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「左翼インテリ」の系譜: ロマンに生きた異色のブラジル移民群像 ~その1

ひと言で「ブラジル日本人移民」といっても、わざわざ地球の反対側まで来て移り住むのだから、人それぞれ、いろいろな動機がある。

もちろん一般的には「より良い生活を求めて」との建前をかかげ、その実、貧困、新しい機会、人生のやり直しなどを動機とした人が目立ち、どちらかといえば保守的な思想信条の持ち主が多い。でも、少ないながらも「左派インテリの政治亡命者」的な流れも存在した。今回はそんな人々を紹介したい。

* * * * *

欧米によって植民地化された東南アジアの二の舞にならないよう、明治政府は「強い国」になろうと中央集権化・国家主義化を推し進めていた。明治政府によるその流れに逆行する、国民主体の国のあり方を求める「自由民権活動家」の多くは弾圧を逃れるために米国西海岸に渡った。

「新聞」という媒体自体、もともと政府批判というスタンスが強く、日本国内でも新聞創刊には自由民権運動家が関わることが多かったが、海外の邦字紙にも似たような傾向があった。

その一つ、1887年に米国サンフランシスコ郊外のオークランドで創刊された邦字紙『新日本』は、部数こそ200部と少なかったが、政治的亡命者のオピニオン新聞だった。米国から日本の新聞社や左派運動家に郵送され、そこを中継して大きな影響を日本全体に与えた。そのため明治政府は1888年、同紙をわざわざ発禁処分にし、発売領布を禁止した。

第一次大戦前の北米の同胞社会には、日本からの留学生や政治亡命者が多く、全般的に知的レベルも高く、その多くが一時期、邦字紙で禄を食んでいた。そうして北米の体験的知識を叩きこんだ記者には、のちに日本のメディアで活躍したものも多かった。

例えばニューヨーク、ワシントンから外交関係の記事を毎日新聞に寄稿した「河上清」、大正から昭和にかけて朝日新聞外報部長として外交・国際評論を書いた「米田実」、戦前に外交・政治評論家として活躍して戦時中にも軍部統制を解明する貴重な記録である『暗黒日記』を書いて戦後出版した「清沢冽」などだ。

ロシア革命の功労者といわれる「片山潜」も、米国亡命中はサンフランシスコで邦字紙の釜のメシを食い、そこからレニングラードに直行して革命に参加したといわれる。

米国日本人移民は、ブラジル移民に比べるといろいろな点が異なった。第一に米国は明治維新後の日本国外交の中軸であり、留学生が常に多く、そこでの知見は日本で認められやすく、帰国することが容易だった。

ところがブラジルは地理的に遠すぎ、日本外交にとっては常に「周辺国」の一つでなかなかった。その結果、同胞社会は日本から孤立した一種の〝文化・思想的なガラパゴス島〟のように独自の移民史を作っていった。

「アカ移民」といわれた安藤全八

小冊子『アンドウ・ゼンパチ』(古杉征己著)の表紙

ブラジル日系社会唯一の移民史研究機関「サンパウロ人文科学研究所」の脇坂勝則顧問と2011年12月に話したおり、興味深いエピソードを教えてくれた。

《アンドウ・ゼンパチは1928年に一時帰国するとき、横浜港の沖で、『なくなくブラジル共産党の党員証をやぶって海に棄てた』といっていたよ。当時の日本にそんなものをもって帰ったら、どうなるか、よく知っていた。当時、アカ移民といわれた人はそう多くないが、彼がその一人であることは間違いないだろう》

アンドウ・ゼンパチ(安藤全八、本名=潔、1900―1983年、広島県広島市)は東京外国語学校ポルトガル語1回生のインテリだ。

アンドウ生誕110周年を記念して、1年間かけて彼の生涯を調べ上げて企画展を実施した古杉征己(人文研理事)は、《陸軍の軍人の子で、幼いころから厳しい教育を受けた。旧制中学の恩師江藤栄吉の影響で中江兆民などを耽読、啓蒙的な思想を抱くようになり、マルクス主義にも傾倒していった》(日本ブラジル中央協会会報『ブラジル特報』2012年5月号)と書く。

