Keiko Fukuda

Keiko Fukuda was born in Oita, Japan. After graduating from International Christian University, she worked for a publishing company. Fukuda moved to the United States in 1992 where she became the chief editor of a Japanese community magazine. In 2003, Fukuda started working as a freelance writer. She currently writes articles for both Japanese and U.S. magazines with a focus on interviews. Fukuda is the co-author of Nihon ni umarete (“Born in Japan”) published by Hankyu Communications. Website: https://angeleno.net 

Updated July 2020

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Choices for Japanese People Living in America

31年間の米国生活から日本に引き揚げた後永住権を再取得した徳留絹枝さん

子どもの将来考え永住権取得

様々な理由で米国暮らしの後に日本に引き揚げたり、またアメリカに残る選択をしたりする新一世の話を聞くうち、一度日本に引き揚げた後に再びアメリカに戻ってきた人の話も聞きたいと思うようになった。そんな時、2019年の夏にオレンジ・カウンティーのアーバインで開催されたセミナーで、偶然再会した徳留絹枝さんのことを思い出した。徳留さんはユダヤ人と日本人の関係に焦点を当てた著書で知られる活動家(私はジャーナリストだと思っていたが、徳留さん本人は活動家と紹介してほしいと言う)で、再会した時「日本に一度帰っていたんですが、またアメリカに戻ってきました」と話していたのだ。再会から1年以上経ったコロナ禍の中、私はzoomで徳留さんの帰国の決断、永住権を取得し直して再移住した経緯を伺う機会をもらった。

徳留さんが最初に渡米したのは夫のアメリカ駐在への同行が目的で、1978年のことだった。二人の子どもは当時まだ幼く、土曜の日本語補習校には通っていたが、「子どもたちがこれから日本に帰ると言葉や生活習慣の面で苦労するに違いない」と思い、帰国辞令が出た時にアメリカに残る道も選択できるようにと、徳留さん夫婦は永住権を取得した。その後も徳留さんはホロコーストや旧日本軍米兵捕虜に関する著書に取り組むなど積極的な活動を続け、夫も会社から独立し起業した。そして、子どもたちがアメリカで社会人として巣立った後、転機が訪れた。2009年に夫が癌と分かり、日本での治療を選び、夫婦で帰国することを決めたのだ。

「夫が病気になるまでは老後は日本で暮らそうとか、あまり深く考えたことがありませんでした。しかし、(夫が)初めて病気になり、アメリカのかかりつけのドクターに紹介された専門医の診断を受けた後、保険で最初の段階の治療はカバーされても、次の段階になったら簡単には(カバレッジは)効かなくなるかもしれない、と治療費についての問題が出てきました」。故郷に暮らす夫の兄が「鹿児島で治療を受けたらいい」と熱心に勧めてくれたことが夫婦の背中を押した。

故郷では温かく迎えられた

2009年の5月に帰国し手術を受けた後、7月の長女のアメリカでの結婚式には夫婦で出席することができた。それから5年、徳留さん夫婦は鹿児島の家族や親戚、友人に囲まれて穏やかな時間を過ごした。アメリカで31年も暮らした後の日本、しかも地方の暮らしは不自由ではなかったかと聞くと、徳留さんは「綺麗事で言うのではなく」と前置きした上で次のように続けた。

「私たち夫婦が帰った目的が治療だったので、故郷の人たちは『大変でしょうね』と温かく接してくれましたし、少なくとも人間関係での苦労はなかったですね。受け入れてくれてとても有難いと感謝しました。アメリカのことも聞かれれば話すけれど、自分たちから『アメリカではこうだった』と話さなかったし、話す必要もありませんでした。それに、アメリカから何度も子どもたちを連れて鹿児島と、私の故郷の仙台には帰省して、私たちの家族の顔を見せていました。だから31年ぶりに突然、帰ってきたというわけではなかったんです」。

やがて、徳留さんは夫の父が開設した障害児向け施設で働き始めた。しかし、2014年に再度転機が訪れる。

「夫が逝去したのです。鹿児島の皆さんには未亡人になってからも、ここで暮らせばいい、施設で働き続けてほしいと言っていただきました。でも、私は90を過ぎて仙台で独り暮らしをしていた父と住むことにしたのです。2年後、同じ仙台に住む兄の考えもあり、父は快適な老人施設に入園しました。夫の三周忌を済ませた私も、アメリカのメディケアに入れるようになった2016年夏頃から、結婚してアーバインに住んでいた娘がアメリカに戻ってきたらと強く勧めてくれ、(再渡米を)決心しました」。

永住権は日本に帰国した時に返還していたため、娘のスポンサーで再申請し、1年後の夏に米国に戻ってきた。そして現在の徳留さんは娘と婿、二人の男の子の孫に囲まれて賑やかな生活を送っている。


