Sataye Shinoda

東京家政大学人文学部教授。日本女子大学大学院修了。専門は、日系人の歴史・文学。おもな業績:共編著『日系アメリカ文学雑誌集成』、共著『南北アメリカの日系文化』(人文書院、2007)、共訳『日系人とグローバリゼーション』(人文書院、2006)、共訳『ユリ・コチヤマ回顧録』(彩流社、2010)ほか。

(2011年 2月更新)

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日系アメリカ文学雑誌研究: 日本語雑誌を中心に

青年活動から生まれた文芸誌『怒濤』-その4/5

>>その3

4.『怒濤』の内容

これは機関誌という性格から、青年団の活動報告などが多数掲載されていると考えられるが、そのような記事は少ない。野球が創刊号と第2号に、相撲大会の結果が第2号に、各部の行事は創刊号、第2号、第5号で扱われているが毎号載っているわけではない。スポーツ大会の結果は週一回発行の新聞紙上に掲載されたため、ニュース性の少ない機関誌には載らなかったのであろう。

特徴としては青年たちを啓蒙する記事が多く掲載されている。安芸良「結婚と出産とキャンプ生活」(創刊号)、丸山郁雄「戦時体制下の日本」(創刊号)、「組合への再認識」(第2号)、「戦争への回顧」(第5号)、萩原卓也「国史教育への一考察」(第3号)、土屋天眠「現代の青年のために」(第3号)、くすのせ「戦争と科学」(第4号)、「坂本竜馬」(第4号から第7号で完結、無記名だか藤田晃の作品)、安芸良「キャンプの実数的興味」(第5号)、玉那覇晃洋「人間親鸞」(第6号)、池本覚「シオン議定書」(第7号)などで、いずれも日本人が身につけておくべき教養として掲載されたものである。「坂本竜馬」は所内の映画会で上映されて人気があったため書かれたものであろう。

しかしこれらの啓蒙記事をしのぐ数の随筆、短詩型文学、小説など文学作品が掲載されていて文学誌と見まちがうほどである。藤田・橋本の二人の文学青年は、機関誌の名を借りて、実は文学誌を作りたかったのではないかと思われる。文学をめざした人びとは『鉄柵』同人となって創作に励んでいたが、『鉄柵』に遅れること半年で創刊された『怒濤』にも同様に多くの創作が掲載されている。ただし、『鉄柵』同人のように質の高い文学を生み出そうと努力して、水準の合わない作品の掲載を断ったり、合評会などがあったわけではない。投稿された作品はすべて採用された。編集担当の二人は各分野で力作を載せている。『怒濤』は編集者二人の大奮闘によって支えられていたといって過言ではない。

藤田には、小説「汽車の中」(創刊号)、「Mと私」(第2号)、「母と子」(第3号)、「或る環境」(第6号)、「影と蔭」(第7号)および戯曲「甦る家族」(第5号)がある。さらに菅井良のペンネームで、詩「成長」(創刊号)を書いた。無記名だが「映画雑記」(第4号)、「映画談義」(第5号)も映画評論を得意とする藤田の記事であると推測される。

「汽車の中」は、勉学のために収容所を出た記代という若い女性が休暇で収容所へ戻る車中の心理を描いた小説である。彼女は収容所では健全な生活が送れないと確信して外部へ出る。しかし外部の生活を経験したあとで、文明に依存して自然を破壊するのがアメリカ社会であると悟る。以前に訪れた日本の社会は自然と調和した美しいところであった。彼女は両者を比較して、日本の自然の美しさに惹かれる自分には日本人の血が流れているのだと自覚する。藤田は、この中で二世は日本人として生きるべきだと主張している。ひとつの文が長く複雑でたいへん読みにくく表現の稚拙さが目立つが、創作にひたむきに取り組む藤田の姿勢がよく表れている。第3号の「母と子」では、同じ記代という女性が休暇で帰宅したときの母との交流を描いている。ここでは「汽車の中」で見られるような生硬さはなく、娘を案じる母の気持や外部への就学を希望しながら姉のためにその希望を果たせないでいる妹への思いやりなどを自然な会話を通じて描いている。まだ習作の域を出ていないが、創刊号に比べると努力のあとが見える。