アンドウは1924年7月に移民監督として「かなだ丸」に乗り組み、『伯剌西爾時報』記者、『日伯新聞』編集長なども務め、邦字紙とは縁の深い人物だ。

「自分は金に縁のない男だから、『金』という字を分解して、皮肉ってやろう」と「全八(ゼンパチ)」を名乗ったとの逸話は、彼の生き様を象徴するものだ。

彼は戦後、私的勉強会「土曜会」(サンパウロ人文研の前身)を組織したが、結局はブラジルに馴染めなかった。3度の結婚歴を持ち、当地に妻子を残して日本に戦後永住帰国し、最終的に郷里にもどって初恋の女性と再婚するというロマンチストだった。

ブラジルとはすっかり縁が切れたと思いきや、その人生の最後を飾るように岩波書店から『ブラジル史』(1983年)を出版した。帰国したとはいえ、何らかの強い想いが残っていたに違いない。

労働者の権利を弁護して日本に居場所がなくなった松本圭一

エメボイ実習場長時代の松本圭一
(『エメボイ実習場史』31頁)

さらに筋金入りなのは戦前なら松本圭一(1886―1976年、静岡県焼津市)だ。

彼は静岡中学(現静岡高校)を卒業後に仙台二高に進み、海老名弾正から洗礼を受けた。これがキリスト教精神を生涯貫く端緒となり、以来「他人のやりたがらないことを、自分が引き受ける」という信条を堅く抱き実践していった。

帝国大学(現東京大学)農科卒業後、岡山県倉敷市にある大原孫三郎(キリスト教徒、倉敷紡績社長などをつとめ大原財閥を築いた)経営の農業研究所に入所した。

旧師先輩の強い勧奨を受けて1921年4月にジュネーヴで開かれた「第3回国際労働会議」(1919年に創立された国際労働機関ILOの年次総会のこと)に「労働者代表」として出席したことが、彼の人生行路を大きく変えた。

第1回同会議の「労働者代表」が官選されたことに、当時の労働団体が反対運動を起こすなど、教授や官僚に出世していた帝大時代の友人、知人の誰もがやりたがらなかった役回りだった。それゆえ松本は「自分がやらねば誰かが犠牲になる」との信念で引き受けた。

大学の恩師からは「為すべきことは為し、言うべきことは言え」との命を受け、日本政府代表や日本雇主代表らと真っ向から対立する主張を貫き、各国代表からの賞賛を浴びた。松本が主張した「小作人の労働者としての権利」は当時の日本では理解されない国際標準の考え方だった。

結局、松本の意見が同会議で採用されたため、日本の官憲からは非国民扱いされ、封建的な地主代表が牛耳る衆議院で大問題となり、新聞を賑わせるなど松本への風当たりは極めて大きかった。

当時は大正デモクラシーの大波の中にあった。労働組合は1918年には107団体だったが、1923年には432団体と飛躍的に増加し、労働者の権利が声高に訴えられ始めた時期だった。そんな1919年に同会議は始まり、そこで決まった「8時間労働」などの基準が各国の労働組合運動の具体的目標となった。

ほとぼりを冷ます意味もあったのだろう。松本は同会議終了後にドイツなど欧米12カ国をゆっくりと1年かけて海外遊学し、労働問題や社会問題に関する見識を深めて1922年末に帰朝した。

ます夫人と松本(『見よ、拓人の足跡を』第3号、サンパウロ文化出版社、1965年、12頁)

しかし、帰国した日本に松本の居場所はなかった。24年には大原の援助を得て南米一巡し、この時にサンパウロ市イタケーラの土地4アルケールの譲渡受け、移住を決意した。同窓先輩らから農民運動や社会運動に参加するように強く嘱望されたが、松本は南米行きを理由に断り、26年に家族4人と共に渡伯した。

