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ハワイ日本移民史とブラジルの繋がり - その2

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元年者の前から現地に住んでいた日本人も

『ハワイ移民史』を見てオヤッと興味深く思ったのは、明治元年(1868年)にハワイに渡った最初の日本人移民〝元年者〟がホノルルに着いたとき、すでに日本人が3人現地で暮らしていたという記述だ。

元年者150人の一人、牧野富三郎が無事にホノルル港に到着したことを告げる手紙が12頁に転載されており、《酔っ払いや乱暴を働く人間もおらず、平穏で幸せを感じている。到着した時には日本人が3人いた。神奈川県出身の仙太郎が残り、通訳や相談にも乗ってくれて「地獄で仏」に会ったようだ》と書き送っている。

笠戸丸移民の2年前に、〝実験台〟として渡伯した鈴木南樹(鈴木貞次郎)の体験談を書いた『伯国日本移民の草分』(1932年)には、彼がペトロポリスの公使館を最初に訪ねた時に、すでに現地在住日本人として出入りしていた二人が「伯国に於ける日本人の元祖」として紹介されている。

一人はやはりハワイ移民の転住者の「秋葉じいさん」だ。《ハワイから英国船に乗ってサントスに上陸し、転々として遂にペトロポリスに来た。つい先頃迄公使館の料理人をして居たのであるが、その頃は頭の上にお菓子箱を載せて、チャルメラのような音をたてる笛を吹きながら、大道を売って歩いて居た》(PDF版、16頁)。これが1906年の話だ。

さらに《秋葉さんははっきりと自分の歳も知らないし、伯国に何年居るかも知って居らない》とあるから、本当に〝国際的な仙人〟のような存在だった。

もう一人が「軽業師の万治さん」で、《軽業師竹沢万次の謎を追う=サーカスに見る日伯交流史=第1回=明治3年頃に上陸、全伯公演?》で連載にして紹介した「竹沢万次」だ。

きっとハワイの3人にも興味深い物語が埋もれているに違いない。


古谷重綱(ふるやしげつな)ゆかりの「上陸拒否事件」

加えて「上陸拒否事件」(93頁)にも目を引かれた。《移民会社は契約移民の枠に外れた人たちや、移民の希望者に携帯金の50ドルを貸し渡し〝自由移民〟にみせかけて送り出す抜け道を考え、積極的に移民を募集した。貸し付け金は上陸後に回収するという「見せ金」という方法》であり、それがハワイ政府から《携帯金の出処が不明朗、不合理である》として1100人余りを入国拒否した事件だ。

これに対して日本政府は1897年4月、外務省の秋山雅之助参事官を軍艦浪速でホノルルに派遣、ハワイ王国政府に強い姿勢を示した。《浪速には東京から毎日・国民・中央・時事・万朝の各新聞記者を同行させメディアも動員した》(93頁)とある。

ちなみにこの時の「国民新聞」の記者が古谷重綱で、戦前のブラジル同胞社会では外交官としてよく知られていた。だが外交官になる以前は、徳富蘇峰が経営する「国民新聞」の記者だった。

『在伯日本人先駆者傳』(433頁、パウリスタ新聞社、1955年)によれば、1896年、ハワイで日本移民上陸拒否事件が起きた時、古谷は特派記者として軍艦浪速で現地入り。その後、社主徳富蘇峰を説得して、ミシガン大学法科で勉強し、卒業後、国民新聞に復帰。

1902年に外交官試験に合格して、海外勤務を経て1921年には外務省通商局長に。1926年にアルゼンチン、パラグアイ、ウルグアイをかねる全権大使に。帰国後、栄転を断って1929年にブラジルに移住した。古谷の息子綱正は新聞人の血を引き、日本で毎日新聞論説委員になった。

外交官上がりで移民した古谷は、ジュキア線セドロでバナナ園を経営した。1936年から38年まで教育普及会の会長を務めたが、終戦直後に負け組の幹部として勝ち組強硬派に真っ先に襲撃された。元ジャーナリストらしく情報収集に熱心で、戦中も北米邦字紙を購読していた。当時蜂谷商会に務めていた藤田芳郎に、コロニアに正しい情報を広めることの重要性を説き、藤田は薦めに従って1949年に太陽堂書店を創業した。リベルダーデ日本広場に現在も続く、あの太陽堂書店だ。


悪徳移民会社追い出しや最初の日本酒製造

ハワイ初の日本人小学校開校は1896年。日伯修好通商条約の翌年だ。ブラジル初の移民船土佐丸は1897年8月に東洋移民会社から出るはずだったが、「コーヒー暴落」を理由にドタキャンされた。

実際に1908年にブラジル移民が始まる直前、1900~1907年の間だけでハワイには7万1千人の日本人が渡航していた。3年間の農地労働の束縛が解けた後、多くがより報酬の良い本土に移った。特にカリフォルニア州だ。

116頁によれば、1904年だけでハワイから本土への転航者は1万1132人を数えたという。本土に比べて移住条件が緩かったハワイが踏み台になった形だ。その中で、ハワイでの二世出生数は1901年に一千人の大台を超えて1134人、1903年にはピークの3437人を記録した。ブラジル日系社会にとっては大先輩だ。

どこの国にも移民を食い物にする会社は現れるようだ。《京濱銀行や移民会社が移民を食い物にする現状、これらの会社の肩を持つ斉藤幹総領事に対する非難がホノルルの日本人識者からわき起こった。1905(明治38)年5月7日、志保沢忠三郎らが中心となり革新同志会を結成、決起大会には約1400人が参加した》(130頁)という出来事もあった。それから1年も経たずして京濱銀行・移民会社はハワイからいなくなったというから、すごい影響力だ。

ちなみに1908年には仁保島村出身の住田多二郎が日本酒の製造に成功した。《日本酒が海外で製造されたのは、ハワイが最初である》(142頁)との歴史もある。《日本から杜氏を呼び寄せ、四季のないハワイで〝日本の冬〟を再現して試行錯誤、想像を越える多額の投資に悩みながらもわずか1年で製品化に成功》とある。

外地で何十年ぶりに飲む日本酒には、郷愁という〝隠し味〟が利いており、格別な味がしたに違いない。

* * * * *

日本国内でも外国人住民が激増してきた昨今、「かつて日本人はどこへどう移住したのか」に興味を覚える日本の人もいるかもしれない。

ハワイ移民史料館仁保島村サイトの館長挨拶には、《今、わが国では日系ブラジル人の里帰りを始めとする諸外国からの就労者や居住者も多くなり、急速な国際化への対応が大きな課題となっております。かつてハワイ移民は、日本人排斥運動・日本語学校への圧迫・太平洋戦争など大きな難問に直面しました。これらを見事に乗り越えたハワイ移民の歴史とその叡智は、多くの国籍を持つ人たちとの共生が目前となった現在の日本に、様々な形の示唆を与えてくれます》とあった。

移民史は外国の歴史ではなく、日本の近代史として認識されるようになり、教科書などにもしっかりと記述されるようになってほしい。

 

*本稿は、『ニッケイ新聞』(2021年6月29日)からの転載です。

 

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