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一世の記録を拾い集めた男 ~加藤新一の足跡をたどって~

第17回 広島はアメリカ2世の郷里だから?

日米開戦から8ヵ月余の1942年8月20日、日米交換船で日本へ戻った加藤新一は、郷里の広島市で中国新聞の記者となった。いつからどのような経緯で就職したかはわからないが、アメリカでの邦字新聞の記者としての経験がものを言ったのだろう。

中国新聞は、広島市に本社を置き広島県内のほか、山口県、岡山県、島根県など中国地方で販売されているブロック紙で発行部数は、約53万8000部(2021年3月)。その歴史は古く、明治25(1892)年に「中国」として創刊、明治41(1908)年に「中国新聞」と題号がかわった。


開戦前後の中国新聞

日米開戦の翌年(1942年)に中国新聞は創業50周年を迎えた。開戦後勢いを増していた日本だが、加藤が帰国する2ヵ月前の6月にはミッドウェー海戦で敗北し、守勢に転じていた。1944年にはサイパン島で日本軍は玉砕、東条内閣は総辞職した。日本本土への空襲もはじまり、11月には東京も初めて空襲に見舞われた。

1945年5月15日、中国新聞の東京支社が焼夷弾攻撃によって消失、つづいて大坂支局、岡山支局、宇部支局、下関支局、徳山支局、福山支局が戦火で失われた。このため広島市の中国新聞本社では迫りくる空襲への防衛対策が進められた。

しかし、社員の多くは応召していたため、地方の支局員を交代で動員、防火幕や防火水槽を設けるなどして防空体制を整えた。一方、新聞用の資材は空襲に備えて疎開させた。

戦局が悪化するなかで、中国新聞社の本社では、当時軍の命令によって中国新聞本社員と広島にある各報道機関の従業員とで構成する「中国新聞社国民義勇隊」やビル社屋や印刷機械を空襲から守るための自衛隊が組織されていた。

義勇隊の本部(隊長)は、社長の山本実一で、軍隊組織のように構成されていたが、このなかで加藤新一は、本体の第一中隊長につぐ第一小隊長の任を受けた。帰国後、中国新聞にすぐ入社したとしてもまだ数年の加藤が、こうした地位にあったということは、経験や実力を買われて、記者として社内でもそれなりの地位にあったと推測される。が、彼の戦前の中国新聞社での活動についてはわからない。


原爆前の穏やかさ

1945年4月1日、米軍は沖縄に上陸、日本軍と地上戦を繰り広げた末6月23日戦いを終結させた。本土への空襲も激しさを増していくが、広島市では米軍機が来襲したのは、3月18日,19日と4月30日だけで比較的平穏な日々が続いた。

「広島県が移民県であり、アメリカ二世の郷土だから、空襲目標から除かれているのではないか」という説が飛び出るほどだったという。

だが、そうした説を戦争の冷酷さが吹き飛ばしたのが8月6日だった。午前8時15分、広島市細工町十九番地(現在の大手町一丁目)島病院の当方約25メートル地点の上空580メートルで、アメリカのB29エノラ・ゲイ号が落とした原爆が爆発した。

当時、中国新聞社は爆心地から約1.5キロの広島市上流町二の一にあった。この日出勤の義勇隊員約40人は、午前8時すぎ広島県庁舎北側の天神町の強制建物疎開地に集合して指揮者の命令を待っていた。また、前夜からこの日にかけて宿直していた十数人の社員は、午前7時31分の警戒警報解除とともに一部を除いて仮眠をとりに帰宅したり社の前の支社局員の寮へ帰ったりしていた。本社の社屋内にいたのは10人だった。

爆発と同時に窓ガラスは全部吹き飛び、社員のひとりは爆風にあおられて二階から落下した。

広島の街は一瞬にして破壊され、凄惨な光景がいたるところで見受けられた。


いつものように出勤していたら

この日は平日であり、人々は通勤、通学など一日の仕事をはじめる準備にとりかかろうとしていた。午前8時には警戒警報が解除されたこともあり、ひと息ついていた人もいた。爆発が起きた時、加藤新一は中国新聞本社へ向かう通勤の途中だった。加藤の実家は市内の横川駅に近いところだったが、当時は市内中心部から約10キロほど南西にいった平良村(現在の廿日市市)に妻子とともに住み、毎日そこから社へ通っていた。

出勤時間はいつも守っていたようで、通常は8時には出社していたのだが、この日は前夜の取材で帰りが遅くなったため、いつも乗っている電車(広島電鉄宮島線)より3、4本おそい電車に乗った。

もし、いつもの電車に乗っていたら加藤は、命を落としたか、かなりの重症を負ったと思われる。通勤途中で爆発を知った加藤は、その瞬間から自分がとった行動と目にしたものを記録している。

広島市内の原爆ドーム(筆者撮影)


残された体験記

平和活動に邁進していた1971年、加藤は、自らが発行した「平和競存の創造」と題する出版物のなかで「原爆生き地獄を往く一老記者のピカドン体験記」と題して4ページほどにまとめている。

「この一文は近来『戦争放棄』の平和憲法改悪の機運が強く、生命を賭して第三次大戦阻止のため、また余生を平和運動にささげる原点として一九七一年八月の原爆記念日に際して再記述した。(筆者)」とあるように、いつかはわからないが被爆後に記したものを、26年後に採録したと思われる。

爆発を知った瞬間から、市内の中国新聞本社へと向けて、破壊され死者とけが人がうごめく街を歩き回り、夕刻自宅にようやく戻るまでの間の生々しい記録だ。

油に似た黒い雨が降る。医者はどこだと叫ぶ声。子どもを案じて泣き叫ぶ若い母親。撃墜された米軍機に乗っていた米兵への仕打ち。被爆直後の街の光景がとらえられている。

次回、体験記をそのまま紹介したい。

(敬称一部略)

続く >>

注1:中国新聞に関しては「中国新聞八十年史」(中国新聞社史編纂委員会、1972年)を参考にさせていただきました。

 

© 2021 Ryusuke Kawai

a-bomb Chugoku Shinbun Hiroshima Shinichi Kato

Sobre esta serie

1960年前後全米を自動車で駆けめぐり、日本人移民一世の足跡を訪ね「米國日系人百年史~発展人士録」にまとめた加藤新一。広島出身でカリフォルニアへ渡り、太平洋戦争前後は日米で記者となった。自身は原爆の難を逃れながらも弟と妹を失い、晩年は平和運動に邁進。日米をまたにかけたその精力的な人生行路を追ってみる。

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