小学校時代の旧友は「もし君が日本にとどまって農民運動に活動したならば今頃は社会党の闘士として、華々しく活躍するであろうと惜しまれもする」(『エメボイ実習場史』増田秀一著、同刊行委員会刊、81年、33頁)との期待をしたためた。もし、日本に残ったら、後述の山崎釼二の盟友になっていたかもしれない。

1931年には「エメボイ実習場」の場長に就任した。同実習場は海外興業会社主導で建設されたもので、「植民地の中堅的指導者を育成」する目的で設立された。海興社長の井上雅二は「皇道の振張」といった国粋主義的指導理念の持ち主で、八紘一宇思想に基づく植民論をもち、実習生にもそれに沿った教育を施そうと考えていた。

ところが、松本はその様なことは全く意に介せず、「自主自奮の精神、自由主義的な教育方針」を貫いた。その結果、「祠堂問題」が起きた。

海興本社は天照大神のご神体(明治神宮のお札)を第一期生に托し、実習場内にそれを安置して祭るための神社建立を指示したが、松本場長は強硬にこれに反対した。「ここにも国威発展主義と永住楽土主義の対立がみられた」と、前述のアンドウ・ゼンパチは『移民四十年史』(49年、香山六郎編著、310頁)で記述している。

エメボイ実習場が創立した当時のブラジルは、ゼッツリオ・ヴァルガスが1930年に革命を起こして政権を握ったばかりの不安定な時期だった。のちに日伯の国粋主義が対立し、日本移民が迫害される可能性が生まれることを見通す目が、すでに松本にはあった。

1931年から約7年間しか運営されなかった実習場だったが、ここから戦後のコロニア(日系社会)文芸、画壇、ジャーナリズムなどを支える人材が多数育った。

卒業生171人の中からは、初期のパウリスタ新聞記者にして後にポルトガル語俳句の普及に尽力した増田秀一(俳号・恆河)、その弟でやはりパウリスタ新聞記者だった増田健次郎、開戦直前に帰国して日本初の勝ち負け抗争をテーマにした長編小説『望郷』(宝文館、1951年)を出版した本間剛夫、ブラジル音楽家協会監督や日伯音楽協会会長などを歴任した戦後コロニア音楽界の指導者・丸山昌彦、植物学者の橋本梧郎、パウリスタ新聞編集長の後にUSP教授になった斎藤広志らなど、師のリベラルな気風を受けついだ戦後日系社会の中核的を担う人物が続々と育った。

興味深いことに、増田兄弟、斎藤広志らは、アンドウ・ゼンパチが戦後に設立した勉強会「土曜会」の主要メンバーになった。どこか肌合いが似ていたのだろう。

同実習場は、ヴァルガスが1937年に独裁政権を樹立してから打ち出した一連の強硬な国粋主義政策の一つ、「外国語学校取締令」(38年)によって活動を停止させられた。松本が予期した日伯のナショナリズム対立が現実のものとなった。

実習場閉校後は、自宅農園のあるイタケーラで農業研究に没頭した。松本が金銭に無頓着な学究肌だったことから、ます夫人は筆舌に尽せぬ苦労をした。「実習場の閉鎖によって収入が絶たれた際の家庭経済は、〝赤貧洗うが如し〟といっても過言ではない状態で、子息たちの教育はままならず、通学するにも裸足で歩いたという。そういう時代にも、学者松本の農事研究の意欲は決して衰えなかった。それだけに夫としての松本、父としての松本に対する家人の〝採点〟は辛い…」(『エメボイ実習場史』43頁)。

松本は同郷者と協力して1930年に静岡県人会を創立し、初代会長に就任し、以来1955年にまで25年間も会長を務め、1976年に90歳で長逝した。

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© 2016 Masayuki Fukasawa

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