ディスカバー・ニッケイ

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戦後ペルーへ戻った理由

戦後は、サンフランシスコ講和条約前にですね、その時にもう戦争に負けた日本を見て、天野はもうひどく落胆するわけです。もう戦争、終戦直後の東京の焼け野原を見てですね、これはもう自分の目の黒いうちに、もう一世紀か二世紀ぐらいは、日本はもう足腰が立たないだろうと。もう日本という国は、えー、自分が生きている間には、もう二度と復興することはないに違いないということで。それならば、自分で、あのー、勝手知ったる中南米に、もう一回戻ってですね、ま、おもしろおかしく残りの人生を過ごしたいということで。

えー、実はあまり誉めた話じゃないんですが、パスポートを戦前スパイ容疑で、FBIから徴集を受けてますし、そのスパイ容疑というのはずっとその時もまだ嫌疑がかかってるわけですから、サンフランシスコ講和条約前ですから、とてもじゃないですけどパスポートを発行してくれるはずもなくてですね。 いろんな手を使って、彼は、パスポートを持たずに、パナマまでやってくるんですね。でもこれは実におもしろい話なんですけども。ま、いずれにしても、その当時、たまたま、えーその天野を身分保障をして引き受けてくれるのは、ペルーの漁業関係のその友人が引き受けてくれたということで、彼はペルーに戦後やってくるわけです。


不法移住 移住 (migration) ペルー 戦後 第二次世界大戦 天野芳太郎

日付: 2007年5月7日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: 西村 陽子

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

1948年生まれ。東京出身。早稲田大学教育学部卒業。数年後、ペルーリマ市へ移住。スペイン語を学ぶかたわら、天野博物館を創設・経営していた祖父の天野芳太郎氏の仕事を手伝う。その後、日系ペルー人2世と結婚。現在は、ペルーの文化研究家、土器・織物の収集・研究家、天野博物館の事務局長として発掘作業、博物館の運営に携わる。また、ペルーの民間外交官として、政府要人、経済人、マスコミ取材、TV番組制作などのアテンドも行っている。年に数回は日本を訪れ、全国各地で講演やパネルディスカッションを行うなど、広い分野において活動を行っている。(2007年5月)

ミツオ・イトウ

渡日の決意(英語)

日系カナダ人二世。戦後日本で英国軍の通訳者。日系カナダ人コミュニティで活躍(1924年生)

シズコ・カドグチ

東へ移住か渡日かの選択(英語)

日系カナダ人二世。池坊トロント支部を設立。(1920年生)

田中誠一

渡米(英語)

新一世。北米和太鼓の第一人者。1968年にサンフランシスコ太鼓道場を設立。(1943年生)

エンセン・井上

渡日の理由(英語)

日本在住のハワイ生まれの格闘家(1967年生)

ビル・ハシズメ

1954年にカナダへ帰国した理由(英語)

1952年まで日本からカナダへ帰国できなかった二世の日系カナダ人(1922年生)

飯野正子

日本人移民に興味を持ったきっかけ

津田塾大学学長、日本人の日系史専門家

モニカ・小木曽

アルゼンチンへ移住してきた家族背景(スペイン語)

(1969年生) アルゼンチン日系センターの前会長

ビンス・オオタ

日本へ来たきっかけ(英語)

在日日系アメリカ人デザイナー

ビンス・オオタ

在日3年後に決めた日本永住の理由(英語)

在日日系アメリカ人デザイナー

ロベルト・ヒロセ

少数の日本人家族と共に育って(スペイン語)

二世日系チリ人、ビジネスマン(1950年生)

ジョン・ナカ

徴兵回避のためアメリカへ帰国(英語)

日系アメリカ人二世、盆栽マスター(1914-2004年)

ポーラ・オヨス・ハットリ

祖父のアルゼンチン移住 (スペイン語)

日系アルゼンチン人、三世

外間良広

日本からアルゼンチンへ

沖縄出身、一世アルゼンチン人 (1917年生)

高木一臣

日本を離れ、いざアルゼンチンへ(スペイン語)

『らぷらた報知』ジャーナリスト (1925-2014年)

高木一臣

彼をアルゼンチンに留まらせたタンゴ(スペイン語)

『らぷらた報知』ジャーナリスト (1925-2014年)