橋本京詩は、巻頭言(創刊号)に始まり、小説「お姉さん」(第2号)、「邂逅」(第3号)、「霧の中に消えた男」(第5号)、短詩型文学では創刊号と第7号に短歌、創刊号・第2号・第3号・第4号・第7号に川柳を載せている。また、いくつかのペンネームを使い分けて多くの作品を書いている。それらを列挙すると樹立繁の名で短歌「鷗乃物語」(第5号)、詩「その男」(第6号)、水上総吾の名で短歌「月明抄」(第6号)、紺屋川幸作の名で随筆「川柳を始めた動機」(第2号)、読書感想「『一握の砂』を読みて」(第3号)、となる。さらに創刊号から第7号までの表紙の絵を担当して多彩ぶりを発揮している。彼は自分の持つエネルギーを最大限に発揮して、楽しみながら創作していたようである。

「お姉さん」は、アメリカで収容所にはいっている弟が紆余曲折を経て日本にいる兄の妻に会うという話で、自分にも姉がいるのだという喜びと姉を慕う気持ちを率直に書いている。「邂逅」は、帰米して日本語学校の教師をしていた主人公がある反抗的な教え子を叱ったことから解雇される。その後収容所でこの教え子の女性と再会し、その不幸で孤独な生活に同情し、淡い恋心を抱くというストーリーである。いずれも文学青年らしいセンチメンタルな作品である。

その他小説では、『若人』で大いに活躍した帰米二世の伊藤正も「この道を行く」(創刊号、第2号)を載せているが、その後、おもに『鉄柵』へ作品を出すようになった。「この道を行く」は、ハワイ生まれの帰米二世がアメリカ軍兵士として出征するまでの心の葛藤を描いた小説で、生まじめな伊藤らしさが表れた作品である。

その5>>

* 篠田左多江・山本岩夫共編著 『日系アメリカ文学雑誌研究ー日本語雑誌を中心にー』 (不二出版、1998年)からの転載。

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日系アメリカ文学雑誌研究: 日本語雑誌を中心に

青年活動から生まれた文芸誌『怒濤』-その3/5

>>その2

収容所の出版物には当局の検閲があった。『怒濤』も例外ではなかった。

藤田によれば創刊号の記事は検閲にパスするよう慎重にことばを選び、すべて翻訳して提出した。これが承認されたのち、第2号からは翻訳を提出する義務を免除されたという。その後は日本へのそれぞれの思いをかなり自由に表現することができた。それは創刊号の「巻頭言」のなかで日本は「彼方のうましくに」「黎明の彼岸」と表現されているが、第3号では「純白の地に旭日を以って描かれた明るき世界」となって、日章旗のイメージをより鮮明に表していることからも分る。第3号が発行された1944年10月、日本軍はレイテ海戦で連合艦隊の主力を失い、11月には東京が空襲されるなど連合国が圧倒的に優勢であった。アメリカ本土への日本軍の攻撃もないという安堵から、戦時転住局は出版物に関してはあまり厳重な監視を行なわなかった。かつて比良青年会が危険分子の集まりとみなされて、幹部が逮捕、抑留されたころとは情勢がかなり異なっていた。

機関誌には「巻頭言」および「断想」というページがあり、青年たちを啓蒙する記事が掲載されている。これらによってこの機関誌の目的を明らかにしてみることにする。

創刊号の表紙には、嵐のなかを進む古代の戦士を乗せた船が描かれている。橋本京詩は巻頭言の詩「怒濤の如くあれ」のなかで、いかに苦難の道が待っていようとも怒濤のような勢いで対岸の「うまし国」日本へ向かって進んで行けと若者たちに呼びかけている。日系人にとって戦争はまさに嵐の到来であった。排日にもめげず、将来に希望をもって日々を送っていた若者たちは戦争によってその希望を絶たれてしまった。アメリカ市民権を有しながら収容所に追いやられた二世の中でも帰米二世は、戦争によってもっとも打撃を受け、翻弄された人びとであった。特に藤田や橋本など帰米して間もなく拘束された人びとは、アメリカ民主主義を純粋に信じていただけに、その市民権が蹂躙されたショックは大きかったといえるであろう。アメリカで暮らしてきた二世ならば、人種差別などが横行して民主主義がうまく機能していない社会を体験しているが、帰米二世はその点で非常に純粋であったといえるかもしれない。彼らは日本における教育年数などによって個人差はあるが、ほとんどが日本の軍国教育を受けていた。したがってアメリカ人としての権利が奪われたとき、心の拠り所を日本に求めたのは当然といえよう。