日本のためになる活動を

8年ぶりのアメリカは徳留さんの目にどのように映ったかを聞いた。「あまり離れていた感じはしませんでした。娘一家と同居なので、いろいろな意味で恵まれていると思います。以前親しくしていたアメリカ人の友人たちとは、日本にいる間もメールでいつもやりとりしていたので、私が帰って来たのを喜んでくれて、すぐ元のような交際に戻り、ブランクを感じることはありませんでした」。

また、執筆活動を行う上でアメリカと日本のどちらがやりやすいかについては次のように答えてくれた。「書きたいテーマによると思います。私の場合は、米国に住んでホロコーストのインタビュー集や旧日本軍の捕虜となった米兵たちの問題を書いていましたが、どちらも日本ではあまり理解されていないテーマでした。そして取材対象者も米国にいましたから(米国に戻ったことは)都合が良かったです。今はエルサレムにある世界有数の障害児施設の創立者の回想録を日本語に訳しています。こういう時代ですので、物を書く仕事はどこに住んでいてもできると思います」。

娘一家と暮らし、ライフワークに取り組む環境としても理想的なアメリカに戻ってきた徳留さんだが、日本を恋しく思うことはないのだろうか。「この先高齢になって身体的に帰れなくなったらそう感じるかなとも思います。しかし、20代半ばからずっと米国暮らしで、子供たちもこちらなので、多分『帰りたい』と思うことはないだろうと思います。むしろ、高齢で米国訪問ができなくなり、子どもや孫たちと会えなくなる方が辛いだろうと想像します。これからも日本との繋がりが途絶えないように、日本で発表できるものを書いたり、ささやかでも日本のためになると思える活動に携わっていきたいと思っています」。

自分がどこに暮らすかよりも、誰と時間を過ごしたいか、何に対してどういう姿勢で取り組むかが重要なのだということを改めて教えてくれた今回の取材だった。


*徳留絹枝さんの運営サイト:「ユダヤ人と日本

 

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Choices for Japanese People Living in America

永住権当選から18年後の現在地 — 中島恒久さん

時給7ドルからのアメリカ生活

サンフランシスコ近郊のIT企業でCOOを務める中島さんと知り合ったのは、某日系ビジネス団体の会報向けの取材だった。取材後に彼のプロフィールをまとめるために名前で検索した。すると、てっきり日本からの駐在員だと思っていた中島さんが実は、同時多発テロ事件直後に永住権抽選プログラムでグリーンカードを手にし、自力で渡米した人だということが分かった。最近は狭き門となっている同プログラムだが、当選後にアメリカに移住した人たちのその後を知りたいと思っていたこともあり、改めて取材を申し込み、話を聞かせてもらった。

中島さんがアメリカを意識し始めたのは、高校生の頃、夢中になったジャズ音楽がきっかけだったと振り返る。「大学生になると、ますますジャズにのめり込んで、ベースを演奏していました。仲間の中にはボストンの音楽大学に留学する人もいました。でも僕は行くなら留学や、ましては旅行ではなく、地に足つけてアメリカで生活してやると思っていました。単なる妬みなんですけどね(笑)」。

当時大阪に住んでいた中島さんは、懇意にしていた会社経営者を通じて、パット・メセニーやハービー・ハンコックといった一流ミュージシャンと直接会う機会もあったという。そして、アメリカでミュージシャンとして活躍する自らの将来像を描き続けた末に、2001年、永住権抽選プログラムに応募すると、何と一発で当選。実際にアメリカに移住したのは2004年、25歳の時だった。場所は北カリフォルニアのバークレー。

「アメリカに来たら音楽活動をやっているだろうと想像していましたけど、全然思ったようにはいきませんでした。英語が喋れない、知り合いがいない、仕事がないという状態で、結局、アパートの近くのお寿司屋さんにキッチンヘルパーとして雇ってもらいました。日本では演奏活動の傍らインターネットの会社で働いていてそこそこ収入もあったんですが、いきなり時給7ドルからの再出発。しかもオーナーさんがフェアな人で、メキシカンの従業員より後から入った僕を彼らの下に置いたんです。最初の頃は疎外されているように感じましたが、しんどいなあと思いながらも、メキシカンの彼らと同じ物を食べ、同じ音楽を聴くようにするなど、自分なりに溶け込めるように努力しました」。

