ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/574/

映画撮影に携わって(英語)

(英語) ジョン(・コーティ)は素晴らしい映画監督、映画製作者であるだけでなく、人間的にも素晴らしい人ですね。このストーリーが私の家族についてだと知っていたので、作品全体にもすごく気をつかってくれました。全ての過程において私が関わるよう配慮していましたし、日本人(日系人)コミュニティーが気分を害すことがないように、出来る限りのことをしていました。このように全てにおいて神経が細やかだったんです。

また442部隊についてですが、私の家族でこの部隊に参加した人はいなかったため原作にはありませんでしたが、監督自身がこの部隊にすごく興味を持っていて、映画には絶対に入れるべきだと判断したんです。映画に何が必要かは監督が一番よく分かっていましたからね。キャスティングなどもそうです。誰がベストなのか分かっていました。そして私にも「もちろん、あなたにも映画のキャストになって欲しい」と言ってきたんです。どの場面のどの役かはもうおわかりだと思います。

そして全ての過程に私とジム(夫)を入れてくれましたね。撮影に立会ったり、脚本を一緒に書いたり、どう(撮影)するか(話し合ったり)とね。ストーリ・ボードも(一緒に)作り、「じゃあ、あなたはこのシーンを撮って」という具合に、私は自分がわかっているシーンを撮り、ジムと監督もそれぞれシーンを撮りました。もちろんジムは、男であろうと、男たちであろうと、どんなスピーチでも上手でしたね 。もちろんジムは、男性のスピーチのいろいろな部分も素晴らしくやってくれました。


アメリカ カリフォルニア 強制収容所 マンザナー強制収容所 映画 (movies) マンザナールよさらば(映画)(書籍) 第二次世界大戦下の収容所

日付: 2005年12月27日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: ジョン・エサキ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

ジーン・ワカツキ・ヒューストンは『マンザナールよ、さらば-強制収容された日系少女の心の記録(Farewell to Manzanar)』(1975年、現代史出版社)の共著者としてよく知られています。1934年、カリフォルニア州イングルウッドに10人兄弟の末っ子として生まれました。幼少時代は南カリフォルニアで過ごしていましたが、1942年、7歳にして家族とともにカリフォルニア州マンザナーにある強制収容所へ収監されました。

ワカツキ一家は1945年に南カリフォルニアへ戻り、1952年にはサンノゼへ転居しました。その後、彼女はサンノゼ州立大学へ進学し、社会学とジャーナリズムを専攻しました。卒業後、数年間カリフォルニア州で働いた後、パリへ留学し書法を学びました。また、1957年にはサンノゼ州立大学で知り合ったジェームス・D・ヒューストンと結婚。以後、3人の子供をもうけます。

1971年、マンザナーで生まれた甥に収容所の体験について尋ねられました。彼は両親に同じことを尋ねたのですが、話してくれなかったそうです。ヒューストン氏は甥にかいつまんで伝えるため、自らの体験談を書き記すことにしました。夫とともにFarewell to Manzanarを書きあげました。1972年に出版されたこの本は、彼女だけでなく彼女の家族の戦前、戦中、戦後の体験を書き記してあります。現在では、多くのアメリカの学校で日系アメリカ人の収容所体験を教えるための教材のひとつとして使われています。また、この本は1976年にテレビ映画化されており、ヒューマニタス賞を受賞。エミー賞のドラマ部門脚本賞にもノミネートされました。

Farewell to Manzanar以来、ジーンは夫とともに作家活動を続けています。2003年には、初の小説The Legend of Fire Horse Womenを発表しました。さらに、大学やコミュニティ機関で数々の講演を行っています。2006年には彼女の社会への貢献が認められ、全米日系人博物館より賞が送られました。(2006年11月25日)

松本宗静

映画『Japanese War Bride』に出演

裏千家の名誉師範(1916-2019年)

タカヨ・フィッシャー

『パイレーツ・オブ・カリビアン』の撮影現場でキース・リチャーズと会ったこと(英語)

日系アメリカ人二世、舞台、映画、テレビ女優 (1932年生)