創刊号の「発刊の辞」のなかで藤田は、この雑誌が「現下の時代を認識し、新しき時代の秩序を建設せんとする若き青年の魂の修練場となり、青年の意気と情熱とが怒濤を基調として生まれてくるとすれば、本誌発行の目的も達せられるわけである」と述べている。つまりこの雑誌は若者たちに指針を示すことを目的とした。また同じ創刊号に丸山郁雄は「戦時体制下の日本」を書き、物価統制・増税・国家総動員などの日本の戦時政策について述べたのち、日本国内の人びとの生活の厳しさに比べて、収容所の人びとが安易な生活を送っていると警告している。丸山によれば、この戦争は聖戦であり、日系青年はたとえ戦争に直接参加できなくても鉄柵のなかで無為に過ごすことは許されない。将来は必ず役立つ人材となって日本で暮らすことを前提に日々を真剣に生きよと呼びかけている。このような啓蒙のことばは、収容所を精神修養の場にしようという比良青年会の目的をそのまま受け継ぐものであり、『怒濤』がその延長線上にあることを示している。

「断想」の内容を簡単に示すと次のようである。「現状維持派と現状打破派の対立は単なる泥試合にすぎない」「所内演芸会の低俗」(創刊号)、「青年団運営の日本語図書館が貸し出す本は大衆小説ばかり」「子供の行儀の悪さ」(第2号)、「一世・二世・帰米二世の区別を捨てて日本人として融和する」「有意義な国民学校体育大会」「鉄柵に押し込められているから何もできないという観念を捨てること」(第3号)、「純二世への日本人教育」「西部沿岸への再定住許可」(第5号)、「所内のスポーツは勝敗にこだわらず、健全な娯楽として楽しむべき」「怠惰な生活に慣れてはいけない」(第6号)、これらは「立派な日本人」になるために、青年たちがいかに収容所生活を送るべきかを示唆している。青年たちが低俗な演芸に拍手を贈り、大衆小説を楽しみ、盆踊りに興じ、スポーツの試合で勝敗にこだわる収容所の現実を批判している。贅沢や娯楽は敵とした戦中の日本のゆがんだ姿を「理想的」とみなして模範としているようである。しかし、アメリカで育った青年たちにどの程度理解されたかは疑問である。

このなかで「国民学校」ということばは奇異に感じられるかもしれないので、少し解説をしておきたい。他の収容所と同様にトゥーリレイクには、アメリカの法に基づく公立学校があった。しかしさらに1943年11月、収容者から資金を募って日本の教育に準じた「国民学校」が開設された。これは隔離収容所ならではのことで、日本への送還を希望した人びとが存在したために許可されたのである。この学校を援助する組織として「中央日本教育会」か結成され、一年後の44年10月に機関誌『練成』が発行された。この機関誌には「戦場に馳駆すべき秋である。国民総武装で、戦時産業に馳せ参ずべき身である。だが、それはどうにもならない吾々である。せめては後継者たる若い人々に児童に、皇国の道を徹底せしめたいと思うのである」(『練成』第1号「発刊の辞」)と書かれて、学校では徹底した皇国教育が行なわれていたことが分かる。学校は全部で8校あり、一校あたり、15、6人の教師がいて、初等及び中等教育が行なわれた。教科書は日本の国定教科書を複写したものの他、各学年用の『課外読本』および『作法要綱』があり、それぞれ15セントから30セントで販売された。青年団員には国民学校教師が多かったようである。土井静雄の「教壇に立ちて」(第7号)はみずからの国民学校教師の経験を書いたものであるし、牧さゆりの詩「理性」(第2号)、下田実「叱ること」(第2号)、茜しげるの新体短歌「教場の壁」(第4号)などから、彼らも教師であったことが分る。