やがて寿司屋を辞め、色々な仕事を転々とする不安定な生活を続けていた2010年に次の転機が訪れる。「実は僕、日本で結婚していて、奥さんと一緒にアメリカに来たんです。でも、彼女にしたらいつまでこんな(安定しない)生活が続くの?と不満が募っていったようで、別れを切り出されました。一緒に住んでいた家を出ることになり、仕事も同時に失って、友人の家のガレージに転がり込む羽目に。もう日本に引き揚げたいと親に相談すると、『今のような状態で帰って来たら負け犬のままだ。胸を張って帰って来れるようになるまで帰って来るな』と言われたんです。確かに、それまでの僕はお寿司屋さんの下働きに始まり、なんとかギリギリのところでやっていました」。そこで覚悟を決め、改めて仕事探しに奔走した結果、旅行会社の営業に転職、次に食品商社の事務員になり、その後マネージャーにまで昇進した後、現在のIT系企業への転職を果たした。

日系人と日本人をつなぐ触媒

今は仕事と音楽活動の二足の草鞋だけでなく、北加日本商工会議所をはじめとしたコミュニティーの活動にも積極的に携わっている。その活動の根幹にあるものについて聞くと、中島さんは次のように答えた。「在米の日本人社会は分断しています。同じ日本人なのに、たとえばレストランなどの飲食業界と僕が今身を置いているITの業界は別の世界です。その点、僕は両方の社会に属していた結構珍しい人材なんです。これまでライブ演奏、レストラン、旅行、食品、物流そしてITの業界に属していたことがあり、8年前に市民権を取得しているのでジャパニーズアメリカンの一世でもあります。だから、異なる業界の間、また日系人と日本人の間をつなぐ触媒のような役割を果たしたいというミッションを自らに課しています」。

次に中島さんがなぜアメリカの市民権を取得したのかを聞いてみた。「国籍ってたまたま生まれた場所によって決まるもので、自分で選べないじゃないですか。それを変えた時に、自分の中にどのような心境の変化が起こるんだろうということに興味がありました。果たして日本人ではなくなるのか?と。しかし、国籍がアメリカに変わっても、僕が日本人であることに変わりはありませんでした。どこをどう切っても日本人です(笑)。そして、市民権を取得した大きな理由は、アメリカの中でいろんなことがあったけど、この社会の中でなんとか生き延びることができたから、アメリカという国に恩返ししたいということなんです。そのために義務も責任も果たして、この国の一員になりたいと思って市民権を取得しました」。

さらに、中島さんは、日本人の新一世の親の下に生まれた日系二世の若い世代に社会で活躍するためのキッカケを与えるために尽力していると話す。「彼らを見ていると、アメリカ社会の中ではマイノリティーであり、(ルーツの)日本でも暮らせない、一種のアイデンティークライシスが透けて見えます。20代、30代でもまだマチュアではない人もいて、いろんなことがうまくいかないことを他の人のせいにするようなところも見受けられます。それは自己を肯定できない、自信のなさから来ているように思えます。そういう二世とじっくり付き合って、『やるかやらないかは自分にかかっている。親を恨むのではなく、自分の行動を変えるべき』と伝え、機会を与えられればと思っています」。

「うまくいかないことを人のせいにしない。やるかやらないかは自分にかかっている」、それは永住権抽選から紆余曲折あった中島さん自身が、一番身に沁みている言葉に違いない。

 

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Choices for Japanese People Living in America

Why people decide to move back to Japan, instead of living out their life in America

Married couple who moved back to Japan after 48 years living in America

An increasing number of people around me are moving back to Japan. I’m also nearing that turning point myself. I feel at ease because my eldest son works in Japan and lives with my parents, but as their only child, I must return to Japan to take care of them when they require more elderly care. While there are Shin-Issei like me who return to Japan in order to take care of our parents who stayed in Japan, there are also those who move to Japan because …

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Toyota USA’s Christopher Yang, a Nisei Born in Southern California

Motivation to Study Japanese

The reason why Nisei children who were born in the U.S. go to Japanese-language schools or hoshūkō is that their parents hope that they will acquire the language of the land where their roots lie. That was also the case for my two children. Every Saturday morning, I would hurry them along to Japanese school, with not a bit of enthusiasm on their part. This is the point where children diverge. Some will rebel against having to go to school on Saturdays on top of the usual Monday to Friday, and will end up quitting partway …

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Ryohei Ito: Rakkan Ramen owner who came to the US in 2017

6-Year Moving Preparations

Opening up its first restaurant in downtown Los Angeles in July 2017, Rakkan Ramen expanded with a location at Redondo Beach in the South Bay and then another in Santa Monica, CA. CEO of Rakkan USA, Ryohei Ito, moved to the United States by using his ramen as a foothold. He has now set his sights on branching further out from his base in Los Angeles across the United States and Europe. Ito’s desire to live overseas goes back over 10 years to when he traveled around the world as the chef on a large cruise ship …

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