923-2011年)

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Francis Y. Sogi
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フランク・ソギ

当時の収容所に対する認識(英語)

弁護士、MIS退役軍人、フランシス&サラ・ソギ財団創設者 (1923-2011年)

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Fred Korematsu
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フレッド・コレマツ

犯人探し (英語)

大統領令9066の合憲性に抗議(1919-2005年)

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Fred Korematsu
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フレッド・コレマツ

最終判決 (英語)

大統領令9066の合憲性に抗議(1919-2005年)

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William Hohri
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ウィリアム・ホウリ

収容所へ戻ろうとした時(英語)

政治活動家(1927-2010)

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George Katsumi Yuzawa
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ジョージ・カツミ・ユザワ

JACLの全米書記マイク・マサオカの1942年のスピーチへの反応(英語)

戦後ニューヨーク市に移住した二世の花屋。日系アメリカ人の公民権運動で活躍。(1915-2011年)

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William Hohri
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ウィリアム・ホウリ

収容所の中での教育(英語)

政治活動家(1927-2010)

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Dale Minami
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デール・ミナミ

カリフォルニア州ガーデナで育まれた順応性と競争心 (英語)

弁護士 (1946年生)

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Dale Minami
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デール・ミナミ

二世が戦中体験を語るきっかけとなった賠償運動の役割 (英語)

弁護士 (1946年生)

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Mako Nakagawa
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マコ・ナカガワ

真珠湾攻撃後のFBIによる家宅捜査 (英語)

教師(1937-2021年)

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Mako Nakagawa
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マコ・ナカガワ

テキサス州クリスタルシティーで別人の様になっていた父との再会 (英語)

教師(1937-2021年)

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Mako Nakagawa
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マコ・ナカガワ

テキサス州クリスタルシティーで過ごした幼年期の思い出 (英語)

教師(1937-2021年)

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Jimmy Ko Fukuhara
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ジミー・コウ・フクハラ

真珠湾攻撃を知った時のこと(英語)

日系二世、連合国軍占領下の日本に駐留した退役軍人(1921年生)

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