その4>>

* 篠田左多江・山本岩夫共編著 『日系アメリカ文学雑誌研究ー日本語雑誌を中心にー』 (不二出版、1998年)からの転載。

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日系アメリカ文学雑誌研究: 日本語雑誌を中心に

青年活動から生まれた文芸誌『怒濤』-その2/5

>>その1

2.鶴嶺湖男女青年団の結成

隔離収容所となった1943年の秋ころから、青年団を作ろうという動きが起こったが、それが本格化したのは、さきに述べた「現状維持派」と「現状打破派」の対立が深刻になった時期であった。これら二派の対立は、市民権の蹂躙への抗議や、合衆国に忠誠か不忠誠かといった日系人の思想の根本的な問題から生まれたものではなかった。良識のある人びとの目にはその対立は単なる醜い勢力争いとしか写らなかった。自分たちがそのようは無益な対立に巻き込まれ、次第に生きる指針を見失って行くのは耐えられないと考えた若者たちは、止むに止まれぬ気持ちから青年団の結成を決意した。青年たちは二派の対立の中で暴力がまかり通って、正常な判断が失われていく事態に危機を感じていた。考え深い人びとが沈黙してしまうような状況を変え、収容所生活を意義あるものにしたいというのが、多くの若者に共通した気持ちであった。

1944年3月12日、中央劇場で鶴嶺湖男女青年団の発団式が行われた。「鶴嶺湖」とは、当時多く使われていた片仮名表記「ツールレーキ」に詩的な漢字を当てはめたもので、新聞などにもこの字が使われている。団長は、かつてヒラリヴァー収容所で「比良男女青年会」を組織していた帰米二世丸山郁雄であった。彼はその経験を評価されて、ふたたび団長に選ばれたのである。団員は大部分が帰米二世であったが、親に従って日本送還を希望した純二世も含まれていた。

青年団は会費を徴収せず、演芸会、日本映画の上映会、絵画や工芸品の展示即売会などを催して入場料を集め、その利益を会の運営費に当てた。そしてこのような有料の催し物を頻繁に開いたため、「金儲け青年団」というニックネームをつけられたという。しかし娯楽の乏しい収容所では映画や大衆演劇の上演は大人気で、切符はたちまち売り切れてしまい、かなり利益が得られた。青年団はこれを資金として活発な活動を行うと同時に、紙を購入して機関誌の発行を計画した。

3. 機関誌『怒濤』の創刊とその目的

1944年7月、隔離収容所となってからちょうど一年目に『怒濤』が創刊された。青年団が組織されてすでに4ヶ月がたっていた。機関誌発行は結団当初から計画されていたようだが、監理当局から発行許可を得てまとまった量の紙を確保することが難しかったと思われる。雑誌は謄写版刷りで約500部作られ、団員に無料で配布された。

編集を担当したのは帰米二世の藤田晃と橋本京詩(本名は清)である。二人は幼い時に日本へ送られ、東京の大学または大学予科で学んだという共通点があった。藤田の父は静岡県清水市三保の出身で、カリフォルニア州インペリアル平原で農業を営んでいた。晃は1920年にブローレー市で生まれ、2歳のときに祖父母のもとに送られて養育された。成人するまで日本で過ごし、早稲田大学を中退して帰米し、ロサンゼルスで暮らしていた。彼はポストン収容所を経て、トゥーリレイクへ送られて来た。彼は団長の丸山と中学の同級生であったため、青年団の機関誌を担当してほしいと頼まれた。

一方の橋本はロサンゼルス生まれで、3歳のときから父の郷里福井県で育てられた。地元の中学を終えると東京へ出て、立教大学の予科で学んだ。その後日米開戦の直前に最後のアメリカ行きの船となった竜田丸で帰米した。彼はマンザナー収容所を経てトゥーリレイクへ来ていた。二人は年齢が同じで幼いときから成人するまで日本で暮らしたという経歴も一致していた。その上、二人とも文学青年であった。意気投合した二人は、身軽な独身青年である利点を生かして機関誌の仕事に専念した。

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* 篠田左多江・山本岩夫共編著 『日系アメリカ文学雑誌研究ー日本語雑誌を中心にー』 (不二出版、1998年)からの転載。

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日系アメリカ文学雑誌研究: 日本語雑誌を中心に

青年活動から生まれた文芸誌『怒濤』-その1/5

トゥーリレイク収容所は、日本語出版物のもっとも多い収容所である。文学誌の性格をもつものは『怒濤』および『鉄柵』のほか、短歌誌『高原』がある。『高原』は泊良彦の主宰する「東津久仁短歌会」の短歌誌である。単行本では加川文一の随筆集『我が見し頬』、矢尾嘉夫の歌集『歸雁集』、泊良彦の歌集『渦巻』が発行された。

