ディスカバー・ニッケイ

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トラウマを乗り越え、原爆の体験を語る(英語)

(英語)日本から帰国した1948年以降、私は悪夢にうなされ、夜中に叫びながら目を覚ましていたと母は言っていました。私には食べられない物もありました。マリナラソースのスパゲティなど、赤い色の食べ物は全てダメでした。ピンクグレープフルーツや赤肉など、子供時代に目撃した大虐殺を思い出させるものは全て、口にすることも飲み込むこともできませんでした。

でも時が過ぎ、原爆投下から10年後の1955年にはそれも消えたように思います。それ以降、原爆の話をすることができるようになりました。内容によっては少し胸が詰まる思いをすることもありますが、もしかすると聞いている人たちより私の方が落ち着いた気持ちで話せているかもしれません。もう何度も講演しているので、鈍感になったからかもしれませんが。もちろん困難なこともありますが、耐えられないほどではありません。


原爆 被爆者 ヒバクシャ 広島市 広島県 日本 トラウマ 第二次世界大戦

日付: 2019年9月3日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: 三木 昌子

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

1938年イーストロサンゼルス生まれ。家族に連れられて1940年に来日。家族経営ビジネスのためにその年のうちに両親は弟を連れて帰国するが、ハワードと兄のケニーはそのまま日本に留まる。

第二次世界大戦が始まり、米国の家族はアリゾナ州ポストンに強制収容される。1945年8月6日、広島に原爆が投下され、ハワードは爆心地からおよそ1.3キロ地点で被爆したが無事だった。1948年に兄と共に米国に帰国し、家族との再会を果たす。

ハワードはコンピュータ技師の道を歩み、引退後は米国広島長崎原爆被爆者協会(ASA)のメンバーとなり、積極的に被爆体験を共有している。(2019年9月)

ペギー・ニシムラ・ベイン

強制移住(英語)

ワシントン州出身の二世。ツーレレイク強制収容所へ収容後、シカゴへ再転住。(1909年生)

ペギー・ニシムラ・ベイン

パインデール集合センターでの生活状況(英語)

ワシントン州出身の二世。ツーレレイク強制収容所へ収容後、シカゴへ再転住。(1909年生)

ペギー・ニシムラ・ベイン

ツールレイク収容所での貝殻による手工芸品作り(英語)

ワシントン州出身の二世。ツーレレイク強制収容所へ収容後、シカゴへ再転住。(1909年生)

リチャード・コサキ

真珠湾攻撃の後の救急ステーションでの仕事(英語)

ハワイ出身の政治学者・教育者(1924年生)

リチャード・コサキ

真珠湾攻撃の後の疑惑(英語)

ハワイ出身の政治学者・教育者(1924年生)

リチャード・コサキ

収容所への442連隊の兵士の訪問(英語)

ハワイ出身の政治学者・教育者(1924年生)

リチャード・コサキ

第2次大戦中の陸軍語学学校での教鞭(英語)

ハワイ出身の政治学者・教育者(1924年生)

リチャード・コサキ

第2次大戦後の東京(英語)

ハワイ出身の政治学者・教育者(1924年生)

リチャード・コサキ

第2次大戦後の人々の変化(英語)

ハワイ出身の政治学者・教育者(1924年生)

アート・シバヤマ

真珠湾攻撃後、ペルーからアメリカへ連行(英語)

ペルー生まれの二世。第二次大戦中アメリカへ連行。(1930-2018)

アート・シバヤマ

ペルーから連行中のアメリカの輸送船の状況(英語)

ペルー生まれの二世。第二次大戦中アメリカへ連行。(1930-2018)

マリオン・ツタカワ・カネモト

真珠湾攻撃後のFBIによる家宅捜索(英語)

日系アメリカ人二世。第二次大戦中に自主的に日本へ移住。(1927年生)

マリオン・ツタカワ・カネモト

子供の時にみた父の逮捕(英語)

日系アメリカ人二世。第二次大戦中に自主的に日本へ移住。(1927年生)

マリオン・ツタカワ・カネモト

広島の原爆を目撃(英語)

日系アメリカ人二世。第二次大戦中に自主的に日本へ移住。(1927年生)

マリオン・ツタカワ・カネモト

戦時中に参加した日本での兵役訓練(英語)

日系アメリカ人二世。第二次大戦中に自主的に日本へ移住。(1927年生)