ディスカバー・ニッケイ

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突然の悟り (英語)

(英語) 私はしばらくの間フリーランスとして働き、比較的成功していました。多くは雑誌の仕事でした。しかしあるとき、これは私のやりたいことではない、と気付いたのです。雑誌の内容は、私が伝えたいものではありませんでした。そして、のちにアジア系アメリカ人運動の新聞となる『Gidra(ギドラ)』と出会ったのです。それで同じ気持ちを抱える、他のアジア系アメリカ人がいることを知りました。


アジア系アメリカ人運動

日付: 2011年8月16日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: アレクサ・キム

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

1936年7月5日、カリフォルニア州ベニスで一世の父と二世の母との間に生まれる。ロバート・アキラ・ナカムラ氏は、フォト・ジャーナリズムと広告写真の分野で成功を収め、映画で日系アメリカ人の真実を探求し、表現、提供する第一人者となった。革新的なセルフドキュメンタリー『Manzanar(マンザナー)』(1972)は、サンフランシスコ美術館やフィルム・フォーラム、ロサンゼルス現代美術館において、ドキュメンタリーのメインの回顧展で紹介された。

1966年にアート・センター・カレッジ・オブ・デザインで美術学科学士号を、1975年にはカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)の映画・テレビ制作学部を卒業し美術学修士号を取得。UCLAでは、最近まで教授をしていた。ナカムラ氏は、その記憶を刺激する革新的な映画で25以上もの賞を獲得。受賞作には、『Wataridori: Birds of Passage(渡り鳥)』(1975)、『Hito Hata: Raise the Banner(一旗)』(1980)、『Moving Memories(ムービング・メモリーズ)』(1992)、『Something Strong Within(サムシング・ストロング・ウィズイン)』(1994)、『Looking Like the Enemy(ルッキング・ライク・ザ・エネミー)』(1995)などがある。

1970年にビジュアル・コミュニケーションズ(VC)を設立し、現在も取締役会メンバーを務めている。さらに、1996年にはUCLAにセンター・フォー・エスノコミュニケーションズ学科を、1997年には全米日系人博物館のメディア美術センターを設立した。

ナカムラ氏は、スティーブ・タツカワ記念賞の最初の受賞者だ。同賞は1985年から、アジア系アメリカ人メディアにおいて顕著な功績を残し、リーダーシップを発揮した者に年次で贈られている。さらに、1994年にはアジア系アメリカ人連合の映画部門とUCLAの映画・テレビ学部が、アジア系アメリカ人ビジュアルアーティストの突出した貢献を称える「ロバート・A・ナカムラ賞」を設立。1997年には、スミソニアン協会がナカムラ氏の作品の回顧展を開き、1999年には同氏はUCLAの日系アメリカ人の研究における寄付基金教授に任命された。(2012年8月)

Mike Murase
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マイク・ムラセ

掲載内容に関する論争(英語)

コミュニティ・アクティビスト

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Mike Murase
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マイク・ムラセ

Cincip(英語)

コミュニティ・アクティビスト

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Mike Murase
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マイク・ムラセ

スタッフと苦闘(英語)

コミュニティ・アクティビスト

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A. Wallace Tashima
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A. ウォーレス・タシマ

海兵隊に所属(英語)

連邦控訴裁判所での職に任命された初の日系アメリカ人(1934年生)

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Yoshiko Yamaguchi
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山口 淑子

ソーシャルワークを学ぶきっかけ

新一世ソーシャルワーカー(1931年生)

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Mitsuru "Mits"  Kataoka
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ミツル・”ミッツ”・カタオカ

ロードアイランドで直面した住宅差別(英語)

日系アメリカ人デザイナー、教育者、メディアテクノロジー先駆者(1934-2018年)

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Mitsuru "Mits"  Kataoka
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ミツル・”ミッツ”・カタオカ

映像から写した最初のプリント(英語)

日系アメリカ人デザイナー、教育者、メディアテクノロジー先駆者(1934-2018年)

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