複数の日本語雑誌があるのはこの収容所のみで、これらの雑誌は収容所が「隔離」収容所となった1943年7月15日以降に発行された。「隔離」とは、同年2月に実施された「忠誠登録」で合衆国への忠誠を拒否した人びとを、他の忠誠な収容者から隔離することを意味する。その結果、トゥーリレイクは他の9ヶ所の収容所とは異なった性格をもつようになった。他の収容所では忠誠登録ののち、戦時移転局および収容者の双方で外部への再定住のための情報提供や準備が行われたが、トゥーリレイクでは日本への送還を希望する人が多かった。43年11月には収容者の手で国民学校が創設され、二世を対象に日本人教育が行われた。ここではアメリカ国内への再定住ではなく日本へ行くための準備がなされたのである。

日本語雑誌はこのような状況のもとで生まれた。『鉄柵』は戦前に『收穫』創刊の中心人物であった加川文一の助言のもとに三人の若い帰米二世、山城正雄・河合一夫・野沢穣二が編集した文学誌である。一方の『怒濤』は文学誌ではなく「鶴嶺湖男女青年会」の機関誌であった。これはかつてヒラリヴァーで結成された「比良男女青年団」のメンバーが、トゥーリレイクで再編成した団体である。『怒濤』は帰米二世の藤田晃・橋本京詩によって編集された。『鉄柵』は『カリフォルニア日系人強制収容所』(白井昇、1981年)のなかで紹介されているが、『怒濤』は『鉄柵』の陰に隠れて、その姿はほとんど明らかにされていなかった。このたび日系文芸人のご厚意によって全号を復刻して保存することが出来たのは、意義深いことである。

1. トゥーリレイク隔離収容所の環境

トゥーリレイク収容所はカリフォルニア州東北部のオレゴン州境の近く、ニューウェルという小さな町のはずれにあった。レイクといっても水をたたえた湖ではなく、ここが太古に湖の底であったことから名付けられた。あたりにはペリカンなどの水鳥の群れる湿原があり、トゥーリと呼ばれる葦の一種が生い茂っている。かつてこのあたりに住んでいた先住民は、この豊富なトゥーリを住居や生活用品の材料として利用していた。この収容所は「ツールレイク」「ツーリレーキ」など様々に表記されるが、現地ではトゥーリに由来してトゥーリレイクと発音する。

湿原がある一方、その先には不毛の乾燥地帯が広がっており、収容所はその乾燥した湖底にあった。収容所の入り口に立ってはるかかなたを見渡すと、正面にあわびの形をした巨大な溶岩丘が横たわっている。これはその形からアバロニ・マウンテン(鮑ヶ丘)と呼ばれて収容所のシンボルとなっていた。収容所内の土壌はきわめて荒く赤茶色で、溶岩を砕いて敷き詰めたのではないかと思われるほどである。歩くとざくざくと音がして、足首まで埋まってしまう。樹木の類はまったく見当らず、唯一の緑といえば、強い香りを放つヨモギの一種であるセイジブラッシュがまばらに生えているだけである。

収容所の西には、通称「キャプテン・ジャックの砦」という先住民モドック族の古戦場キャッスルロックが聳えている。1873年、女性や子供を含む175名のモドック族は、このあたりの溶岩台地にたてこもって約1,000名の合衆国軍と戦い、滅亡した。合衆国のインデイアン政策に最後まで武力抵抗して滅亡したインディアンの古戦場と、合衆国に不忠誠な日系人隔離収容所が隣り合わせているのは、歴史の皮肉といえよう。

収容所は面積1万2,955ヘクタール、最大時には18,762名を収容した巨大な人工都市であった。他の収容所と同様に周囲には監視塔があり、武装した兵士が24時間見張りに立ち、銃口を収容所の内部へ向けていた。1943年7月に隔離収容所に指定されたのち、10月から収容者の交換が始まった。各地の収容所から1万2,000名の不忠誠者が送り込まれ、同数の忠誠者が収容所を去った。その後、44年3月にはマンザナー収容所から、11月にはハワイの抑留者が到着した。同時に6,000名の忠誠者も残留していた。移動の結果、1万5,000名の収容能力のところに約1万9,000名が住むことになり、過密な状態で暮らす人びとの間にいらだちがつのった。

住宅事情の悪化と不忠誠者になったという疎外感から、収容者は何かにつけて管理者側と対立した。とくにここでは忠誠登録を実施する際の管理当局のやり方が威圧的で強引であったことから、帰米二世の若者が当局への反発を強め、住民に登録拒否を強要したという経緯があった。そして他の収容所と比較して不忠誠者が多く、隔離収容所に指定される結果となった。43年11月、収容所の管理をめぐって戦時転住局と住民代表の会議が決裂し、それに群集心理に動かされた人びとが加わって騒動に発展した。さらにトラックの横転事故で死者が出る不幸なできごとをきっかけとして、収容者と当局の対立は決定的局面を迎え、すみやかな収拾は不可能と判断した当局は収容所を軍の管理下においた。住民の意見は、あくまでも戦時転住局と対決する姿勢を崩さないとする「現状維持派」と、意地を張らずに当局と協力して収容所を改善しようとする「現状打破派」に二分された。解決へ向けて住民投票が実施され、「現状打破派」が勝利した。しかし、この二派の対立は最後までしこりを残し、この後の収容所生活を暗いものにしたのである。

その2>>

* 篠田左多江・山本岩夫共編著 『日系アメリカ文学雑誌研究ー日本語雑誌を中心にー』 (不二出版、1998年)からの転載。

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日系アメリカ文学雑誌研究: 日本語雑誌を中心に

『若人』 ―帰米二世文学の芽生え- その5/5

>>その4

『若人』第三号は8月30日に発行された。編集部によれば、戦時転住局はすべての作品を翻訳し、英文と和文の両方を掲載すべきであると主張したという。しかし、双方の折衝の結果、従来通りの形式で許可された。青年会の会員は大部分がトゥーリレイクへ隔離されることになっていたため、戦時転住局はその動向に必要以上に神経をとがらせていたと思われる。

この年の夏はとくに猛暑で、温度計が破裂して水銀が飛び散るほどであったが、編集者は最後を飾る立派な雑誌を発行しようと暑さの中で奮闘したという。これまでは毎号とも40ページ弱であったが、第三号は70ページになった。このなかで野口蒼平は「砂漠に咲く花」を書いている。彼は、1943年5月失踪した一世老人の捜索隊に加わる。5月の砂漠はさまざまな花が咲いており、それをひとつずつ丹念に観察して行く。ごくありふれたセイジブラッシュの花は黄色く可憐、モスキートトゥリーの花はアカシアに似ているとか、花を愛する気持が読者に伝わる。普通なら目をとめることもない雑草の花も、収容所という特殊な環境にいるからこそ、その美しさが見えてくるのであろう。多くの人びとが探索したにもかかわらず、老人は発見されなかった。作者は、実は老人が見つからないことを願っているのである。そしてモンタナへ去った息子の後を追った老人が貨物列車にひらりと飛び乗って、愛する息子のもとへ着いてくれればよいと空想したりする。その姿はいつしか作者の今は亡き父の姿と重なる。作者は16年前、日本の父に親不孝の限りを尽くして別れ渡米したのであった。そして30歳を過ぎた今、地の果てまでも父を訪ねて行きたいという思いにかられる。前号の「母の日に」では母への、「砂漠に咲く花」は父への想いを綴った佳作である。

「比良の月」は収容所の中での若者たちの恋愛を映画風にアレンジした作品で、たぶん自分の経験を書いたと推測される。作者田村秀一はロサンゼルス生まれの帰米二世で、日本で商業学校を卒業後、アメリカで高校及びジュニアカレッジを卒業した。専攻は航空工学で、高校時代はアメリカンフットボールのスタープレイヤーであったという。

三冊の『若人』を通じて力作を載せているのは、伊藤正である。先に述べた野口蒼平は伊藤のペンネームであるから、作品の数は三冊中もっとも多いことになる。伊藤はハワイ生まれの帰米二世で、父は岩手県の出身であった。第一号で彼は、人種にかかわりなく人間として誠実に生きることの大切さを訴えてる。このほか彼は、短編「父の言葉」のなかで、帰米二世と純粋二世の兄弟が忠誠登録に際し、不忠誠と忠誠に分かれ、弟は志願兵となる父子関係を描いている。父は兄弟に対し、自ら信じるところに従って人間として誠実に生きよと説く。第三号では「転住所風景」と題して戯曲の形式で、日ごろから作者の気にかかっていた収容者内の現実を描き、問題を提起している。彼は所内の人びとの心がすさんでいくのを見て、書かずにいられなかったと述べている。登場人物は第一部が老人と若い男のふたり、第二部はこのふたりに母子と数人の男が加わる。老人は、「愛国行進曲」のレコードをかけて故国を偲んでいたところ、当局に密告されて、レコードを没収されたと嘆く。老人にとって「愛国行進曲」は、日本の軍国主義を鼓舞するものではなく単に故郷を偲ぶよすがにすぎない。老人にとってその歌が合衆国を害する危険なものであるとは思えなかった。なぜ密告という行為で、日本人同士が裏切りあうのか。若い男は、日本人のなかには戦時のアメリカにいることもわきまえず非常識な行動をして、しかもそれが日系人全体を傷つけているのに気づかない者がいる、と暗に老人を批判する。二人の議論はすれちがい、お互いに理解し合うことはできない。

第二部では急病の子をもつ親に頼まれて、老人が病院へ走り往診を頼む。しかし、診療時間の終了を理由に医師は来ない。そこで人びとの医師への不満が爆発する。医師の報酬は一ヶ月わずか19ドルで、献身的に働く人もいれば、威張って人を見下す医師もいる。しかし、収容者側も病気でないのに往診を頼んだり、病院に押しかけたりする者もいる。また、医師の報酬の少なさを補うために患者が25セントずつの謝礼を集めるという話もあるが、どうも納得できない。人びとは口ぐちに日ごろの不満を言いあう。しかし、老人は次のように言う。「キャンプに収容されたことも、安い賃金で働かされることも、私たちの責任ぢやない。それは私たちの力ではどうにもすることの出来ない、はるかに大きなものの責任です。……いくら踠いて見たところで、私たちのか弱い力ではそれをどうすることも出来ないのです。……それよりも私たちは、私たちが出来ることを、私たちに許されたことを、力の限りを尽してやつて行く――互ひに扶け合ひ忍び合つて、明日の希望を胸に抱きしめて生きて行く。そして平和に日を静かに待つてゐる。それが私たちの最善の道ぢやないでせうか」。伊藤は、最終的にはこのような形で納得せざるをえないことは分っているが、収容所が抱える多くの問題を、この戯曲を通じて訴えたかったのであろう。そして誰もがこれらの不満に共感し、さらにいかに生きるべきかを考える契機となればよいと考えたのであろう。伊藤は自分も含めてまわりの善良な人びとが、収容所生活によって次第に自暴自棄のひねくれた人間に変ってしまうのに耐えられず、これを書かずにはいられなかったのであろう。これらの作品から伊藤が正義感の強い青年であったことがうかがえる。

『若人』は先に述べたように、編集メンバーがすべて合衆国に不忠誠を表明してトゥーリレイク隔離収容所へ移送されることになったため、三号で終刊を余儀なくされた。これは比良男女青年会の機関誌で、青年たちを啓蒙することが目的であった。したがってほとんどが20歳代の若者によって書かれていて、短歌や俳句は少ない。第三号になるとその内容は大部分が創作で占められている。その中には、淡い恋心や失恋の悲しみを紛らわそうと書いたと思われる抒情的な作品「手紙」「黄昏に嘆く」「乙女の唄」や、収容所生活のひとこまを面白おかしく描いた軽い読物「野球フアン」「食堂川柳」などがある。伊藤正の「転住所風景」などは28ページにわたる戯曲で、この作品があるためにこの号は文学誌という印象を強くしている。『若人』全体を見通すと、機関誌的な性格を持つ雑誌から文学誌へと移り変っているのが明らかである。この活動はわずか半年で終わるが、文学を生む努力はトゥーリレイク収容所で再開され、青年団の機関誌『怒濤』、文学誌『鉄柵』へと発展していくのである。そうした点で『若人』は、収容所において帰米二世文学を芽生えさせる重要な役割を果したのである。

最後にその他の文学作品発表の場について述べると、ヒラには他の収容所と同様に所内の新聞『ヒラ・ニューズ・クーリエ』及びその日本語版『比良時報』が週三回発行されており、その中に英語と日本語の作品が掲載されている。しかし英語で書かれたものはごくわずかである。また、1943年から月刊川柳誌『志がらみ』が発行されて、おもに一世の作品発表の場となった。

* 篠田左多江・山本岩夫共編著 『日系アメリカ文学雑誌研究ー日本語雑誌を中心にー』 (不二出版、1998年)からの転載。

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